2012年6月29日金曜日

続・脳科学と心の臨床(32)

動的でも無意識的な行動はある

ところで能動的な行為と意識的な行為とは同じものなのだろうか? 当たり前な質問のようだが、実は微妙な問題である。実は能動的に行なっていても、意識されにくい行動もあるのだ。例えば上の例に示したような、歩く、という行為はどうか?私たちは普通歩いている時、「まず右足を出して、次は左足を出して・・・」と意識的に歩いている訳ではない。ということは半ば無意識的な行為ということになる。しかしそれはやはり能動的な歩く、という行為といえる。なぜなら「ではあなたは受動的に歩かされているのですか?」と問われれば、「いえ、そんなことはありません。ちゃんと自分で歩いていましたよ」と答えるだろうからだ。ということは能動的だが無意識的な行為ということを私たちは考えていることになる。
ではそもそも意識的な行動とは何か?意識的な行動とは、結局は前頭葉の活動を伴っているものだということになる。そういう時にfMRIを撮ってみると、前頭葉が少し明るくなっているはずだ。意識の座は前頭葉にあるのだ。私たちは普通何かを最初に行う時は注意深く、一つ一つの動作を計画し、結果を予想し、そして実行する。全部前頭葉機能である。
同じ歩く、という行為でも、例えばしばらく病床で過ごした人が、歩く練習をする際、最初の一歩は意識的なものとなるはずだ。そしてもちろん能動的な行為である。ところがそのうち歩くことに慣れて来て、当たり前になって来ると、能動的ではあってもあまり意図的ではなくなる。つまり前頭葉をほとんど使わないことになる。その時は例えば小脳とか大脳基底核に活動の場が移っていく。
この説明がわかりにくいとしたら、もうちょっと別の言い方をしてみようか?意識的な行為は、それが問題なく行われ、熟達するに従い、ルーチン化され、自動化される。自動化されるということは、つまり体が覚える、と言っていい。手続き記憶として定着することだ。これが無意識的な行為、ということと等価なのである。そしてそれは前頭葉の活動をさほど必要としなくなる。小脳その他が肩代わりするからだ。小沢さんだったら「秘書がやっている」状態になる。ただし「やっている」感だけは痕跡として残る。これが能動的だけれど無意識的な行為なのだ。
さて私たちの毎日を考えると、実はこのように自動化されている活動が実に多い。ということは私たちの活動の大半は、意識的ではない行為、すなわち無意識的なものとなるのである。

さてこのことと、「能動的な体験・・・・実は脳が勝手にさいころを転がしている」 ということはどう関係あるのか? それはルーチンとして自動化されている運動に変化が生じた時に、それが意識されるという順番が、いかにもある種の偶発時 → 意識化 という順番だからである。ルーチンの作業が意識化されるのは、「いつもとは違う何か」を脳が知覚し、前頭葉に知らせなくては、という状態なのだ。その際の前頭葉が欠ける最大のバイアスは、「うん、これはちゃんと自分が意図的になっているんだ。」という一種の錯覚に近い能動感なのである。