2011年8月15日月曜日

「母親病」とは何か? (3)

私の経験からは、母親から注がれる視線そのものが非常にキツい。電話で話をしていてさえも、その「視線」を浴びている感じがしてたまらなくなる。大学生の頃や勤め始めた頃は半年とか一年ぶりに会うということがあったが、「ちょっと痩せたんじゃない?」、とか「ちゃんと食べているの?」というコメントが必ず来る。親というのは不思議なもので子供が太っている限りはあまり心配しないものだ。ところが少しでもやせようものならすぐ心配しだす。悪い病気ではないだろうか、などとである。そしてその視線のことを私は知っている。それは自分や神さんが息子に対して向ける視線そのものだからだ。しかもそれは現在の成人した息子に対するものではなく、幼いころのあどけなくて頼りない息子に向けた愛情と心配のこもった視線である。おそらく子供が一番親の視線を必要とし、それを滋養のように感じていた時期の視線だ。親は子供がどんなに成長しても、結局は「あの頃の○○ちゃん」がたまたま何かの間違えで育ってしまった、という感覚を忘れない。そしてその頃の親の視線は、子供に対して絶対的な位置を占めていて、子供のことをすべてわかっていて、なおかつ子供のためにその一挙手一投足に目を注いでいる、という視線なのだ。子供の方はその視線を注がれると、まるで小さい頼りない自分に無理やり帰らされたような何とも言えない気持ちになる。

私にはどうも母親と対面する時のたまらない気持は、この母親からの一方的な思い入れ、それも自分の本質を幼い子供として見ているというところに関係している気がしてならない。そしてそれを感じる側にももちろん問題がある。それは「実は自分は幼い頼りない子供である」ということをそれにより見透かされてしまっているという感じをこちらが持ってしまうからだ。私たちは皆子供の自分を持っている。それを虚勢を張って一生懸命否定することで生きているというところがあろう。それを見透かされているという感覚を持つのだ。