2012年7月24日火曜日

続・脳科学と心の臨床 (58)


右脳の話はこれからも続くのであるが、ここでちょっと一休みをして、私自身の素朴な疑問。アラン・ショアは偉大な精神医学者で、精神分析、脳科学、発達理論のすべてをカバーしつつ膨大な論文を書いている碩学であることはわかった。心を扱う学者としては最も高い素養を備えた研究者と言える。しかしやはり彼は分析の人間なのである。一般にアメリカにおける神経精神分析学の流れは、「フロイトが言っていたのは、実は~だったのだ」と、結局フロイトを礼賛するニュアンスがある。フロイトが無意識といっていたのは、実は脳科学的にはどこどこの部分のことであった・・・・。でもそれは「フロイトの先見の明は大したものだ」と、古典的な分析家を満足させるのはいいとしても、どうも牽強付会という観を免れない。
右脳イコール無意識という仮説の妥当性を検討する為の一つの素材を提供しよう。いわゆるスプリットブレインという、左右をつなぐ脳梁を切断した人の所見が知られている。彼らの右脳と左脳に別々にアプローチをすることが出来るようになる点が非常に興味深いわけだが、左脳は左脳で指示に応答するし、右脳もまた同様である。ただ左脳には言語的にアプローチするのに対して、右脳には非言語的に、たとえば絵などによりアプローチするだけだ。右脳は右脳で、左脳は左脳で、それ自身が覚醒できるのである。よく引き合いに出される例では、患者の左手が奥さんの首を絞めようとしていて、右手の方は、その手を振り払おうとするといった動作が見られる(The Right Mind. Robert Ornstein. Hartcourt Brace & Company, 1997.)。
これは一見精神分析的にも説明できる気がする。右脳の無意識は奥さんの首を絞めようとする。左脳の意識はそれを止めようとする。この人は脳梁を切断する前には、奥さんの首を絞めたいという無意識的な願望を常に抑圧していた、ということになるだろう。しかしこれほど単純なのだろうか。たとえば同様の動作は多重人格の人々にも見られる。とすれば右脳は右脳で一つの意思を持った人格を形成しうる、とは考えられないだろうか。それとも左右の脳は、脳梁という連絡路が存在している限りにおいて、左の言語脳が右の感情脳を押さえ込むという形で、右脳に無意識的な役割を与えるというわけであろうか?