2012年8月31日金曜日

まえがき (改稿)

 
  本書の出版元となる岩崎学術出版社によれば、前書「脳科学と心の臨床」(岩崎学術出版社、2006年)は静かに、しかし着々と売れているという。脳と心という題材は著者である私にとっては比較的楽しんで書けるテーマであるため、それでは続編を、ということになった。それが実現したのが本書である。
 それにしても「脳科学と心の臨床」というトピックはトリッキーである。というのも一見明確なテーマのようでいて、ほとんど「心について何でも論じてよい」というのに等しいからだ。言うまでもなく脳は心の座である。およそ脳が関与していない心などあり得ない。脳のあり方が心のあり方を100パーセント支配する。ということは、脳を語ることと心を語ることは本質的には同等のことなのだ。
 以上のことは純粋なスピリチュアリスト(精神論者)でなければ納得していただけるであろう。いうまでもなく私は非スピリテュアリストであり、むしろ唯脳論者である。(「唯脳論」とは養老猛司先生が使い出した言葉である。)脳に根ざしていない心についての議論の多くは空論だと考えている。

 ところで本書は基本的に心理療法家、あるいはそれを目指す人々のために書かれているが、その中には精神論的な考えを持つ人もかなりいらっしゃると思う。それは無理もないことだろう。そもそも臨床心理学は文科系の学問だからだ。彼らの大半は文学部で心理学を学んだはずだし、生物学とか脳科学に興味を持つ人よりは哲学や文学に関心を持つ人の方が多いだろう。私もそれを承知でこの本を書いている。だから彼らの次のような声はすでに聞こえてきている。「心を脳に還元できるわけがないではないか!」
 そして私はそれにも同意しているのだ。むしろそういう人の方が臨床に向いているとさえ思う。第一心を脳に還元しようにも、脳そのものについてわかっていることがきわめて少ない以上、「還元」しようがないのが現状だ。しかしそれらの若干スピリチュアリストが「入って」いる人でも、やはり本書の内容にある程度は納得していただけるように配慮したつもりである。というのもそれらの人でも「心は脳のあり方に影響を受けている」という事実は否定しようがないと思うからだ。そして私の書く内容も、そのレベルでの話である。「脳がこのような仕組みだから心がこのように生まれる」というような議論はほとんどできない。それは私の能力が足りないからだけではない。それほど脳のことは、専門家の間でもわかっていないからだ。しかし「脳がこんな仕組みを持つことが、心の在り方にこのように影響を与えているかもしれない」くらいの議論だったらできるのである。

 ところで本書は、ただの「脳科学の本」ではないことはもうお断りする必要はないだろう。前書(「脳科学と心の臨床」)でもそうしたように、脳についての解説の間に、「臨床心理士へのアドバイス」という項目をあちこちに挿入している。これは読者の皆さんが脳について知ることで、患者に対する見方がどのように変わる可能性があるのかについてのヒントを書いたものだ。正直な話、この部分がなかったら、本書はできそこないの脳の解説書で終わってしまうことは間違いない。分量としては少ない「臨床心理士へのアドバイス」は、実は本書で最終的に言いたいこと、エッセンスのようなものと考えていただきたい。
 いささか屁理屈めいた前書きになったが、読者の皆さんには最後までお付き合いをいただくことを切に望む。

2012年8月30日木曜日

続・脳科学と心の臨床(85)


心理療法家へのアドバイス 3
患者の脳の中で生じるネットワーク同士の連結という現象は、実は伝統的な精神分析が目指すものに一致する。それがいわゆる「洞察」である。
そこで洞察を得るということはどういうことかについて改めて考える。それは非常にシンプルに考えた場合には、二つないしはそれ以上の異なる体験が同一だということを理解することである。ここでフロイトの「科学的心理学草稿」のidentification (同一視)という概念に注目していただきたい。フロイトが脳科学に見せられていた時代に書いた本に多く出てくるこの同一視という概念。実はこれが洞察の基礎となった概念であると私は理解している。同一視とは「ああ、これはあれだったのだ」という現象である。「これはどこかで見たことがある」でもいい。「この味覚は、過去のあの時の感覚と同じなのだ」という形をとることもあるだろう。これがまさにネットワーク同士の連結という現象である。
おそらく同一視のもっとも原初的なものは、「この人は昨日の人と同じだ」というものである。その原型は母親像だ。人に慣れ、甘え、その前で自分を出す相手は、いつも同じでなくてはならない。いつも同じような笑顔、同じようなしぐさ。同じような語り口調。これがその対象との安定した愛着を生む。その人と出会うと、脳の多くの部分が一斉につながって「鳴り」出し、その人と一体化する。そして心地よくリラックスした気分になれる。この体験があると、それから先に出会うひとの中にも、母親を見出すことになるだろう。これもまた同一視である。
子供が行う最も高度な同一視とは、母親に起きていることと、自分に起きていることは同じだという同一視である。ミラーニューロンと同じ話だとご理解いただきたい。共感、ということでもある。精神療法とはいわば、これらの同一視を縦横無尽に行うことと定義して差し支えない。そして同一視の最も重要な局面は、ミラーニューロン機能を先取りして、自分の中に起きていることは、きっと対象(治療者)にも起きているかもしれない、と思えることである。見えない相手に対する配慮、ということが出来るだろうか。
さてネットワークがつながること自体は快感原則に従い、心地よい体験のはずである。しかし・・・・
精神療法はまたつらい体験でもあると考えられている。自分自身についての洞察を得ることは、時には厳しい現実との直面化や、抑圧していた外傷の想起を余儀なくされることになる。これはつながることは快感、という私の主張と一見矛盾するようである。しかしこれは洞察するという現象の両面性を表しているものと考えるべきであろう。あることを理解すること、それ自身に快楽的な部分がある。ただしそれが認めることに苦しさを体験するような事実であったとする。それ自身は苦痛な部分と言えるだろう。
たとえばある患者が友人がどうして自分から敬遠されているかがわからずに苦労をしているとする。治療を進めていくうちに、その患者が友人に対して言った言葉がその友人を傷つけたという理解を得たとしよう。その患者は、一つ腑に落ちたことになり、それ自身には心地よさを感じるかもしれないが、それは同時につらい自責感を生むかもしれないのである。
私は洞察的な治療をつらく感じることのもう一つの理由は、洞察という概念を狭く取り、患者の問題についての洞察ということに限定しすぎているからではないかと思う。それが前提になると、患者の連想が、夢の内容が、失策行為がことごとく患者が気がついていない問題を反映しているという方向になりかねない。洞察イコールダメだし、という事が起きてしまうのだ。これではつらいだろう。むしろ洞察はあらゆることに向かうべきである。自分と他者との間に起きていること。治療者との間に起きていること。世間をにぎわしているさまざまな出来事。それらの間につながりを見つけていく作業を手助けするのが心理療法家本来の仕事だと考えるべきだろう。
最後に重要なアドバイスを忘れるところだった。治療者は患者が同一視することが出来るように、一定の部分を持っていなくてはならない。自分らしさ、と言うことだ。予想不可能な行動や言動は、少なくとも治療場面では慎まなくてはならない。当たり前のことか。

2012年8月28日火曜日

報酬系の続き (11)


快感の条件2  ネットワーク間の連結が報酬系を刺激する
( ちなみにこの内容は2年前のブログと重複している。)

 私たちは、わかった!という体験を大概は心地よく感じる。そしてわかる、という体験とは、ある思考や感覚記憶ともう一つの思考や感覚記憶がつながった状態なのだ。映画や推理小説でも、話が展開していくうちに、前に出てきた伏線となるシーンが思い出され、「ああ、あそこがこう繋がっているんだ。」と感じることがある。たいがいはこれは快感である。このことは、「わかりかけてわからない」という体験に対して私たちが持つ不快感や不全感が間接的に示していることだ。私たちはみな「わかりたい病」にかかっていると言えるが、実はわかる、ということは生命の維持にとって大切なことだ。
では「繋がる」という体験とは、脳科学的にはどういうことか? それはわかりやすく言えば、脳波の活動が「同期化」することである。心理学の実験で、二つの異なる棒A,Bをスクリーン上で動かすと、視覚野で、ABに相当する別々の部分が興奮する。そしてそれらの相は、バラバラなはずだ。何しろ別々の体験だから。ところが二つの棒は実は連動していて、その細い連結部分Cが覆いで隠されていたために、それらは別々のものとして認識されていたとしよう。そこでその覆いを取り去ると、被検者は、A,Bは一つの全体の別々の部分であるとみなすようになる。するとA,Bに相当する視覚野の二つの部分は、相変わらず興奮し、その細い連動部分Cに相当する部分も興奮を見せるのだが、以前と違うところはA,Bに相当する部分は同期化している。つまりサインカーブの相が一致していることになる。相が一致している体験は、一つの繋がった体験なのだ。
生物の脳はおそらくこのとき大部分は快感を覚える。それは彼らの自己保存本能に合致するからだ。全体をわかること、一部の動きから全体を知ること、それは敵から身を守るために必要なことだからだ。サバンナの草むらで、ライオンが身体の大部分を隠している。頭と尾の一部だけが別々に見えているとしよう。それを見ただけでライオンの全体を把握する能力のあるシマウマは生存の可能性が高くなるだろう。だからその種の能力は、快感原則的に保証されている必要がある。人間が物事を「わかる」能力も同様だ。では一番大きな「つながり」を脳が実現したらどうだろうか? ABCDEFも・・・・・みながひとつであるという体験。それは一種の悟りの境地に近く、宇宙といったいとなった状態といっていい。それは狂気のきびすを接していて、同時に・・・・カイカンでもあ

る。それが特殊な薬物で得られるとしたら、ちょっと手放せなくなるだろう。

2012年8月27日月曜日

報酬系の続き (10)

最後に幾つか報酬系の性質についてあげておこう。これは報酬系がどのようにして「鳴る」かということである。

快感の条件1 (20105月のブログから。)
 ある体験が報酬系を刺激して快感を生み出す重要な条件がある。それは過去の体験の反復と新奇さの微妙なバランスである。例をあげよう。私たちはよほど音楽的な才能に恵まれていない限りは、初めて聞く楽曲に心を動かされることは少ない。たいてい何度か聞いて、サビの部分のメロディーを覚え始めるあたりから、その曲が気になるようになる。楽曲はおそらく2030回くらい聞いたころが旬になる。一番感動する時期だ。涙を流すこともある。このころは、曲が半ば頭に再生可能で、しかし細かい部分はまだ不確定な状態だ。つまり十分に慣れてはいずに、その曲の新奇さが残っている状態だ。そのうち聞き飽き始める。かなり聞き飽きそうになったら、半年くらい「寝かせておく」とまた感動がよみがえってくる。しかし再び聞いても、飽きるのも早くなってくる。ということで私は好きな曲はなるべく聞かないようにしているのが得策だ(?!)。
ちなみにこんな内容を、去年の春、NHKFM番組に北山修先生に呼んでいただいた時に話した。その流れを追ってもう少し書くと・・・・
 
ところで曲を好きになることと、恋愛とは似ている。親しみが増し、でも慣れ切っていないような相手が一番「好きな」相手なのだ。ただし好きな相手の場合、飽きないように何年も「寝かせておく」わけにはいかない。相手も古くなるし、こちらも古くなるからだ・・・・。
 
とにかく慣れと新奇さのバランス、である。言い方を変えれば、全く自分の血肉化して、新鮮さのないものは、私たちを惹き付けることはない。完全に知ってしまえばおしまい、ということだ。これは人に当てはまるだろうか?性的な意味ではそうかもしれない。しかし人間として、という意味であれば異なる。人は毎日姿を変え、新鮮でいられることができるからである。

2012年8月26日日曜日

続・脳科学と心の臨床 (84)


心理療法家へのアドバイス2

「自らにとって快感なものを人は信じる」という原則に立つ

人はこれこそ自分が信じるもの、というものを持つことが多い。福原愛ちゃんにとっては、それは卓球だろう。五嶋みどりさんにとってはバイオリンに違いない。故小此木啓吾先生にとっては精神分析だったはずだ。また中には「自分から競馬を取ったら何も残らない」、という人もいるかもしれない。「自分は覚せい剤なしにはいられない」という人もいるはずだ(コマッタモノダ)
 心理療法を行なううえで大切なのは、人はそれぞれ自分の好みや癖や習慣を有するだけでなく、ある種の信条belief に支配されているということである。Belief を日本語にすると、つい信条とか、信じていること、という風になるが、要するに自分にとって「これだ!」と思ったり感じたりできることである。そしてそのbelief に沿う形で広がっていく体系がbelief systemというわけだ。それは自らの報酬系にフィットした一定の考え方、感じ方の複合体であり、それが報酬系を刺激する限りは人はそこから動こうとしない。人はどうしてそのようなbelief に固執するかを尋ねられた場合に、何らかの理屈を口にするかもしれない。しかしもちろんそれは理屈ではなくて口実に過ぎない。上では覚せい剤依存の人の例まで出したが、覚せい剤がbelief であると言っているわけではない。覚せい剤を使用している自分を肯定できるようなbelief system ということだ。どうしてそんな自分をbelief system にすることが出来るかって? だから報酬系とはそういうものなのだ。気持ちいいものが正しいもの、「これしかない」ものになってしまう、それほどに私たちは報酬系に支配される運命にあるのである。
 しかし私はここで「心理療法家は患者がそれぞれ持っているbelief を変えることはできないから何をしても無駄である」と言おうとしているわけではない。「心理療法家は患者のbelief を受け入れるということからしか治療は始まらない」ということを主張しているのだ。すると次のような反論は必ず来るだろう。「患者のbelief system は病理を含んでいるはずであり、それをそのまま受容することは治療に反するのではないか?」この点については、コフート的な考え方に従えばいいだろう。患者は治療者に、そのbelief を受け止めてくれることで理解されていると感じた地点から、そのbelief について同時に感じる問題点についても話すことが出来るのである。
 例えば過食嘔吐がある人の気持ちを私はおそらく本当の意味では分からない。自分にその経験は事実上ないからである。でも私の目の前でそれを訴える人の話を聞きながら、そして過食嘔吐に苦しんでいる人と話した経験で補強しながら、それを受け入れようと努めるだろう。受け入れるのは過食嘔吐という問題だけではなく、それをその文脈の中に含むような患者のbelief system ということになる。それは基本的には快感原則に従うために、それを容易にやめることが出来ないという事実である。「それからどうするのか?」と人は問うかもしれないが、患者にとってはそのbelief system を理解されるという体験自体にすでに意味があったりするのだ。

2012年8月25日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (83)


報酬系から見た心理士へのアドバイス (1)

 報酬系について書き連ねてきたが、私は報酬系について知ることは、人の観察の仕方や、人への臨床的なかかわりに一定の指針を与えてくれると考えている。報酬系に注目することは、ある意味で私たちに人間に対するシニカルなまでに現実的な見方を示してくれる。それは人は結局快楽的な体験に導かれる、ということだ。たとえそれが利他的な行為であっても。そう、この点は重要なのである。人は利他的な行為と快感原則に従った行為を区別する傾向にある。一方は利他的で、他方は利己的、と。しかしこの区別はあまり意味のないことである。両者は十分に共存しうるし、そもそも利他的なことが本人にとっても心地よくない限りは、その行為は続きようがないのである(ただし例外についてもすでに説明してある。それは本能として脳に埋め込まれたものだ。動物界では、一見利他的と思われる行為が本能に導かれた行動として最初からプログラムされていることが実に多いことに驚く。)
 
利他的な行為とは、他人を利することが自分にとっても快感を及ぼすような行為である。このように表現しても、当たり前のようにしか聞こえないかもしれないが、「私は自分を殺して、人のために尽くしているんです」と本気で考えている人にとってはある種の洞察を提供するかもしれない。「でもそうすることが自分でも心地よいのですね。つまりこれは自分のナルシシズムの満足でもあるわけです。」別言すれば、ナルシシズムの関与しない愛他性は存在しない、ということだ。そこで・・・

アドバイスの1. 報酬系の理解に基づく人間関係の基礎としての「Win-win の原則」
(以下、2年前のブログの内容を部分的に転用。)
 私は5年余り前から、週に3回大学院の教師として働くことになったわけだが、それまではもっぱら医師のみの立場で働いていた。だから教師としての在り方に慣れるのには時間が少しかかったが、そこでわかったことは、患者さんも学生もあまり変わらないということである。ただし誤解しないでいただきたい。学生さん達が精神科的な問題を抱えているといっているのではない。私としては学生にも患者にも同じような心構えで対面すればいい、ということがわかったのである。それは一言で言えば彼らはどうように「お客様customers」だということだ。これを知ってから、少なくとも学生との間は平和的にやれている。
 その同じような心構えやそれに基づいた接し方とは、つまり彼らがあってこそ私がある、という関係を理解し、前提とすることだ。彼らがこなければ(治療に来る、教室に授業を受けに来る、という意味で)、あるいは彼らが満足しなければ私も仕事のやりがいがない。仕事が苦痛になるだろう。ということは彼らと私がwin-win (相手も得をし、自分も得をするという意味の英語的表現)になる状況を探すことが最前提になる。逆に言えば、それを考えてさえいれば、あまり仕事上で迷うことはないのである。(もちろんこちらがそのつもりでもうまく行かないことが時々あるのは当然であるが。)
 このwin-win の原則は、しかし案外忘れられがちなのである。一番多いパターンは、自分がやっていることが当たり前である、と思い込むことであろう。患者は来て当たり前。授業には生徒が出て来て当たり前。他方では相手側にとっては受診や受講をして直接win するものがなく、ただ単位をとるため、薬をもらうため、ということになるとお互いに不幸になるだけだろう。そのことに気付かないというパターンが多いのだ。
このwin-win の原則は意外に便利だ。少なくとも人間関係でどうもしっくりこない時、実は自分の思っているwin-win と相手のそれが食い違っている場合、ないしは自分のwin が相手のwinよりいつの間にか大きくなりすぎて、事実上 win-lose の関係になっている場合であることが圧倒的に多い。だからその場合はそうなっている理由を一つ一つ検討すればいいわけである。つまりは人間関係がうまく行かないとしても、「私が悪い」からではなく、win-win 状況の把握が間違っている、計算違いをしている、ということになるを考えればいい。これは自分を過剰に責めなくてもいい、ということだ。しかし独りよがりもできないということになるだろう。
さてこのような原則はことごとく患者の人生にも当てはまる。患者の話を聞いていると、その人生上の様々な問題、特に対人関係についての訴えが多い。そこで対人関係がうまく行っていない場合、どこかにWin-winに従っていない部分があるとみて検討を患者と一緒に進めていく。非常に多くの場合、患者は自分がwin しすぎである一方、相手がwinしているものがあるのかについて、その見当すらしていないことが多い。あるいは相手にwin させすぎて自分自身がちっともその関係から得るものがなかったりする。
 Win-win 状況を作るということは、実はある意味で高い対人観察能力を必要としている。自分とのかかわりで、相手は何を求め、何を得ているのか。患者がこれを探ることを援助するのは、心理療法のもっとも基本的なテーマとすらと言えるのだ。内観にも似たような考えがみられるかもしれない。

2012年8月24日金曜日

報酬系の続き (9)


 報酬系の話が面白いのは、私たちの日常生活にかなり重要な関わりを持っているからである。報酬系の刺激とは、いわば私たちが一日を生きていく上で獲得するご褒美のようなものだ。報酬系が程良く刺激されることは、一日の生活が比較的心地よく送れることを意味する。私たちが仕事場や学校で時間を過ごす時、そこでの業務(勉強)や同僚(友達)との交流などを通じて、ある程度の楽しさを味わっているのがふつうである。いわばそれをあてにして日常を送っているようなところがある。もちろんあてにした分の報酬が得られる保証はなく、その多寡に応じてその日の気分が変わったりすることも多い。また一方で快の量が予想されれば、他方では苦痛分も予想される。これは日常生活を送る上で必然的に伴う苦痛であり、それを覚悟しつつ私たちは毎日を送っているわけだ。
 一日の快の総計と不快の総計は、大体の予想は可能でも様々な条件によりその量が左右されるが、自分自身でコントロールすることのできる快もある。その典型は、ゲームやパチンコ、酒、食事等、遊興や飲食に関わることである。これに関しては私たちはあまり譲りたいと思わないものだ。否、頑強に固執するものである。(自分の生活習慣を考えるとよくわかる。)
 この問題について、2010年の5月に私は次のような内容をこのブログにしたためた。大部分はそのまま使えそうだ。

 私たちの脳は、おそらく非常に精巧な計算を行なっていることに気がつく。それは一種の貸借対照表のようなものを作り上げていることになるのだ。それは例えば次のように働く。「今日は仕事を終えたらうちに帰ってビールを飲もう。確か冷蔵庫には缶ビールを二本冷やしているはずだ。」缶ビール二本、という量がとりあえずあなたを満足させる量であるなら、それを思い浮かべた時点で、ある種の満足が得られる。あなたが安心して帰宅できるのは、もうそのビール2本がすでに手中にあると思えているからだ。そしてそれはビールのことを考えていないときにも、常に脳の中に刻まれている。すると冷蔵庫を開けたときに、ビールが一本しか見当たらないときの失望もまた保障されているのである。
 脳の中の貸借対照表においては、これを「貸し」に記入してあるだろう。その記入はかなり正確で、例えばそのビールの銘柄まで、冷えている温度さえも記入されているだろう。そしてあなたはそのビールを飲むということを忘れて寝てしまうという可能性はかなり小さい。気になったテレビの番組を見るのを忘れても、友人からのメールに返事をするのを怠ったとしても、缶ビール二本は消費される。それにより貸しが返されることで、最終的にバランスシートはプラスマイナスゼロになり、あなたはゆっくり床につくことができるだろう。(もちろんメールを出すこと、気になっていた番組を見ることが、日中から何度も頭を掠め、それを想像上で実現することで喜びを得るほどに重要であったら、もちろんそれらについても、対照表に大書きされ、その遂行に特別注意が払われることになるだろう。)
 同じことは「借り」についても言える。例えば友人にメールの返信をすることが苦痛で、かつ必ず行なわなくてはならないことであるとしたら、その労働を行なうことについてはもうあきらめて、ビールに手を伸ばす前に済ますかもしれないし、のどの渇きを癒してからの一仕事として取っておくかもしれない。こちらはその「借り」を返すことでとりあえずは心のバランスを元に戻すことができるのだ。これについてもバランスシートは正確である。もしこの苦痛な仕事を忘れていたとしても、「何か一仕事が残っていたはずだ・・・」という感覚を持つということでその「借り」記載をあなたに教えてくれる。それを行なうことなく一日を終えることにどこか後ろめたさを覚えるのは、いわばこの対照表からのアラームなのである。

2012年8月23日木曜日

報酬系の続き(8)


私たちの苦痛の多くは、その多くが、すでに獲得したものを喪失して行く過程で生じることなのだ。(ご存知なかった方もいらっしゃるかもしれない。)すでに獲得したものには、すぐに慣れてしまい、当たり前になって行く。すると今度はそれを失うことが苦痛になる。もし当たり前にならなければ、それを失うときの苦痛もごく少なくてすむのだが・・・。
例えば先日のロンドンオリンピックのメダル獲得選手の祝賀パレードで、水泳の北島選手は少しさびしそうだった。最後には銀メダルも取れたのに。そしてそれは過去の二大会で金メダルを4つも獲得しているからなのだ。すると今回も、という自分自身の欲も出る。周囲も期待する。「メダルは取って当たり前」、になる。すると胸に銀メダルを下げていても、彼には喪失体験になってしまうのだ。
人生の上で「金メダル」を取ること、賞をもらうこと、成功すること、それは嬉しいことだが、災いの元であるといっても過言ではない。将来の不幸をほぼ約束しているからだ。
読者は思うかもしれない。では獲得したものを当たり前に思わなければいいのではないか? 獲得したものを偶然の賜物、と思えば、それがなくなっても痛みを感じないのではないか? もちろんそうである。でもそれはある意味では人生を楽しまない、ということになってしまう。それは普通の人間には起きないことなのだ。楽しまないと決めても、脳はすでに楽しんでしまう…。ということでまた報酬系の話。
報酬系的に言えばこうである。レースに勝ち、金メダルを獲得したという時点で、ドーパミン作動性ニューロンのトーンが否が応でも上がる。それは快感を味わってしまったということであり、あとはそれを失うことが約束されてしまったのである。
ここでこんな思考実験を考える。喜んだときのドーパミンニューロンのトーンは、こんな風に描ける。

 

 しかし話はこれでは終わらない。その先を追ってみると、実はこんなことが起きている。
 

ここでマイナスの部分に落ち込むのはなぜか。それは金メダル選手としてのプライドが、少しずつ揺らぐからだ。それにこのサージはおそらく金メダルをもらったという事実だけでなく、それにより世間に騒がれ、周囲からちやほやされることの喜びも入っているだろう。するとそのうち世間は新しいヒーローをもてはやすようになり、試合に出ても金メダリストとしてのプライドを保つような記録を出すことが出来ないということで少しずつこの喜びが目減りしていく。またいったんもらったメダルは誰かに奪われることはないが、将棋や囲碁などのタイトルは、次の年に奪われることで、今度は上向きの山の高さと同じ深さの谷(苦痛)を経験することになるのだ。

2012年8月22日水曜日

報酬系の続き (7)


快の錬金術の補足-快を新生する力

ところで「やらなきゃいけないこと」を「やって達成感!」に変えることは、快を生むことだ、と言ったが、これには補足が必要だ。なぜなら両方とも最初から快のリストに初めから載っていたのではないか?ということはその総計は変わらないのに、快が新たに生まれる、とはどういうことか?人は他人ないしは環境から何かを与えられることなく、自分から快を新生することなどできるのだろうか? ここのところを改めて考えてみたい。
つまりこうだ。最初はいやいやながら散歩を始める。その時は目の前に快がなかなか見えない。「メタボになるのが嫌だから、と昨日決めたから」とか「三日坊主になるのは嫌だから」という消極的な理由ばかりである。しかしこれも一応快のリストに載っている。不快のリストには山ほどある。かったるい。疲れる。足のウオノメが痛い。巻爪もズキズキする(新登場!)これだけの逆風で、よくも散歩が続けられるものである。しかしこんな感じで日常生活を送っている人は多い。仕事などもこんな感じかもしれない。
この散歩が少しでの快の要素を含んでいるとしたら、「ああ、今日はもう散歩をしなくてもいい」「今日のノルマは終わった。これから23時間は散歩から解放される」(よほど嫌いらしい)という安堵感なのである。でもそのうち人はこの散歩を楽しむようになることもあるのだ。ああ、今日も散歩がしたい。もちろんごく一部の人がこうなるのだが、ある程度の楽しみを感じられるようになる人は結構いるものである。これは大変なことなのか? それともアタリマエのことなのか?
そこに絡んでくるのが先日も述べた私たちの持つ忘却の力である。人は生きていくうえで多くの傷つきや、恥ずべき体験を持つ。それは大きな苦痛を伴う。しかしそれは通常は徐々に忘却されていく。不快は消失していくのだ。同様のことは快についても同じである。獲得した喜びは徐々に忘却される。そのうち当たり前のようになる。このような忘却の力はもろ刃の剣といえる。(ちょっと比喩、違うかな?)私たちを過去の辛い思い出によるストレスから守ってくれると同時に、不幸にもすると言えるだろう。つまり失ったものを再獲得する楽しみに変える力が与えられていると同時に、過去に自分を幸せな気分にしてくれたものが、あっという間に色あせてしまう、ということも起きてしまう。
散歩の例で言えば、健康診断の結果が思わしくなく、日課としての散歩が必要となったということ自身は不快体験であるが、それに慣れるに従い、健康な体を取り返すことへの希望や喜びが大きくなる。
ここで先ほど問題になっている快の新生について考えてみる。これは新生というよりは、実はかなりの部分が「忘却分」として説明できるのではないか、というのが私の主張である。私たちの人生の楽しみは、実はかなり過去に失ったものの痛みを忘却した分からなる。そしてもちろん同じことは苦痛についても言える。

2012年8月21日火曜日

報酬系の続き (6)


きのう書いたことを少し言い換えてみよう。人は、不快の回避を達成感に転換することにより、現実原則をよりシンプルにすることが出来る。つまり「しなくちゃいけない」ことを「頑張ってやれた、えらいぞ!」的なことに置き換えることで、より快適な人生が送れるのである。

例として、一日一時間の散歩の話に戻る。最初は億劫だった散歩。しかし自分のルーチンと決めて、それを達成した自分をほめるということが出来るようになったとしよう。するとその散歩は「より楽しく」なる。努力の名人などと呼ばれる人たちは、大抵こういう錬金術を行っている。

この種の錬金術は、私たちはある程度生得的にもっていると考えていい。それは私たちがある程度の喪失体験にはあきらめ、慣れるからだ。そうするとその喪失が埋められることを獲得として感じ取る。10万円入りの財布を無くして落ち込んだあなたは、もう出てこないと思っていたその財布が一週間後にソファーのクッションの隙間から出てきた時は、「やったー、10万円ゲット!」となるのである。散歩のルーチンについても、自分の仕事と思ってあきらめることにより、苦痛度は減り、達成感へと変換するであろう。

ちなみにこのような変換を行えるためには、ある程度の精神の健全さが必要である。もっとシンプルに言ってしまえば、うつや強迫を伴っていないということである。人間はある程度の心のエネルギーがあれば、「しなければならない」ことを、「しないと不安なこと」 → 「すると安心できること」 → 「すると喜びを感じられること」へと変えることはさほど困難ではない。特に「しなきゃいけない」ことがそれほど苦痛なことではなく、「めんどくさい」程度のことなら、いったんそれに集中すると案外スムーズにできたりする。するとその行動自体の快を増すこともできる。面倒くさい散歩も、歩き出したら案外楽しい、ということもあるだろう。そして歩き終わった後は「今日もルーチンをこなしていい気持だ」となる。しかしこの種の芸当が一切できなくなるのがうつ病なのだ。うつになると、普段面倒に感じていたことなどは、およそ実行不可能になる。初めても少しも楽しくない。集中力により乗り切る、という力も残されていないのだ。

強迫は強迫でこれまた厄介である。ある行動(強迫行為)をしないことの不安が、理由もなく、病的に襲ってくる。散歩の途中に目に入る電信柱を数えないと不安になり、それで疲弊してしまったりする。強迫は、まさに自分の生活にかかわる行動のことごとくが「しなきゃならない行動」になってしまう。その「しなきゃならない」リストには、自らの強迫が生み出したさまざまな行動の詳細が付け加わるからだ。

「不快の回避」の「快の獲得」への転換には、個人の工夫や創造性も発揮される。散歩をした後はカレンダーに大きな丸を付ける、でもいい。新しいシューズを買って、歩きながらその履き心地を楽しむ、でもいい。またそんなお金もなかったら、カミさんに自慢する、でもいい。(でもカミさんが少しはほめてくれないとあまり意味ないが。)仕方がなかったら自分をほめてあげる、でもいい。

このような能力を発揮しているのは、主として前頭葉である。特に後背側前頭前野(dorsolateral prefrontal cortex)は、将来にわたる行動のシミュレーションに携わる部位である。この部分は自分がある事柄をどのように実行していくかのタイムテーブルを作成することに貢献する。努力の天才のありかは、ここら辺にあるのだ。


http://www.psych-it.com.au/Psychlopedia/article.asp?id=191 から拝借

2012年8月20日月曜日

報酬系の続き(5)

  
 さて「快感原則」と「不快原則」と「不快の回避」との関係だ。これらはどのように脳の中で打ち合うのだろうか?
 一つ打ち明けると、実はこれまで「快感原則」、つまり気持ちいいことはやる、としていたところに、「不快の回避」というファクターも含まれていたのである。不快の回避はしばしば安堵感を生むので、それも快感と呼んでしまおう、ということだったのだ。しかし実は不安の回避と快感を一緒にするわけには行かない。
 たとえばムチを持った飼い主の前でお預けをしている犬の話を思い出していただきたい。犬がえさに突進せずにお預けを守っているという行為について考えると、まず快感のリストは、そうすることでえさを将来確実にもらえることへの先取り快感と、ムチ打たれることへの恐怖の回避が数えられる。そして不快のリストは、今えさを口にできない苦痛である。ホラ、快のリストに実は「不快の回避」が含まれていたではないか。考えてみれば最初から不快の回避をこのお預けの行動を分析する際に、しっかり数え入れておくべきであった。何しろまったく快の要素がなく、「不快の回避」だけの行動というのもいくらでもあるからだ。たとえば犬がムチをもって追いかけてくる人から必死になって逃げているという場合などはそうだろう。
 ところで「すべての行為は快の追及と不快の回避の二つの要素からなる」という提言には、ちょっとしたトリックがある。これは「その行為を起こさないという行為」と表裏一体だからだ。先ほどの犬のお預けの例で、逆にお預けを破ってえさに突進するという行為を考えよう。こちらは快のリストには、えさを頬張るという快楽が来て、不快のリストにはムチ打たれることの苦痛という項目が来る。後者が大きいので、この行為は妨げられることになる。つまりある行動を起こすことは、それを起こさないことを「しないこと」となる。(お預けを守るということ=お預けを守らずにえさに突進するということをしないこと。)するとある行為の快のリストには、その行為をしないことによる不快の回避、という項目は必然的に含まれることになる。アタリマエだ。それが「不快の回避」の正体であったのだ。
  ちょっと複雑な散歩の例に戻ってもう一度考えよう。快のリストとしては、歩くこと自体の心地よさ、体にいいことをやったという達成感の先取りが来る。不快のリストとしては、歩くことによる足のウオノメのかすかな痛み(新登場!)を考える。さて散歩における「不快の回避」は?そもそもこの散歩は、「最近体重が増え気味でメタボ体型になってきた。そこで何か体にいいことをやろう」と思い立ったからであった(とは書いていなかったが、そういうことにして欲しい。) つまりは「不健康になってそのうち死んでしまうのではないか」という不安感という不快の回避であった。やっぱりこれにも不快の回避の要素は含まれていたわけだ。
  ところで最後の「死んでしまう」は常には意識に上がってこないのではないだろうか?というのも「このままで行くと徐々にメタボリック症候群がひどくなり・・・・」という想像は簡単には浮かばないからだ。(少なくとも私の場合。)それはテレビのメタボの特集の番組などを見てようやく身につまされる程度なのだろう。まだ糖尿病が発症した、というわけでもないだろうし。しかし「メタボで死んでしまわないように」というのは散歩を始めた根本的かつ重要な動機だったのだ。ということはこの不快の回避はどこかに行ってしまったのだろうか?いつも意識にあってほかの項目と競争してくれなくては困るではないか? 実はそれは形を変えて、快のリストに依然として残るのだ。これは、たとえば達成感、安堵感に書き換えられるというのが私の考えだ。散歩を終えて「今日もいいことをした!」という達成感の根拠を調べていくと、あの時番組を見て、メタボ予防の重要さを知ったから…」ということになるが、いちいちそんなことを考えなくてもいい。「これはいいことなのだ。これができたのは達成なのだ。オレって偉いんだ。」と置き換えておけばいいことになる。すると「不快の回避」の項目の値は減って、より純粋な快の部分が増えていく。これが「快の錬金術」である(また例によって新しい概念の無責任な創作である。)

2012年8月19日日曜日

報酬系の続き (4)

  半ば自虐的に続けているこのテーマも、そろそろわけがわからなくなってきた。Is it going anywhere? という感じだ。もう「続・脳科学と心の臨床」という看板も下ろすことにした。
 さて「快感原則」と「不快原則」について論じたわけだが、私たちが日常的に行う行為の大部分は、この両者が同時に関係している。私たちの行動のほとんどが、快楽的な要素と、不快な要素を持つ。だから常に快感原則と不快原則の綱引きが起きている。ここについ最近論じた小脳の話を持ち込むのならば、最初はこの両原則に支配されて行われていた行動は、なれるにしたがって一部は自動化され、反射的、常同的になり、小脳や大脳辺縁系を介して処理されるようになっていく。つまり昨日論じた三つ、すなわち快感原則、不快原則、常同的本能的な活動の要素は、通常は共存して行動を形成していることになる。
   念のために例を挙げてみる。健康のために自宅の周りを散歩する、という例を考えよう。散歩で小一時間汗を流すのは気持ちいいが、同時にめんどうくさい、という部分も伴うだろう。空模様が悪かったり、ムシ暑かったり、逆に風が冷たい日などは特に「私は何のためにこんなことをやっているんだろう?」と思う時もあるだろう。しかしあなたがその散歩の途中で「やーめた」と道に座り込んだりせずにそれを継続する場合、それは散歩が現実原則に則っている(つまり「快感原則」>「不快原則」となっている)からだということになる。
この場合快とは何なのか。リストアップしてみよう。歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるが、それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。つまり快は、即時的な部分と、遅延している部分により成り立っている。では不快はどうだろうか? 天候がすぐれない時や体調が悪い時などは、歩いている各瞬間が苦痛となるであろう。こちらの方はほとんど即時的なものくらいしか思いつかない。遅延した不快体験というのはこの場合あまり考えられないからだ。「この散歩を続けていたら、将来何か悪いことが起きる」などということは普通はないだろう。さてこの散歩がルーチン化していったならば、それは半ば無意識化され、自動的なものになる。仕事から帰るといつの間にか散歩用のスポーツ着になり、歩き出している、などのことが生じる。その時はいちいちそれが快か不快かを問うことなく、その行動が自然と起きてしまう。
 散歩の例は、快が即時的なものと将来の先取り分という複雑な構造を持ち、不快の方は即時的なものだけだったが、逆の例を考えることも容易である。たとえば喫煙。こちらは快が即時的だ。「こうやって煙草を毎日吸っているのは辛いが、将来きっといいことがある」なんてことはあり得ない。しかし今度は不快の方のリストは実に複雑だ。即時的なものとして「まずい、煙い」などということもあるのかしら。吸ったことがないのでわからない。(いや、若いころ何度か喫うまねごとをしたことがあるが、最悪だった。) しかし「これ喫っていると、どんどん肺が真っ黒になっているんだろうな」とか「肺がんや膀胱がんに確実になりやすくなるだろうな。オソロシイ」などの考えは起きるだろう。これは将来の苦痛を先取りしたものといえなくもない。
  ところでこの議論を続けていると、一つ気が付くことがあるかもしれない。それは私がかねてから口にすることが多い、「すべての行動は、快の追求と、不快の回避の混淆状態である」という提言との違いだ。いったい「快楽原則」と「不快原則」と「不快の回避」はどうなっているのか。それは明日のお楽しみである。(誰も楽しみにしていないって。つーかここまで読んでないだろう。)

2012年8月18日土曜日

続・脳科学と心の臨床 (82)


報酬系の続き(3

「快感原則」「不快原則」の間を埋めるのが反射的、常同的、本能的な活動
昨日のブログでは、人や犬の行動を「快感原則」と「不快原則」の両方に支配されたものとして描いた。でもこれらに支配されるということは、ある意味で高等な生物に特徴的なのだ。なぜなら想像力をそれだけ必要とするからである。下等動物ではこうは行かない。今年の522日のブログで、私はこんなことを書いた。「ヒメマスの親は、産卵の後、一生懸命砂や小石を卵の受けにかけてその卵をカモフラージュする、という行動を行う。ヒメマスはそれが快感だろうか?うーん、複雑な問題だが、少なくともその一連の行動は自然に起きてしまうようなプログラムがあるとしか考えられない。」
つまり親ヒメマスがひれをパタパタやっている時、「ウーン、ここでやめちゃうと、自分は親ヒメマスとして失格だし・・・・あと3時間ぐらいは続けよう。
」とか「わが子が元気に孵ってくれるように、真心を込めて水を送ろう・・・」などと考えているだろうか?ありえないだろう。彼らは無心に、自動的に、無意識的に、常同的にそれを行なう。それはすでに一つの回路として脳の中にプログラムされている。それは本能の一部というわけだ。生物が高等になるにつれて、この本脳によるいくつかの行動の間に隙間ができてくる。それと快、不快の主観的な体験のレベルは比例している。そしてその隙間に働く自由意志が、快楽原則、不快原則の天秤にかけられるようになるのだ。本能に従った行動は、快か、不快かって?おそらく緩やかな快なのだろう。例えば人は歩いているときに、その歩く行為について意識化していないことが多いが、歩くことは快だろうか、不快だろうか?不快ならおそらく道に座り込んでしまうだろう。ひれをパタパタしているヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。基本的に本能に従った行動はそれ自身が緩やかな快を生むであろうし、それはその本能的な行動が中止されないための装置なのだ。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うために、当然強烈な快に裏打ちされていなくてはならない。メスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。

2012年8月17日金曜日

続・脳科学と心の臨床 (81)


報酬系の続き(2
むしろ「快感原則」と「不快原則」の共存か?

このテーマに入ってから暴走気味で、おそらく誰もフォローしていないだろう。学問(これも?)とは孤独なものだ。
 さてイグアナには無理で、犬や人には可能なこの快の遅延をどのように説明するのか
? もし動物の行動が、快感を得る方向に水路づけられているとしたら、お預けの行為はそれとは逆になる。快感原則は、その瞬間には不快を選択させているという奇妙な現象が生じる。どうも最初の前提、すなわち「人(犬も)は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。理屈はむしろ後からついてくる。」がどうもアヤしい。そこでやはり考えなくてはならないのが、人は不快を回避するという原則にも縛られているという考え方だ。いくつも原則を作るのは抵抗があるが、仕方がないので、こちらは「不快原則」と呼ぶことにする。やはりこの二つを考えなくては理屈に合わなくなるのである。こういうことだ。人(犬)は常に、次の瞬間にある行動を選択した場合の快と、不快を別々に査定し、比べている。そしてその絶対値の多い方を選択しているのだ。目の前の餌に突進するという行動は、それによる快と、不快を比べた上で、例えば不快の方が大きい、という判断のもとに抑制される。査定の結果が逆だったら餌に突進することになる。もちろん査定が間違っていることはある。するとその時点で行動は方向転換することになる。
 このように考えると、快を遅延していると思われた行為は、実はその間じゅう不快を回避し続けていることになりはしないか? つまり犬は遠い先の報酬を見つめて我慢しているというよりは、各瞬間に鞭を打たれることを回避しながら、刹那的に生きているにすぎないのであろう。だから餌を前にした犬たちは、今にも突進しそうな衝動と戦っているために、あのように居ても立ってもいられない様子を示すのだ。
人間のためにもう少し体裁のいい例を考えよう。例えば砂漠の向こうにオアシスが見える。喉の渇いたあなたはそこまで苦労して歩いていく。これは快の遅延のように見える。しかし足を止めることはおそらく耐え難いことなのだ。別に歩みを止めることでムチに打たれるという訳ではない。しかしそれは水を口にするという時間が遅れるということを意味し、それが耐えがたいのではないか? するとこれだっては快の遅延というほど高尚なことではないかもしれないのだ。
 ということで人が快感原則と不快原則の両方に支配され、どちらか優勢な方に従うという原則を何と呼ぶべきだろうか? もうこれは「現実原則」としか言いようがない。そしてこれもフロイトが使った概念である。ちなみにイグアナは快の遅延が出来ず、お預けも無理だろうという話だったが、ちょっと誤魔化しがあった。イグアナだってお預けは出来るであろう。目の前のキャベツの向こうに、天敵のカラスの姿が見えたら、それが去ってしまわない限り、「お預け」にならざるを得ないだろう。おそらくこの種の現実原則に非常に適応しているから、これらの生物は生き残っているのである。



いじめの問題を考える(8

内藤朝雄氏の「いじめの構造」(講談社新書、2009年)を読む。結構圧倒される部分がある。彼の言う「群生秩序」と「普遍秩序」という分け方が好きだ。私が言う排除の力学は彼の言う「群生秩序」において発揮される。それを彼はこういっている。「今・ここ」のノリを「みんな」で共に生きる形が、そのまま、畏怖の対象となり、是/非を分かつ規範の準拠点になるタイプの秩序である。難しいが言わんとしていることはわかる。そして「いじめの全能筋書の三つのモデル」として①破壊神と崩れ落ちる生贄 ②主人と奴婢 ③ 遊び戯れる神とその玩具、というのが出てくる。ここら辺は実際のいじめの現場に入り、それをつぶさに観察した筆者ならではの記述が見られる。
私がいじめの現場の描写を呼んでいて思ったのは、これはまさに弱肉強食の世界、動物界の出来事と同じだと言うことだ。弱肉強食のことを英語でrule of jungle というが、まさに野生のサルの世界で起きているような事態が学校で起きる。そしてそこで特徴的なのは、教師もその一員であり、ある意味ではボスざるだと言うことだ。ボスざる(教師)は手下のさる(いじめを行う生徒)には甘く、普通の生徒には厳しい。また力のない教師は生徒以下の扱いを受けかねない。
私はこの本を読みながら、アメリカの思春期病棟での体験を思い出した。病棟は閉鎖社会であり、少し似たようなことが起きやすい。医師は一番の力を持ちながら、下手をすると力の強い看護師に圧倒されると言うことがある。私があるとき一緒に働いていた看護師長は非常に気分屋でサディスティックな40代の白人男性だった。彼といると一時も気が抜けない。私に対しては丁寧な口調を保つものの、ニコリともせず、ひ弱な東洋人(私のこと)を小ばかにしているのがミエミエだった。そしてたとえば病棟全体が一つの船に乗り込み、漂流したら、この男がたちまちボスになり、私などいじめにあい、ひとたまりもないな、と思ったものだ。
さてではどうして漂流する船ではそういうことが起きるのか?なぜジャングルでは同じようないじめが横行するのか。それは外部の秩序の欠如なのだ。私が小学生のころ、学校の秩序は保たれ、いじめなどはあからさまに起きる余地はなかった。それは教師が圧倒的に怖かったからだ。しかし教師は怖いばかりではなく、やさしくもあった。少なくとも毅然としていた。人はそのような外部の力により秩序を保つ。外部の強制力がなくなったらすぐにでも野生に戻るようで情けないが、外部の強制力は、少なくとも秩序を破ろうという発想を奪ってくれる為に、平和な生活が出来る。学校のいじめの元凶は、その圧倒的な閉鎖性にあるだろう。
内藤朝雄氏は学校に警察や法を持ち込むことを「解除キー」と呼んでいるが、それは群生秩序が外部の秩序を意識することで解体する為の決め手だろう。私が米国の状況を書いたときもそのような意図があった。ウーン。他にもいくつか本を読んでみよう。



2012年8月16日木曜日

続・脳科学と心の臨床 (80)

報酬系の続き (1)

 報酬系については、この「続・脳科学と心の臨床」を5月に開始した冒頭で、何度か論じただけである。しかし私にとっては極めて重要なテーマなため、今後しばらくこのテーマについて深めていきたい。実はそもそもこの「気弱な精神科医」のブログを始めた時、動因というテーマに絡めて論じたかったのもこのテーマであった。
まず今年の5月21日から数回連続して論じたことのおさらいをしたい。人は快感中枢の刺激を求めている、というテーマについて論じたのだ。「人は突き詰めれば快感を追求して動くのであり、理屈で動くのではない。理屈はむしろ後からついてくる。」こういう前提で出発した。では何が人の快感中枢を刺激するかということが、実はきわめて込み入っているのだ。ちょうど私たちが何を美味しいと感じ、どんな絵画を美しいと感じるか、というくらいに千差万別で、偶発的で、そこに理由らしいものはない。たとえば私がなぜ最近毎日昼ごはん代わりに「すいかバー」を食べているのかに理由などない。何となく食べるようになったわけだ。
人は快感に従って動く、というこのシンプルな原則を「快感原則」と呼ぼう。フロイトが論じたそれとだいたい一致している。ただしこの快感原則はいくつかの障害にすぐぶつかる。すくなくとも二つの壁がすぐ思い浮かぶ、と私は言った。一つはどうやって快感を遅延する、ということが可能なのか?という問題、そして快感を求めるのではなく、不快の回避の為にも人は動く、という問題だ。
 快感をどうして遅延できるか、という問題について。これは私にとっては大問題である。人は快感を味わうことをなぜ先延ばしに出来るのか?
今年の5月22日、23日のブロクでは、途中は省略するが、最後にこのような結論を出しておいた。

 報酬系ではドーパミン系のニューロンの興奮が常に一定のレベルで起きている。そして目の前にケーキを出されて、しかもそれを自分が食べていいのだ、と知った時に、その興奮のトーンが上昇して、またもとに戻る。これが「うれしい!」「やった!」という反応なのだ。後はそのトーンは実際のケーキを食べている時も余り変わらないという。しかしその代わりにケーキを食べることが出来なかったらどうなるか?例えばいざ口に入れようとしたら、そのケーキを誰かに取り上げられたりしたら?そのケーキを床に落としてしまったら?あるいはそれが蝋細工であるということを知ったなら?・・・・そのドーパミンニューロンの興奮のレベルが今度は一時的に落ちるのだという。

 そこで報酬系とは、実際の快ではなく、快の予想に関して反応する仕組みであると考えられている。
ということで結局快感中枢と、快感評価システムを分けて論じることになる。これについては実は2010年のブログでPES pleasure evaluating system (快感評価システム)と名づけて論じたことがある。話はここから再開する。でも少しは進歩がありそうな予感がする。
あるユーチューブの映像で、犬の「お預け」のシーンを見た。何匹もの犬が、餌の入ったボールを前にして、飼い主の合図を待っている。ある犬はよだれをダラダラ流している。大抵の犬は居ても立っても居られない、という動作をしながら、でも決して餌に口を付けない。もしそんなことをしたら、飼い主のムチが待っていることをよく知っているからだ。(もちろんそのように調教してあるのである。)そして犬たちは、飼い主の合図により一斉に餌のボールに突進する。これを一匹の犬ではなく、それを十匹以上の犬が行うから壮観である。これが快の遅延の一例である。
これまでの説明から、快感中枢で起きていることを見てみよう。目の前に餌のボールを出された時点で、ドーパミン作動性のニューロンの興奮が生じる。「やった、餌だ!」という感激である。そしてそれはすぐ止む。「やった!」感はいつまでも続かないからだ。それから犬は二つの査定を繰り返す。今すぐに餌を口にする時の快感。「ウマい!」。そして飼い主の許可なしに餌を口にすることでムチに打たれることを想像した「イタい、コワい!」。両者を比べて後者の方が凌駕しているから犬は「お預け」を選択するのだろう。逆なら・・・・ムチに打たれながら餌を頬張るしかない。
 ただこの種のお預けが出来る動物には、一定のレベルの知能が備わっていなくてはならない。それが創造力だ。イグアナに「お預け」はむりだろう。目の前の行動を起こすことで同時に生じる苦痛を査定する力、つまりは想像力が備わっていないからだ。その代わりイグアナは遠くに認めたキャベツを求めて這って行くくらいの苦労は厭わないだろう。(ちなみにイグアナは草食だそうである。)それは想像力を働かせた満足体験の遅延ではないか? たぶんそうではないだろう。それはおそらくイグアナに備わった、おそらく反射に近い行動なのだろう。餌とみなされるものが目に入った時に、そこに接近するという行動自体がもう脳にプログラムされている。


「いじめ問題」を考える(7)


いじめ問題について書いているうちに結構量が溜まって来たので、結局はブレインストーミングのままであった。マテリアルとしてはこんなものしか出てこない。
 最後に私が言いたいこと、若干の極論を書いておきたい。人間は社会的な動物である。そして社会的な動物は集団からの孤立に大きな危機感を持つ。そこで時には個を消して集団に迎合するということが起きる。そしてそこに関わって来るのが、私の述べる「排除の力学」である。この力学が働く限りいじめはなくならない可能性がある。日本独特の「ムラ社会」的な閉鎖性そのものが続いていくのだ。もちろんそれを防ぐための装置を社会が設けることはある程度は可能だろう。ある集団の外部から監視し、働きかけるような仕組みを作ること。例えば学校とは独立した機関が各校に派遣されて、いじめの実態を調査するなど。しかし派遣された人も敵陣に乗り込むようで苦労するだろう。その人がうつになったりして。私はオリンパスの元社長マイケル・ウッドフォード氏の事を考えるが、私は事情は詳しくは知らないものの、閉鎖的な者の体質を改善するべく乗り込んだ彼が体験したことも別バージョンの「排除の力学」だったのだろうと思う。会社の会計監査なんて、酷いもんだ。外部から来た人も、すぐに外部性など失ってしまうほど、排除の力学(への恐れ)は強い。
ではどうして日本社会でいじめ問題がこのような形で起きているのだろうか? 昨日のブログで紹介したように、いじめの問題は、例えばアメリカ社会では幼児虐待やネグレクトと同列の形として論じられているという印象を与える。つまり個から個への加害行為というニュアンスが強く、それが集団から個へという形を取ったとしても、それをさらに包み込む集団からの無言の支持を得るといった日本型のいじめにはならないようだ。そしてここからが私の極論だが、これは日本人が対人場面で持つ感受性の高さが関係しているように思う。日本人はたとえ個人の意見や感情を持っていたとしても、他人の前ではその表現を控えることが多いが、それは相手の感情を感じ、たとえ二者関係でも空気を読んでしまう、というか「読めて」しまうからではないだろうか? 
 私が米国人の集団にいていつも感じていたのは、この種の感受性の希薄さ、なのである。彼らは他人の前で自己主張をするとともに、相手を非難し、厳しい言葉を浴びせる。それは聞いていてハラハラするほどである。ただしお互いが直接的な表現を交わすということに慣れている社会なので、簡単に気色ばむことはなく、むしろ理詰めで相手を問い詰め、あるいは説得するという習慣が出来上がっている。
米国の軍人病院である上級医師について回っていた時のことである。米国での研修が始まって間もない頃だった。神経内科の病棟を回診していたら、ある悪性腫瘍を病んでいた患者が、その医師のもとにやってきて「先生、私の腫瘍はひょっとしたら良性、ということはないでしょうか?」と尋ねた。彼はいかにも頼りなげで不安そうであった。するとその患者の主治医である上級医師ドクターDは極めてきっぱりと「いや、悪性腫瘍です。」と言い切った。患者はいかにも悲しそうな表情で過ごすごと去って行った。私は「こんな時、日本だったら少しは言葉を濁すか、もう少し柔らかい言い方をするのではないか? やはり文化の違いだな。」と思った。ドクターDはラテンアメリカからの移民で強い南部なまりを持っていたが、それから更に彼の事を知ると、その気持ちの通じなさ加減は相当のものであった。いつもにこりともせず、冗談も通じないのだ。ロボットと一緒にいるような感じ。何を考えているのか分からない。しかしそれでいて彼と一緒の研修が終わると、食事に連れて行ってくれたりもする。アメリカ社会ではこんなレベルの交流が普通なんだ、と思った記憶がある。お互い相手をある程度以上には気持ちをわかろうとせず、それで均衡が保たれている関係。それはそれで悪くない、とそのうち思うようになった。少なくともドクターDは、患者に嘘はついていないという意味では自分の役割を果たし、ある種のマナーを守っているのだな、と思うようにもなったのである。
ただし排除の力学のもう一つの要因があるとすれば、日本人の均一さであろう。皆が同じような顔をし、同じ髪の色と眼の色をしているから、相手を数段高いレベルで理解してしまう。理解しえないと言っても、アメリカ社会のように、相手を得体のしれない、何を考えているか分からない人としてかまえるようなあの緊張感はない。何しろ向こうでは、高校に行っても、クラスメートと喧嘩をすると、相手がカバンからピストルを取り出すかもしれない社会なのだ。もし日本の外国人がこれからますます増え、職場でもクラスでも3人に一人が外国人という社会になれば、おそらく排除の力学の働き方は違ってくる。
ということで私のこの小論は、あまり「どうやったらいじめを無くすことが出来るか」ということへの積極的な提言にはなりそうもないが、日本人におけるいじめを理解するうえでの一つのヒントになることができたらと思う。
しかしこれ、相当の書き換えが必要となりそうだ。このままじゃとても出せないだろう。いじめの問題は、日本人が感受性が高いからだ、というのは支離滅裂に聞こえるかもしれない。でも日本人の感受性の高さは、いじめを生むと同時にもてなしや集団に支えられる心地よさも生んでいる。いまだにre-acculturation の終わっていない私にはそれが特に強く感じられる。

2012年8月15日水曜日

続・脳科学と心の臨床 (79)

小脳はどこに行った(4)

ちなみにレヴィン先生は精神分析家でもあるため、脳科学の心への応用を常に考えている。その彼が言うには、小脳が脳全体の活動の統合や協調をになっているという考えは、伊藤先生の師匠であるエクルズ Eccles  が持っていたという。体の運動のバランスだけではなく、心の働きにも、協調や統合が必要であり、そこには小脳の「計算能力」が深く関与しているというのだ。小脳は巨大なデータ処理システム、と言ってもいいだろう。
レヴィン先生の説で特に興味深いのは、小脳が、左右の脳半球のバランスを取っているという説だ。この事はクラインとアルミタージという人たちの1979年の説に由来する。彼らによれば、右と左の大脳半球の活動は「反比例」であるという。つまり両方が同時に、というよりは一時的にどちらかに偏る、ということを常に行っている、つまり大脳は一種のシーソーのような活動であるというのだ。すると「今、この情報を処理するためには、どちらの脳が必要か」を判断してコメントする役割を担う部分が必要となる。それが小脳であるという。
ここで示された大脳の活動は面白い。カヌーをこぐような形なのだ。つまりオールの右をかいて、左をかいて、を交互にしているような感じ。それが両手にオールを持って漕ぐ手漕ぎボート異なるところだ。少なくとも脳の活動はカヌータイプであり、そこでどちらをかくかのバランスを取っているのが、小脳であるという。

ということで小脳に関する短い論考はこれで終わりである。何しろ書いている本人がよくわかっていない。さらには研究自体が小脳をぜんぜん解明しきれていない。レヴィン先生のおかげで、少しその心への貢献を知ることが出来ただけである。したがって、「心理士への教訓」も省略する。(これってどうかなあ?やっぱり小脳はどこかに行ってるなあ。)



「いじめ問題」を考える (6)

排除の力学が示唆すること

排除の力学について書いてきたが、文化的な影響はどうだろうか?排除の力学は日本社会の集団に独特の現象なのだろうか? そしてその顕著な結果として生じる(という前提でここで考えている)いじめもまた日本文化に特異的な現象なのか?
ここで少し目を転じて海外のニュースに注目してみる。私がよく利用するタイム誌のサイトでは、最近では二つのニュース記事が目に付いた。
「いじめについての悲観的なニュースに垣間見る希望」(2011027日)では、最近の調査でハイスクールでは47パーセントの生徒がいじめの被害にあったという。オバマ大統領が、いじめ対策としての計画基金への資金を12パーセント増やすとしたと報告している。この論文はまた宗教上の違いや同性愛などの問題であることを示唆している。たとえばインターネットなどで、「だれだれは同性愛者だ」などといううわさが出回って悩まされるということがあるらしい。2011928日付の「私たちはいじめ対策を再考するべきか?」という記事には、いじめ対策の州の予算が組まれたにもかかわらず、いじめの数が過去10年間で6倍になったという。そして特別な「いじめ対策法案」を制定している州のうち47州で、いじめ関連の自殺が増えているという。
このような報道を見ると、いじめ被害が増えているのはどうやら日本だけではなさそうだが、そこからあまり見えてこないのは、いじめを見て見ぬふりをする集団についてである。アメリカのいじめは個々人の間に生じる事象というニュアンスがより近い。いじめたい策に力を注ぐのは学校専属の心理士やソーシャルワーカーという論調である。
この件についてはアメリカ在住の友達にメールで聞いてみる予定であるが、日本とアメリカでは、暴力事件が起きた際の対応はかなり異なる。学校で学生同士が暴力を働いた場合、警備員や警察が呼ばれるのが通例である。現にSchool Resource Officer” (SRO)と呼ばれる警官を常駐させている学校も多い。暴力は、身体的、言語的を含めて放っておかれることはない。暴行は暴行で、起こした側と被害にあった側がいる。それは事件として報告されなくてはならない。日本のいじめのように、教師も含めた学校全体の雰囲気が、いじめを見てみぬフリをするというところがやはり日本的なのではないか?そしてそれが「いじめを公然と批判すると、自分が排除されてしまう」という排除の力学の最も際立った特徴なのである。

2012年8月14日火曜日

続・脳科学と心の臨床 (78)

小脳はどこに行った? (3)

このまま小脳の説明を続けてもどうかなあ。小脳についての論文は、たいてい理科系バリバリの先生が書いているから、すぐわからなくなり、眠くなる。読者が読んでいるとも思えない。とにかく小脳の構造が、非常に規則正しく、一番コンピューターとか学習理論とかに結びつきやすい。でもそれだけに全体像が見えにくいというか。小脳についての知見が高まっているのだが、一向に心の働き全体への影響が見えないというか。というよりは小脳は運動の学習機能ということに限って論じられ、心の問題には関わって来ないという常識があった。
しかし小脳は脳の高次の機能にもつながっているということがわかりつつある。そもそも小脳が大脳の容積の増大に従ってしっかり大きくなっている、つまり進化しているということがそれを示唆している。そして小脳の出力を探ると、運動野や運動前野(運動の計画、指令を出すところ)だけでなく、頭頂野、前頭前野にも至っていることがわかる。ということはかなり高次の脳機能にも影響を与えていることになるではないか。ということで一気に結論に行けば、フレッド・レヴィンという先生の「心の地図―精神分析学と神経科学の交差点」という本の話になる。

(フレッド・M. レヴィン (著), 竹友 安彦 (監修), Fred M. Levin (原著), 西川 隆 (翻訳), 水田 一郎 (翻訳) 心の地図―精神分析学と神経科学の交差点」 ミネルヴァ書房、2000年。)
彼は小脳の働きについての大胆な仮説を出しているが、それを一言で言えば、中枢神経系を統合し、その協調を行っているのは、小脳ではないか、ということだ。これまで心の座とは大脳の前頭前野、そこへの感覚入力を統合しているのは頭頂連合野、一方無意識を形成しているのは右脳、など、結局は大脳半球ばかりを問題にしていたのだ。まさに心にとっては「小脳はどこに行った?」状態だったのである。しかしレヴィン先生はそうではない、という。(ちなみに彼は数年前に来日し、日本の精神分析協会で講演を行ったこともある。彼にとっても日本は、伊藤正男先生つながりでなじみが深いのであろう。)え?これで一回分?

  「いじめ問題」を考える (5)

排除の力学について

この集団からの排除が行われるプロセスを、集団における「排除の力学」と呼ぶことにしよう。すると集団においては実際には排除が行われていない時も、これが常に働くことになる。自分が排除の対象にならない為にはその集団で起きている問題について指摘できなくなるのだ。私がこの集団における排除の力学を重視するのは、結局このような事態が日本社会のあらゆる層に生じることで、いじめ問題を複雑にしているように思えるからである。
 ここでようやく最近の大津市の事件を例にとって考えよう。今回問題になったいじめを起こした当事者である生徒たち、それ以外の生徒たち、学校の教員たち、教育委員会の委員たち、それ以外のどのレベルの集団にも同じことが起きる。たとえばいじめを目にしても積極的にとめることが出来なかった中学の教師たち。そこには教師という集団の力学が生じ、いじめを止めるという行為がなぜかその空気に反するという状況が生じていた。(ここでは生徒―教師という大きな集団が生じて、そこでいじめを是認したとしか言いようのない事態が生じていたのだろう。)いじめを真剣にとめるという空気は生徒―教員という集団の利益に一致していなかった。だからそれをあえてできなかった・・・・。
教育委員会だって全く同じである。彼らは学校の教員達と一体であり、いじめを認めることは、自分たちの「利益」に反することになる。すると学校と口を合わせて、いじめはなかった(あるいはあっても自殺の原因ではなかった)と主張することになる。それに対して疑問を持っても、それをあえて口にできない委員たちはたくさんいたに違いない。
さて私はこの排除の力学をあらゆる集団のレベルについて論じている。ということはマスコミも、その影響を受けながら生活をしている私たちも入っている。これを書いている私も、この特集に寄稿している他の人々についても言えるだろう。例えば私はこの原稿の依頼を受けてこれを書いている今、私が一時的に属しているこの集団の空気を読もうとしている。この本が店頭に並んで、私の文章を読んだ人が、「これってどうかな」とならないようにするにはどうしたらいいか、など。
この排除の力学を考えると、だれが加害者か、という問題はかなりあいまいになる。ある意味ではこの力学自体が加害者を生み出す張本人ということになる。(「人」ではないが。)そこではいじめを見て見ぬふりをする人々は、それなりに苦しい体験をすることになる。自分がいじめられる側になり、集団から排除されることが目に見えている時、誰があえて声を上げることが出来るだろう? いじめが生じていることを外部から指摘されたら、その人は口をつぐまざるを得ないし、いじめが露呈したら「本当にどうしてこんなことが起きるんでしょうね」という人ごとのようなコメントをするしかない。ある雑誌で、大津市の教育長は、「なぜお役所仕事の対応しかできないのか?」という問いに、「わかりませんね・・・・。私もなぜなのかな、と思っている」と答えたというが、実際にそれが彼の本音に近いと考える。

2012年8月13日月曜日

続・脳科学と心の臨床 (77)

小脳はどこに行った?(2

「どこに行った」と言ってもねえ。どこにも行っていないのである。ただ何となくこれまでは軽んじられているというか。ただ小脳にはいくつの特徴がある。それは小脳に限っては、その構造がかなり明らかになっているということだ。大脳に関しては、その皮質は6層構造ということになっているが、かなり場所によりばらつきがある。しかし小脳はどこをとっても規則正しい3層構造をなしている。ネットで検索するときれいな絵が出てきたので拝借する。


http://www.glycoforum.gr.jp/science/word/glycolipid/GLA02J.html より拝借
小脳皮質は顆粒細胞からなる顆粒層、プルキンエ細胞(英語で言えばパーキンジャーセル。最初何の事だか分らなかった。)からなる層、そしてゴルジ細胞、バスケット細胞、星状細胞からなる分子層という三層構造。ここにどのような信号が入ってきてどのように抑制されて、ということがわかっている。細胞の数は膨大である。顆粒細胞だけで500億、と言われている。何か巨大な装置が、脳全体の働きを補助し、支えているらしいということになった。そしてこの小脳皮質の細胞の働きを調べていくと、それは一種の学習を行う機関であるということがわかってきた。
ちなみにそもそも神経回路を3層構造に分け、それが学習の機能を持つというモデルがすでにあった。ローゼンブラットという人が1950年代に提出していた「パーセプトロン」の概念である。これはいわばコンピューター理論と脳科学を合体させたような理論であったが、1970年代になり、小脳の細胞が構成する3層構造が、まさにこのパーセプトロンである、という理論が提出された。ここらへんに昨日名前の出た伊藤正男先生の貢献があったことになる。
このパーセプトロンが行っているのは、例えばある行動を行った際に、それが誤差を生じたという信号を受け取り、その行動をより正確にしていくという作業である。たとえば利き手とは異なる手で字を書く、という練習をする。最初は全く字にならないものが、徐々に形を成していくだろうが、そこで少しずつ正確に字を書けるようになる際には、力の入れ加減、ここの指の筋肉の使い方などに関して数限りない学習を繰り返していく。それを行っているのが小脳のこのパーセプトロンだと考えられるのだ。


いじめ問題について (4)

ここら辺からが本題であり、最も難しいところだ。まだまだ思いつきのレベルであるが、自分の経験に基づいて考えていきたい。ある集団の凝集性を高める条件はいくつかある。一つは利害の共有だ。言うまでもないだろう。そして集団にとっての共通の利益に貢献することは、より強力な形でその個人を集団に結び付ける。オリンピックの団体競技で活躍をした選手は無条件でその存在を肯定され、歓迎されることになる。逆にその利益を守ろうとしない行動をとる人は、それだけでグループから排除されることになる。
もう一つは、敵ないしは仮想敵の存在である。集団はしばしばある種の信条beliefを共有するが、その信条にはしばしば「~ではない」「~に反対する」「~を排除する」という要素が含まれる。そうすることでその信条はより枠づけされ、鮮明になる。そしてその敵を非難したり、それに敵意を示すことは、当然そのグループの凝集性に貢献することになる。
さてこの二つの条件は、ほぼそのまま仲間はずれ、村八分を生む素地を提供する。集団の共通の利益に反した行動を行ったり、集団の仮想的とみなせるような集団に敵対しなかったり、その味方をしたとみなされるメンバーは、その人を排除することがその集団の凝集性を高めることになる。そしてここが肝心なのだが、そのようなメンバーが存在しないならば、人為的に作られることすらある。これがいじめの始まりだと考えられる。
ここで皆さんは思うかもしれない。どうして仲間外れを作らなくてはならないのか? 仲間外れ作らなくても、集団の凝集性を高めることができるのではないか?しかしそれはかなりの部分、その集団のリーダー次第というところがある。ある集団が凝集性を保つ際にそのリーダーの存在は大きい。もちろんリーダーがいなくても、すでに人が何人かが集まるだけでその集団の空気が生まれ、それがメンバーたちを支配することになるだろう。しかしそこにリーダーが存在して空気を支配する場合には、その凝集性は一気に高まる可能性がある。そしてそのリーダーが持つサディズムが上記の二番目の条件を駆使することで、すなわち仮想敵をを排除することで、その凝集性を高めようとした場合、そこに仲間外れが創りだされる可能性は非常に高くなる。
ところである種の仲間外れができかけた場合に、別のメンバーが集団に対して「どうして彼を除外するのか。彼も仲間ではないか?」と訴えることは極めてリスキーなことである。なぜならグループを排除されかけている人を援護することは、その人もまた排除されるべき存在となりかねないということを意味するからだ。「みんなが仲良くしよう」というメッセージは事態を抑制するどころか加速させる可能性がある。こうしてグループから一人が排除され始めるという現象は、それ自体がポジティブフィードバックループを形成することになり、事態は一気に展開してしまう可能性があるのだ。