2012年6月23日土曜日

続・脳科学と心の臨床(30)


能動的な体験・・・・実は脳が勝手にさいころを転がしている
私たちがあることを意図して行う時、「今自分がこれをやっているのだ」という感覚はごく自然に生じる。たとえば手を伸ばして目の前のコップを取り上げる、という動作がそうだ。しかしこのような動作は細かく見た場合には、かなり「無意識的」なものの連続により成立していることに気が付く。そもそも最初の手を伸ばすという行為からして、どこまで自発的かはわからない。あたかも私たちの意識は「手を伸ばす行動をする命令をいつでもいいから体に出しなさい」という命令を脳に投げかけて、あとは脳が勝手にさいころを転がして、その瞬間を適当に決めて行っている、というところがある。そしてここが大事なのだが、いざ手を伸ばすという行動が開始すると、私たちはそれを意外に思うのではなく「ほら、私が意図したとおりに手を伸ばし始めているぞ」という能動感を得る。これは一種の錯覚といっていいであろう。
脳がさいころを転がす、というのはさいころを転がす瞬間を私たちは本当は知らないからだ。そしてそれを証明して見せたのが、531日に紹介した「マインドタイム」のベンジャミン・リベ(ット)の実験である。被験者に、「指を好きなときに動かすように」という命令が出される。するとある瞬間にそれを自分に命令したと感じた人の脳の脳波は、実は必ずそれより0.5秒前に動きを開始している。その動きが実は脳がさいころを転がす瞬間なのである。
この能動性の感覚は様々なのものまで及ぶことが知られる。たとえば私たちが歩いたり呼吸したりするという行為は、かなりの部分が無意識的に行われているが、それでも「自分が呼吸をしている、歩いている」という感覚を与えるだろう。無意識的に行っている、ということは脳の呼吸中枢や運動やからの信号が必ずしも私たちの意識野に上っていない、ということであるが、それでも私たちはそれを自発的に行っている、という感覚を持つのだ。ちょうど派閥の親分は、手下のやっていることにいちいち関与をしていなくても、自分の支持でやっているのだ、という感覚を持つように。小沢さんは秘書の現金の授受に関しては「知らなかった」そうであるが、それはむしろ例外的である。
時間的には意識に上らないはずでも、それを能動的に行っているという感覚を私たちは持つ。たとえば陸上競技のスタートの際を考えるといい。
陸上競技では合図から0.1秒以内に反応するとフライングと判定される。正常ならどんなにがんばっても、音に対する身体的な反応は医学的に見てそれ以上かかることが知られているからだ。しかしいつ来るかわからない刺激に対して待ち構えている場合、普通の人で0.2秒ほどはかかるとされる。「光源が光ったらボタンを押すという単純な反応を調べると、一流選手でさえ0.2秒かかります。そこから青と赤ふたつのランプを用意したり、選択肢が増えると反応時間は増加していきます。しかも全身運動の場合だと、単純反応に約0.1秒がプラスされます」生島淳 新世代スポーツ総研 剛速球を科学する 人間は何キロの球まで打てる?http://number.bunshun.jp/articles/-/12200
それなのにトップアスリートはこれを0.1秒まで圧縮されていくわけである。そのプロセスはまさに脳がピストルの音を聞いてから足の筋肉を収縮させるというループにバイパスを設けていくかということになる。そしてそれは当然意識的なプロセスを迂回していく。しかしアスリートはそれでも「自分はピストルの音を聞いてスタートしたのだ」という能動的な感覚を持つであろう。ところがそれはピストルの音を聞いて、一歩踏み出した後に事後的に、いわば錯覚として作られるといっていいのだ。