2012年8月14日火曜日

続・脳科学と心の臨床 (78)

小脳はどこに行った? (3)

このまま小脳の説明を続けてもどうかなあ。小脳についての論文は、たいてい理科系バリバリの先生が書いているから、すぐわからなくなり、眠くなる。読者が読んでいるとも思えない。とにかく小脳の構造が、非常に規則正しく、一番コンピューターとか学習理論とかに結びつきやすい。でもそれだけに全体像が見えにくいというか。小脳についての知見が高まっているのだが、一向に心の働き全体への影響が見えないというか。というよりは小脳は運動の学習機能ということに限って論じられ、心の問題には関わって来ないという常識があった。
しかし小脳は脳の高次の機能にもつながっているということがわかりつつある。そもそも小脳が大脳の容積の増大に従ってしっかり大きくなっている、つまり進化しているということがそれを示唆している。そして小脳の出力を探ると、運動野や運動前野(運動の計画、指令を出すところ)だけでなく、頭頂野、前頭前野にも至っていることがわかる。ということはかなり高次の脳機能にも影響を与えていることになるではないか。ということで一気に結論に行けば、フレッド・レヴィンという先生の「心の地図―精神分析学と神経科学の交差点」という本の話になる。

(フレッド・M. レヴィン (著), 竹友 安彦 (監修), Fred M. Levin (原著), 西川 隆 (翻訳), 水田 一郎 (翻訳) 心の地図―精神分析学と神経科学の交差点」 ミネルヴァ書房、2000年。)
彼は小脳の働きについての大胆な仮説を出しているが、それを一言で言えば、中枢神経系を統合し、その協調を行っているのは、小脳ではないか、ということだ。これまで心の座とは大脳の前頭前野、そこへの感覚入力を統合しているのは頭頂連合野、一方無意識を形成しているのは右脳、など、結局は大脳半球ばかりを問題にしていたのだ。まさに心にとっては「小脳はどこに行った?」状態だったのである。しかしレヴィン先生はそうではない、という。(ちなみに彼は数年前に来日し、日本の精神分析協会で講演を行ったこともある。彼にとっても日本は、伊藤正男先生つながりでなじみが深いのであろう。)え?これで一回分?

  「いじめ問題」を考える (5)

排除の力学について

この集団からの排除が行われるプロセスを、集団における「排除の力学」と呼ぶことにしよう。すると集団においては実際には排除が行われていない時も、これが常に働くことになる。自分が排除の対象にならない為にはその集団で起きている問題について指摘できなくなるのだ。私がこの集団における排除の力学を重視するのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめ問題を複雑にしているように思えるからである。
 ここでようやく最近の大津市の事件を例にとって考えよう。今回問題になったいじめを起こした当事者である生徒たち、それ以外の生徒たち、学校の教員たち、教育委員会の委員たち、それ以外のどのレベルの集団にも同じことが起きる。たとえばいじめを目にしても積極的にとめることが出来なかった中学の教師たち。そこには教師という集団の力学が生じ、いじめを止めるという行為がなぜかその空気に反するという状況が生じていた。(ここでは生徒―教師という大きな集団が生じて、そこでいじめを是認したとしか言いようのない事態が生じていたのだろう。)いじめを真剣にとめるという空気は生徒―教員という集団の利益に一致していなかった。だからそれをあえてできなかった・・・・。
教育委員会だって全く同じである。彼らは学校の教員達と一体であり、いじめを認めることは、自分たちの「利益」に反することになる。すると学校と口を合わせて、いじめはなかった(あるいはあっても自殺の原因ではなかった)と主張することになる。それに対して疑問を持っても、それをあえて口にできない委員たちはたくさんいたに違いない。
さて私はこの排除の力学をあらゆる集団のレベルについて論じている。ということはマスコミも、その影響を受けながら生活をしている私たちも入っている。これを書いている私も、この特集に寄稿している他の人々についても言えるだろう。例えば私はこの原稿の依頼を受けてこれを書いている今、私が一時的に属しているこの集団の空気を読もうとしている。この本が店頭に並んで、私の文章を読んだ人が、「これってどうかな」とならないようにするにはどうしたらいいか、など。
この排除の力学を考えると、だれが加害者か、という問題はかなりあいまいになる。ある意味ではこの力学自体が加害者を生み出す張本人ということになる。(「人」ではないが。)そこではいじめを見て見ぬふりをする人々は、それなりに苦しい体験をすることになる。自分がいじめられる側になり、集団から排除されることが目に見えている時、誰があえて声を上げることが出来るだろう? いじめが生じていることを外部から指摘されたら、その人は口をつぐまざるを得ないし、いじめが露呈したら「本当にどうしてこんなことが起きるんでしょうね」という人ごとのようなコメントをするしかない。ある雑誌で、大津市の教育長は、「なぜお役所仕事の対応しかできないのか?」という問いに、「わかりませんね・・・・。私もなぜなのかな、と思っている」と答えたというが、実際にそれが彼の本音に近いと考える。