2012年8月15日水曜日

続・脳科学と心の臨床 (79)

小脳はどこに行った(4)

ちなみにレヴィン先生は精神分析家でもあるため、脳科学の心への応用を常に考えている。その彼が言うには、小脳が脳全体の活動の統合や協調をになっているという考えは、伊藤先生の師匠であるエクルズ Eccles  が持っていたという。体の運動のバランスだけではなく、心の働きにも、協調や統合が必要であり、そこには小脳の「計算能力」が深く関与しているというのだ。小脳は巨大なデータ処理システム、と言ってもいいだろう。
レヴィン先生の説で特に興味深いのは、小脳が、左右の脳半球のバランスを取っているという説だ。この事はクラインとアルミタージという人たちの1979年の説に由来する。彼らによれば、右と左の大脳半球の活動は「反比例」であるという。つまり両方が同時に、というよりは一時的にどちらかに偏る、ということを常に行っている、つまり大脳は一種のシーソーのような活動であるというのだ。すると「今、この情報を処理するためには、どちらの脳が必要か」を判断してコメントする役割を担う部分が必要となる。それが小脳であるという。
ここで示された大脳の活動は面白い。カヌーをこぐような形なのだ。つまりオールの右をかいて、左をかいて、を交互にしているような感じ。それが両手にオールを持って漕ぐ手漕ぎボート異なるところだ。少なくとも脳の活動はカヌータイプであり、そこでどちらをかくかのバランスを取っているのが、小脳であるという。

ということで小脳に関する短い論考はこれで終わりである。何しろ書いている本人がよくわかっていない。さらには研究自体が小脳をぜんぜん解明しきれていない。レヴィン先生のおかげで、少しその心への貢献を知ることが出来ただけである。したがって、「心理士への教訓」も省略する。(これってどうかなあ?やっぱり小脳はどこかに行ってるなあ。)



「いじめ問題」を考える (6)

排除の力学が示唆すること

排除の力学について書いてきたが、文化的な影響はどうだろうか?排除の力学は日本社会の集団に独特の現象なのだろうか? そしてその顕著な結果として生じる(という前提でここで考えている)いじめもまた日本文化に特異的な現象なのか?
ここで少し目を転じて海外のニュースに注目してみる。私がよく利用するタイム誌のサイトでは、最近では二つのニュース記事が目に付いた。
「いじめについての悲観的なニュースに垣間見る希望」(2011027日)では、最近の調査でハイスクールでは47パーセントの生徒がいじめの被害にあったという。オバマ大統領が、いじめ対策としての計画基金への資金を12パーセント増やすとしたと報告している。この論文はまた宗教上の違いや同性愛などの問題であることを示唆している。たとえばインターネットなどで、「だれだれは同性愛者だ」などといううわさが出回って悩まされるということがあるらしい。2011928日付の「私たちはいじめ対策を再考するべきか?」という記事には、いじめ対策の州の予算が組まれたにもかかわらず、いじめの数が過去10年間で6倍になったという。そして特別な「いじめ対策法案」を制定している州のうち47州で、いじめ関連の自殺が増えているという。
このような報道を見ると、いじめ被害が増えているのはどうやら日本だけではなさそうだが、そこからあまり見えてこないのは、いじめを見て見ぬふりをする集団についてである。アメリカのいじめは個々人の間に生じる事象というニュアンスがより近い。いじめたい策に力を注ぐのは学校専属の心理士やソーシャルワーカーという論調である。
この件についてはアメリカ在住の友達にメールで聞いてみる予定であるが、日本とアメリカでは、暴力事件が起きた際の対応はかなり異なる。学校で学生同士が暴力を働いた場合、警備員や警察が呼ばれるのが通例である。現にSchool Resource Officer” (SRO)と呼ばれる警官を常駐させている学校も多い。暴力は、身体的、言語的を含めて放っておかれることはない。暴行は暴行で、起こした側と被害にあった側がいる。それは事件として報告されなくてはならない。日本のいじめのように、教師も含めた学校全体の雰囲気が、いじめを見てみぬフリをするというところがやはり日本的なのではないか?そしてそれが「いじめを公然と批判すると、自分が排除されてしまう」という排除の力学の最も際立った特徴なのである。