2011年8月20日土曜日

「母親病」とは何か?(8)

昨日の続き。もうどこで何度書いたかもわからない例だが、もう一度だそう。ある成人した娘が外出する際に母親に、「その黄色は似合わないわね。」と言われて激高する。「お母さんは私に着るものの選択さえ自由にさせてくれないのね。これまでいつもそうだったじゃない!」母親はそれに対して「あきれた子ね」、というような顔をする。
この例には、無理やり小さな子どもに戻された娘の恐れや無念さがある。それは息子が母親に「つらかったらいつでも帰ってきなさいね。」といわれた時の強烈な不快さと共通しているところがある。どこかに母親の言うことを真に受けてしまいそうな自分に対する不甲斐なさが潜んでいるのだ。こんなことはもう何十年も前に切り抜けて大人になり、いっぱしの口を利いて自分の子どもや職場の部下や後輩の世話などをしているはずの自分が、実はまだそれは仮の姿であり、虚勢を張っているだけであり、本当はちっちゃな●●ちゃんに過ぎないということを無理やり信じ込ませるような母親の声。そう、今でも「●●ちゃん」と呼ぶ母親の声は、基本的には自分が小さい頃聞きなれたものとほとんど変わらないということもいけないのである。(声紋を取ったら少しは違いが見られるだろうが。)
では母娘は母息子とどこが違うのか?それは母親が娘を見るときに克明に自分の同年代の頃の体験を二重写しにしているために来る生々しさや、多大な勘違いの中に時々潜んでいるまさに本質を突いたような指摘が余計に娘を刺激し、ゾッとさせるからだ。(もちろん同じことは父親の息子への関係に当てはまる。)
では母親の中にあるライバル意識、競争心についてはどうか?それは明日考えよう。そして一通り考えを出した上で、香山さんや信田さんや斉藤環さんの本を読んでみる。