2012年8月19日日曜日

報酬系の続き (4)

  半ば自虐的に続けているこのテーマも、そろそろわけがわからなくなってきた。Is it going anywhere? という感じだ。もう「続・脳科学と心の臨床」という看板も下ろすことにした。
 さて「快感原則」と「不快原則」について論じたわけだが、私たちが日常的に行う行為の大部分は、この両者が同時に関係している。私たちの行動のほとんどが、快楽的な要素と、不快な要素を持つ。だから常に快感原則と不快原則の綱引きが起きている。ここについ最近論じた小脳の話を持ち込むのならば、最初はこの両原則に支配されて行われていた行動は、なれるにしたがって一部は自動化され、反射的、常同的になり、小脳や大脳辺縁系を介して処理されるようになっていく。つまり昨日論じた三つ、すなわち快感原則、不快原則、常同的本能的な活動の要素は、通常は共存して行動を形成していることになる。
   念のために例を挙げてみる。健康のために自宅の周りを散歩する、という例を考えよう。散歩で小一時間汗を流すのは気持ちいいが、同時にめんどうくさい、という部分も伴うだろう。空模様が悪かったり、ムシ暑かったり、逆に風が冷たい日などは特に「私は何のためにこんなことをやっているんだろう?」と思う時もあるだろう。しかしあなたがその散歩の途中で「やーめた」と道に座り込んだりせずにそれを継続する場合、それは散歩が現実原則に則っている(つまり「快感原則」>「不快原則」となっている)からだということになる。
この場合快とは何なのか。リストアップしてみよう。歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるが、それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。つまり快は、即時的な部分と、遅延している部分により成り立っている。では不快はどうだろうか? 天候がすぐれない時や体調が悪い時などは、歩いている各瞬間が苦痛となるであろう。こちらの方はほとんど即時的なものくらいしか思いつかない。遅延した不快体験というのはこの場合あまり考えられないからだ。「この散歩を続けていたら、将来何か悪いことが起きる」などということは普通はないだろう。さてこの散歩がルーチン化していったならば、それは半ば無意識化され、自動的なものになる。仕事から帰るといつの間にか散歩用のスポーツ着になり、歩き出している、などのことが生じる。その時はいちいちそれが快か不快かを問うことなく、その行動が自然と起きてしまう。
 散歩の例は、快が即時的なものと将来の先取り分という複雑な構造を持ち、不快の方は即時的なものだけだったが、逆の例を考えることも容易である。たとえば喫煙。こちらは快が即時的だ。「こうやって煙草を毎日吸っているのは辛いが、将来きっといいことがある」なんてことはあり得ない。しかし今度は不快の方のリストは実に複雑だ。即時的なものとして「まずい、煙い」などということもあるのかしら。吸ったことがないのでわからない。(いや、若いころ何度か喫うまねごとをしたことがあるが、最悪だった。) しかし「これ喫っていると、どんどん肺が真っ黒になっているんだろうな」とか「肺がんや膀胱がんに確実になりやすくなるだろうな。オソロシイ」などの考えは起きるだろう。これは将来の苦痛を先取りしたものといえなくもない。
  ところでこの議論を続けていると、一つ気が付くことがあるかもしれない。それは私がかねてから口にすることが多い、「すべての行動は、快の追求と、不快の回避の混淆状態である」という提言との違いだ。いったい「快楽原則」と「不快原則」と「不快の回避」はどうなっているのか。それは明日のお楽しみである。(誰も楽しみにしていないって。つーかここまで読んでないだろう。)