2012年1月21日土曜日

心得8.治療者は防衛的になるだけ、その治療者としての力を失う(1)

昨日言い忘れた。できれば8月も省きたい・・・・。何のことやら。

治療者も患者も一人の人間である。治療関係とは平等な二人の人間の関係である。治療者は普通に、自然体で患者と会えばいい・・・・。というのは理想であるが、現実は異なることが多い。何しろ患者の方は時間をかけて、お金を払って、場合によっては仕事を休んで来談するのだ。治療から何かを得ることがなければ通ってくる意味もないだろう。言うならば治療者は治療者としてのオーラを発揮していなくてはならない。そのオーラとは、これまでの治療者としての体験に裏打ちされた技量、自分自身の豊富な人生体験、そして患者の人生で何が起きているのかを十分把握しているという自信などが醸す雰囲気である。しかしこの「治療者としてのオーラの発揮」という条件は、時に治療者を防衛的にする。それは治療者はそのオーラの発揮を妨害するような出来事に関しては、それを回避したり防ごうとしたりして躍起になるからであり、そうなると治療どころではなくなるからだ。


幸いにしてこのオーラの発揮を妨げるような状況はそれほど起きない。療法家としての看板を掲げて、きちんとした身なりをしたり白衣をまとったりして目の前に座るだけで、患者は治療者をそれなりの資格を持った人とみなしてくれるかもしれない。


もちろん治療者も人間だからさまざまな思い違いや限界を露呈する可能性があるが、それはそれなりに何とかなる。たとえば治療者が次回の面接時間を勘違いしていて、患者自身に指摘された場合はどうか?「ああ、すみません。そうでしたね、次回は一時間遅れて始めるという約束でした。」といえばすむだろう。あるいは「どうも最近年のせいか、忘れっぽくなって・・・」と付け加えるのもご愛嬌かもしれない。


それでは治療者が電車の人身事故による遅延で治療開始の時間に30分ほど遅れたらどうか?「すみません、人身事故は想定外でした…」などと言って、すでにいらだち始めた患者に謝罪してセッションを始めるとしたら、まだ治療者は余裕である。しかし治療者が寝坊して治療時間に30分遅刻したとなるとどうか?寝坊となると、治療者の生活管理能力がかかわってくる。それでも「どうも昨日遅くまで仕事をして…」などと患者に謝る治療者に、いつものオーラは一時的にではあれ感じられないかもしれない。これが治療時間に遅れて、しかもアルコールのにおいをさせて到着した治療者となったら、もうそれだけで患者に見放されてしまうかもしれない。治療者はもはや何の言い訳もできないからである。


私はアメリカで臨床を始めて間もないころ、患者が発した言葉の意味がわからずに、聞き返したことがある。それをもう一度言われてもわからなかったが、それは一定の教養を持ったアメリカ人であったら知らないはずのない言葉だったらしい。その患者はため息をついて私の前から去っていったが、精神科のレジデントとしてそれまでほんのわずかは出ていたかもしれないオーラは、その一時で消し飛んでしまい、その患者はもはや私の前に一時でも長く座っている理由を見出せなかったのである。その場合も私は自らを防衛するすべなどなかった。


オーラなどという言葉を用いたが、要するに治療者は精神的な余裕と自信を持って治療にあたる必要があるということだ。もちろん余裕と自信を持つことが治療の成功の十分条件では決してない。でも必要条件とは言えるだろう。すなわち患者の前に立った治療者が何らかの負い目を持っていたり後ろめたさを感じていたら、彼は患者を援助するどころか、自己防衛に精いっぱいになってしまうということを言いたいのだ。そんなことが経験があり品行方正な治療者におきるだろうか? それがあるのである。そのひとつの典型的な状況は、治療者が自らが患者になすべきことと、治療上のお作法としてなすべきこととの間に葛藤を体験するという場合である。


そのようなひとつの典型的な例は、患者から直接的な質問を受け、それに直接答えるのを避けた場合である。もちろん答えることが患者のためにならないと確信している治療者の場合は、(少なくともその当座は)問題ないだろう。しかし一方では即答をしようとする心の動きを感じ、他方では「でも治療者としての匿名性はどうなるのだ?」という葛藤を体験した治療者は、その間治療者として機能することを停止するのである。そして迷った末に答えなかった場合は、今度は「どうして私はそれを知ることはできないのですか?」という患者からの更なる質問を想定して、その答えを用意しなくてはならないという葛藤を抱え続けることになる。


治療者の匿名性、すなわち「患者からの個人的な質問には答えるべからず」という「心得」はもちろん相対的なものである。すなわち答えるべきか否かが状況しだいであるような質問がいくらでもありうるということだ。治療関係の開始時に「先生は正式な分析家ですか、それとも分析家の候補生ですか?」という質問を受けた場合などを考えればいいだろう。インフォームドコンセントが叫ばれる昨今、そのどちらかをあいまいにしたまま治療を開始し、継続することのほうが非倫理的ということになる。「先生は既婚者ですか?」「お子さんはいらっしゃいますか?」などになると、答えるべきかどうかは状況しだい、治療関係しだいということになるだろう。そのとき思い出していただきたいのが、この心得8である。


もし治療者が患者からの質問に答えるつもりはなく、そのことに葛藤がない場合には答えなくていい。また答えることに葛藤がない場合は答える。それでいい。しかし匿名性の原則が相対的なものである以上、患者からの質問は治療者の中に葛藤や迷いを起こすほうがむしろ普通なのである。その時は「迷っている場合には、たいていはお作法上の問題であり、『お作法を守るかどうか』は治療者の個人的な問題だから、そのことをわきまえるように。」というアドバイスを差し上げたい。そしてしばしば、質問に簡単に答えることが、治療者を救ってくれる。なぜなら「どうして答えていただけないのですか?」という患者の質問に、治療者は「精神分析の教科書にそう書いてあるからです」とはまさかいえないからである。それではまるでテキスト通りに治療を行っている初心者のように聞こえてしまい、経験ある治療者としてのオーラなどどこかに行ってしまうからだ。そこで治療者それ以外のさまざまな理由を考え出さなくてはならないからだ。そういう時、治療者はまさに防衛的になっているというわけである。


ヘンリー・ピンスカーの「サポーティヴ・サイコセラピー入門」(岩崎学術出版社)から。


「サポーティヴ・セラピーでは、質問についての一般原則としては、簡潔で有益な反応がなされるべきである。・・・当初に回避的な反応をしないことが大事であり、質問に質問で答えることは許されない。」