2012年5月22日火曜日

続・脳科学と心の臨床(2)

ちびは薄目を開けているだけのことが多い。しかし昨日私が帰宅したときは、しっぽを振る筋肉が動いたことが分かった。夜は獣医さんの往診。しかしいい静脈が見つからず、投薬は中止。食事はほんの数口。

第一の疑問は、私たちが報酬系の興奮を求めて行動をするとしたら、私たちはどうやって将来の報酬を求めて今を頑張ることができるのだろうか、ということだ。たとえば山登りをする人は、頂上を目指して辛い坂道を汗水流して登ることがどうしてできるのか?(もちろん登ることが純粋に快感な人の場合は例外である。)
このような疑問がどうして生じるかわからない人は、次のように考えてほしい。報酬系がスイッチのようなもので、そこがオンになると電源が流れて動物や人は動く、という仕組みになっているとしよう。これは一見非常にわかりやすい。しかしそのような報酬系は決して報酬を得るための行動を動機づけしてはくれないことになる。目の前においしいケーキを出されてそれを食べる、というごく当たり前の行動を例にとればいい。「おいしい!」という報酬はケーキを食べる瞬間までは得られない。そしてそこまでに至るためには、あなたは目の前のケーキに手を伸ばし、スプーンを使ってそれを口にする、という行動をとらなければ報酬を得られない。こちらの方はたいていは多少なりとも苦痛を伴う。少なくとも面倒くさい。(ケーキを食べたい。でも隣のコンビニまで言ってくるのはメンドい。)すると報酬系が直接駆動するのは、むしろ苦痛な行動なのだ。!
お気づきのことと思うが、動物の行動を説明するためには、実はこのスイッチオン、オフ式の単純な報酬系のモデルだけでは全然足りないことになる。それは想像力。手を伸ばしてケーキを口にした時の快感を想像し、それに向かわせるような装置である。そしてこれを行わせるような装置は非常に込み入っているらしい。だから単純な動物にはこれは備わっていない。その代り本能的な行動、という形で行動の一連のプログラムを脳に備えておく。
 すると、例えばヒメマスの親は、産卵の後、一生懸命砂や小石を卵の受けにかけてその卵をカモフラージュする、という行動を行う。ヒメマスはそれが快感だろうか?うーん、複雑な問題だが、少なくともその一連の行動は自然に起きてしまうようなプログラムがあるとしか考えられない。それを行っているヒメマスが「心地よい」かどうかは別問題だ。(ちなみに私は心地よい、という方にかけたい。しかし答えはおそらく見つからないのだ。ヒメマスにインタビューするわけにいかないではないか。)