2011年12月27日火曜日

裏表のある子供(5) 大人こそ裏表の世界に生きている(1)

ここまでで規定の枚数には達している(何のことだ?)。しかしまったくたいしたことは書いていない。大体「裏表のある子供は何が原因だろうか?」という与えられたテーマ(誰からなんだろう?)とは逆のことを書いている。「子供にはもともと裏表がない。」「裏表のない子供が、裏表のある大人になっていくことが健全なのだ。」「いわば大人になっても裏表がもてない状態が、解離性障害なのだ」などと言っているのだから。
裏表があるということは、それほどまでに大人にとっても社会にとっても当たり前のことであり、それはその人の社会適応性の高さを表すとともに、そしてここは大事なのだが、人々を悩ます問題でもある。裏表を持つ、という人の性質はそのような両価的な意味を持つ。ではどのような裏表の持ち方が病理といえるのだろうか。ひとつには社会に対しての病理で、もうひとつはその人個人の持つ病理を考えることが出来る。社会にとっての病理は、表裏の使い分けをいわばタメにして、自己の利益や自己愛のために使い分けをし続けることだ。それを私たちは政治家の言動の中にいやというほど見ている。毎日テレビに出てくる政治家の発言は大概は表向きのそれであり、政治家としての保身のために行われていることだ。「国民の皆様のための政治を目指す」と言うまさに噴飯もののスローガンを掲げつつ、保身と我欲のために生きているような政治家がこれに相当するだろう。私は政治家の真骨頂は、本音が社会の利益とうまくつながるような世界観を持てることにあると思う。どこかで本当に民衆のことを考えている。社会をよくしたいという言葉が本音として語られるような政治家のことだ。でもそれはまれにしか現れず、またその人が時流に乗り人気を博して政治の流れを変えるくらいの地位に上り詰めることはまれである。
社会にとっての病理になるような裏表の話は必ずこのような繰り言になるからそれは別として、個人にとっての表裏の問題を考える。ここはお決まりの言い方になってしまうのだが、自分自身に対しても裏表を持つことが病理性だといえるだろう。裏表はヘンな言い方だが、ちゃんと分かれていてこそ意義がある。裏表を分けるなら、メリハリのあるわけ方が必要なのだ。さもなければ自己矛盾に陥り、結局は自分自身にとってのとてつもないストレスとなってしまうだろう。自分が表を使っているのか裏を使っているのかわからなくなる。これもまた解離性の病理の特徴と言えるだろう。

2011年12月25日日曜日

裏表のある子 (4)

娘はこうして、いいお姉ちゃんとしての自分を体現する。脳は弟へのいとおしさと優しいしぐさ、そしていい姉としての自分の記憶を結びつける。神経科学には昔からHebb則といわれるものがある。Cells that fire together, wire together." 語呂がいい言葉だが要するに、最初は偶発的な形で同時に興奮した神経細胞同士はその後も同時に興奮するように配線(wire)され、ひとつの神経細胞群を作るということだ。いい姉としての振る舞いは弟へのいとおしさを伴い、それとしては本物なのだ。しかし問題はそれが母親の前、という状況でしか発現しないということだ。その興奮は自然な形では持続しない。それはそうだろう。普通は憎たらしい弟に意地悪をしたいとうずうずしているのであり、弟への嫌悪―意地悪な目―意地悪なしぐさ系の神経細胞群のほうがより興奮しやすいからだ。まとめると「意地悪な姉」系細胞群はより興奮しやすく、「いいお姉ちゃん」系細胞群は条件付で、一時的にしか興奮しない。これが健全な裏表のある子、というわけである。



解離傾向の強い子供の場合はどうか?「意地悪な姉」系細胞群と「いいお姉ちゃん」系細胞群はそれぞれが無条件に興奮する細胞群として共存する。ただし完全に無条件かといえばそうではなく、それぞれの興奮が生じるようなきっかけは存在するのだろう。しかしたとえば「いいお姉ちゃん」系細胞群は、母親がいなくても発揮されうる。場合によってはそちらのほうが、それまで優勢だった「意地悪……」に取って代わることだってある。どうしてそのようなことがおきるのだろうか?私の仮説としては彼女たちは特別に感度の高いミラーニューロンを備えているからだろうと思う。ミラーニューロンといってもさまざまなものがある。他者の感情体験をミラーするもの、運動をミラーするもの、言語活動をミラーするもの。それぞれが各人において異なる感度を有するだろう。たとえば言語活動にまつわるミラーニューロンがとりわけ優れていると多言語を習得することができるだろう。とすると多重人格を有する人は、いわば人格に関するpolyglot(多言語習得者) といえるのではないか?

2011年12月24日土曜日

裏表のある子 (3)

「関係精神分析」に書いた文章をここに書き写す。
「ミラーニューロンの発見は、たとえばアメリカの神経学者ラマチャンドランに言わせれば、ちょうど生物学におけるDNAの発見に相当するようなインパクトを心理の世界に及ぼしたということである。発端はイタリアのパルマ大学のリゾラッティのグループの研究である。彼のグループ、すなわちリゾラッティ、フォガッシ、ガレーゼの三人の共同研究者は 90年代に、マカクサルの脳の運動前野のニューロンに電極を刺してさまざまな実験を行った。まず運動前野の特定の細胞が興奮から始まる。そこでは運動の計画を立て、そこから運動野に命令が伝えられ、運動野は体の各部の筋肉に直接信号を送り込むことで、初めて筋肉が動くという仕組みである。

たとえばサルがピーナッツを手でつかむ際は、先に運動前野の細胞が興奮して、その信号を手の筋肉を動かす運動野に伝えるという事を行なっている。このように運動前野の興奮は、単に自分の運動をつかさどるものと思われていたわけだったが、それが違ったのだ。他のサルがピーナッツをつかんでいるのを見たときも、そのサルの運動前野の特定の細胞は興奮する事が分かったからである。つまりその細胞は他のサルの運動を自分の頭でモニターし、あたかも自分がやっているかのごとく心のスクリーンに映し出しているということで、ミラーニューロンと名づけられたのである。
目の前の誰かの動きを見て自分でそれをしていることを思い浮かべる、ということはたいしたことではない、と考えるかもしれない。しかしこの発見は、心の働きについてのいくつかの重大な可能性を示唆していたといえる。それは人が他人の心をわかるということは、単に想像し、知的な推論だけでわかるというよりも、もっと直接的であり、自動的な、無意識的なものであろうということだ。何しろサルでも出来るのだから。また一部の鳥でも同様のニューロンが見つかったとのことである。 (中略)ちなみにこの運動前野と運動野の興奮は、通常はペアになっていると考えることができるだろう。鼻歌を歌ったり、独りごとを言ったりすることからわかるとおり、私たちは人が見ていないときは、イメージすることをそのまま行動に移すことが少なくない。しかし場合によっては行動に移すことが危険であったり、あるいは社会的に不適切だったりし、その場合は運動前野のみの興奮となる」(「関係精神分析入門」岩崎学術出版社、2011年より)。
さてミラーニューロンの話はこのくらいにして裏表のある子供の話にもどる。親の前ではいい子、陰では兄弟をいじめたり、言いつけを守らなかったりする子供。子供はどうやってそのような方便を身につけるのだろうか?こう問うと、私のこのエッセイは最初から間違った方向に踏み出していることに気がつくだろう。子供が裏表を持つということはむしろ達成であり、贅沢な悩みであり、むしろそうなれないところに病理がある。少なくとも解離性障害の子供の場合はそうだ。
親の前でいい子でいることは、親の側の次のようなメッセージで始まるだろう。「あなたはいい子でいなさいよ。それがあなたにとっても私にとっても大切なことだから。」そして親の心には、いい子であるわが子のイメージが浮かぶ。「お姉ちゃんなんだから、弟をいじめたりしてはだめよ。敏感な娘は、母親の心にある、いい子である自分をイメージする。そして自動的にミラーニューロンが働いている。自分はいい子なんだ。傍らにいる泣いていている弟をいとおしく感じる。優しく頭をなでて「お姉ちゃん」ぶりを示して見せる・・・。

2011年12月23日金曜日

裏表のある子 (2)

私がここで展開する議論は、解離的な視点に基づく。臨床的に触れることの多い解離性症状は、この現象は一体何なのかという疑問を常に私に突き付けてくる。なぜ一群の人々(ここでは思春期以降を指す)にとっては、「あたかも~のような」体験が「まさに~としての」体験になってしまうのだろうか?普段は「お前さんはどうして~なんだろうねえ」という内言(内なる声)が、彼らにとっては実際の声として聞こえるばかりか、その声の主に成り代わってしまうという現象が起きるのだろうか?ここで示したような解離現象は、裏表を持つ人間、(通常の意味での)二面性を持つ人間とは異なる性質を有することになる。いわば彼ら解離性の人々は、表裏を持てずにいるのである。裏を持つ代わりにもう一つの表を作り、その間を行ったり来たりするという動きを示す。

そして一昨日の「子供は本来は裏表を持てないのだ。いわば表表なのだ。」という私の主張がここにつながる。解離とは、つまり裏表を持てずにもう一つの表を作るといった傾向は子供にある程度特徴的なのだ。そしてその傾向を極端な形で、成長しても持ち続けるのが解離性の人々と言える。では子供はどうして裏表を持てないのか?それは子供が持つ、対象に「なりきる」という性質なのである。
語学は私が人並みのセンスを持つ数少ない分野である。それに加えて三十代前半からフランス語圏、英語圏にいたこともあり、幼少時に獲得しなかった自分のイントネーションの不自然さにいつも直面していた。英語圏で育つと、それこそそこで語られる言葉をそのまま脳がコピーする。4,5歳の子供が3ヶ月英語環境にいるだけで受験生が1年間躍起となって覚えこむ語彙よりはるかに多くのものを習得する。これは脳が話されている英語を、というよりは英語を話している他人の脳をコピーする、という印象がある。大人が努力と集中力で英単語を暗記するのと、幼少時に英語環境で過ごすことの違いは、手書きで本を書き写すのと、コピー機でまるごと写し取ってしまうほどの差があるのである。脳が他人の能をコピーする力は、年とともに衰える。その時期は人により差があるが、だいたい13,4歳が臨界域と考えられるだろうか。それ以降学習する語学は、もはや借り物でしかなくなってしまう(少なくとも自然さ、流暢さに関しては)。もちろんそれ以降も脳は新しいものをコピーする能力を失っていく。新しい流行やテクノロジーを取り入れるスピードは、20台より30代、それよりも40代になるにしたがって遅くなっていくようだ。それはたとえばケータイのテンキーを使った文字入力の速さなどを見れば歴然である。(ちなみに私は今でも・・・・できない・・・・・。)

脳は幼少時にどうして人の動作を見てそれをコピーできるのだろうか?このことを示しているのがおなじみミラーニューロンの発見であろうと思う。だからこのニュースは私には人事でなかった。

2011年12月21日水曜日

裏表のある子 (1) 北朝鮮の子供も泣いている

金正日の没後、DPRKで放映されたちょっと異様な光景。人が拳を地面にたたきつけて総書記の死を悼んでいる。本当の悲しみに直面した時、人間は(間欠的にしか)ああはならないことを知っている私たちは、不自然さを感じる。彼らは本当は何を思っていながら、泣いている(ふりをする)のだろうか?これも裏表の問題だ。そして「あんなこと、純真な子どもには出来ないのではないか? 子どもたちの中には演技を仕切れずにボケっとしている子もいるのではないか?」
ちょうどテレビの画面には子どもたちの集団が弔問に訪れるシーンが映った。なんと・・・・。子どもたちはもっと「真剣」に、本気で泣いているように見えるのだ。演技で泣いているであろう大人たちに比べて、子どもたちはもっとまじめに泣いているようだ・・・・。もちろん彼らは児童劇団の団員たちなのかもしれない。しかし私は次のようなことを考えた―裏表のある子ども、というテーマにとって重要だ。彼らは裏表があるのではない。裏の時も本気で、表の時も本気なのだ。むしろ両者は解離する傾向にある。そこら辺が裏表のある大人(私たちが通常出会っている人々であり、もちろん私たち自身も入る)とは違うところなのだろう。
裏表のある子どもたち、というテーマのとっかかりとして重要だと考えた。子どもたちの裏表は、私たち大人が思う裏表、とはかなり違う可能性がある。ずっと真面目な裏表、いわば違う二枚の表、ともいえる面を持つのだろう。それが余りに異なる場合には、両者は解離することになり、将来の解離性障害につながる。
同様にして子どもたちのつく嘘も、大人のそれとはかなり違う。子どもの嘘は、本気の嘘、なのである。
ここら辺から書き始めることになりそうだ。

2011年12月19日月曜日

解離研究会が終わった

昨日(12月18日)は、JSSTD(日本解離研究会)の年次大会があり、これで今年の主なスケジュールは終わった。昨日は京都から松本雅彦先生にいらして戴き、ジャネについて語っていただいた。100年前に解離の概念について詳しく論じたジャネについて、その著作を丹念に翻訳して出版していらっしゃる松本先生の話は非常に含蓄があり、かつ興味深いものだった。長年精神分裂病(統合失調症)を中心とした精神医学の中で歩んでこられた先生が、そのキャリアの後のほうの時期に出会われたジャネの理論といかに対峙してこられたかというお話だったが、松本先生のような精神医学会の大先輩がジャネに取り組んでいらっしゃるお姿を見て非常に力づけられた。
昨日は奥田先生や柴山先生と久しぶりに会い、旧交を温めた形になったが、しばらくぶりに会った柴山先生はまた抜群に面白かった。彼ほど根が真面目なのに一見いい加減なスタイルをとる人も珍しい。私はそこに彼の中の shyness を垣間見る。彼のデッサン力もまた一段とさえていた。(似顔絵を描いてもらったのである。)
精神医学の世界での高田純次を目標としている私としても、ぜひ見習わなくてはならないと思った。
ということでこのブロクをまた使わなくてはいけない事情が生じた。なぜかよくわからないが、「ペルソナとパーソナリティ―人格の裏と表を考える」というテーマで急に書きたくなった。しかも一月の半ばまでに(どうしてこういう無理な話になるんだろう。いつもながら)。要するに裏表のある子をどのように考えるべきか、ということである。

表のある子

ある意味では私が出会う解離の患者さんの多くは表裏が多い子供とみなされていたと思う。(続く)

2011年12月4日日曜日

特別な週末

この週末は神さんが泊りがけで外出中なので、一人で過ごすことになった。しかし私は昼間は用事があるために、チビ(うちの犬)をドッグホテル(のようなもの)に預かってもらった。興味深いことに、神さんがいないことより、チビがいないことのほうがインパクトが大きかった。これはある意味では理解可能なわけで、神さんが家にいなくてもチビが家の中にいないということは通常ありえないからである。チビはいわばうちでは空気のような存在なのだ。何をしていてもそれとなくチビの視線を感じる。(チビは私のことをいつも警戒しているから、常にこちらの存在を意識している。ということは私は結局チビに見られているのである。)その視線があまりに当たり前なので、帰宅する時も出て行く時も、家の中を動き回るときも、ふとチビがいないということに気が付いて拍子抜けする。そして・・・・・やはりその方が気が楽であることに気付く。神さんやチビには申し訳ないが。チビはもう14歳で、耳はほとんど聞こえないし目も相当白内障が進んでいる。チビの寿命が尽きた時に私の生活は確実に変わる気がする。いろいろな意味で。
今日日曜日は、精神分析協会の東京大会があった。私は妙木浩之先生の発表の討論者の役を藤山直樹先生と務めた。いつもながら妙木先生の博識ぶりと回転の速さには圧倒される。彼の発表は「自我心理学の新展開」というものだが、時代遅れのように考えていた自我心理学が実は独自の進化を遂げていることを知るいい機会になった。