2012年5月21日月曜日

続・脳科学と心の臨床(1)


チビの具合が、実はよくない。動物病院に先週一週間入院し、もう家に連れてきたほうがチビの為だろう、ということで、直る見込みもないまま昨夜連れてかえった。原因不明の肝障害。GOT.GPTの値は振り切れたまま。いつまで持つかわからないが、せめて苦痛だけは最小限にしてあげたい・・・。


どうして自分の心がわからないのか? -報酬系の話
あるテレビ番組で、山登りの趣味を持つ人々にインタビューをしていた。「あなたはどうして山に登るんですか?
人々の最初の反応は当惑である。そして口を開いて「そうですね・・・。なんとなく。」とか「自分でもわからないんですが…頂上に立った時の一種の達成感ですね。」あるいは「山登りは私の人生そのものなんです。」と、質問とは方向のずれた答えが返ってくる。
実は同じことは面接者が来談者を前にして頻繁に体験していることだ。
「どうしてあなたはそんな旦那さんと別れようとは思わないのですか?
「どうしてそんな家を出ようとしないんですか?
「どうして今その仕事をやめて起業しようとするんですか?
面接者は来談者の人生における様々な行動の意味を考え、あるいは説明しようとするが、それに対して納得のいく答えを返してくる人は少ない。
脳科学的に考えれば、このような問題には比較的すんなり答えを出すことが出来る。それは人を突き動かしているのは脳の中の報酬系だからである。報酬系とは中脳被蓋野というところから側坐核や扁桃核に向かうドーパミン系の経路であるが、人は、というよりは動物はここが刺激されるような行動をとるようになっている。報酬系とは結局「心地よい」という感覚を生むための装置、ということであるが、実はここが刺激されることが人や動物の行動を説明するということになる。それ以上でも以下でもない。
では何がその人により「心地よい」ものとなるのか? それは余りにも複雑で簡単に説明できないような事情による。少なくともそれは一つの理由からなる、ということはない。どうして山に登るのか、という質問への唯一の正確な答えは、「それが心地よいから」ということになるが、人はそれでは説明にならないと思うからこそ、何らかの理由をそこに見つけようとしてうまくいかない。そこで躊躇したり口ごもんだりするというわけである。特に山登りのように体の負担がかかり、それなりの苦しみも伴う活動であるならば、登山家はそれを正当化するためのもっともらしい理由を見つけようと思う。しかしそれが上手く出来ずに苦労するのである。
ところでよく、「人は感情の動物である」、という。理屈ではない、というわけだ。それもあまりいただけない説明の仕方である。「どうして山に登るのか?」に感情、というのはあまりピンとこない。突然仕事をやめて起業しようとするのが、感情のせいとも言えない。むしろそうすることが自分の報酬系を刺激するからだ、という方がよほど近い。
面接者への教訓
来談者の行動の理由を尋ねる時は、もともと答えのないものを聞いているという認識を持つべし。来談者が何か理由を述べても、それは取って付けただけのものである可能性がある。だから「どうして~したんですか?」という問いかけは空虚なものである。むしろ「そうしたことに自分で何か理由が考えられますか?」という問いかけの方がまだいいであろう。

報酬系の刺激、だけなのか?
人は報酬系の刺激に従って行動を起こす・・・・。最も基本的な事実であり、脳のあり方に根差している。でもこの大前提は早速二つの疑問を私たちに投げかけてくる。
(続く)