2011年8月14日日曜日

「母親病」とは何か? (2)

さて香山さんの親子という病は、もっぱら母娘のことを言っているということは断っておかなくてはならない。それに比べて私が言っているのは母息子の話だ。話がずれている。しかしこれは私が息子であり、この問題についてより切実に考えるという立場にある以上避けられない切り口なのだ。あとで母娘の関係に近づいていこう。



どこが病気かって?大体電話でひと言ふた言交わしただけで、どうしてこうもエネルギーを消耗するのだろうか?どうしようもない何かを掻き立ててくる。断っておくが私は母親に虐待を受けたとか、恨みを抱いているとか、という類のことはない。ただ何かものすごいエネルギーを向けられていることに耐えられない。そしてそのエネルギーの強さに関しては、そう、神さんのそれに似ている。
「母親の息子に対する気持ちはそんなもんだ、気にしなければいいじゃないか?」といわれればまさにそのとおり。こちらの感受性の問題もある。だから母親病、親子病は関係性の問題なのである。
おそらく母親の子供に対する感情は、たとえば精神分析理論ではうまく表現しきれないように思う。たとえば同一化、とは対象と自らが一緒になり、相手の快や苦痛が自分のそれとなるということだろう。ところが母親はしばしば自分はどうなっても子供の幸せを思う、という。自分が犠牲になってもいいのだ。これは人間の自己保存本能の原則に反する。
結局母親の子供に対する常軌を逸した気持ちは、「利己的な遺伝子 selfish gene」の文脈で説明しなくてはならなくなる。動物界を見渡せば、親が子供のために犠牲になるという例はそれこそいくらでもある。魚類などで、卵が孵化する前の期間に集中して護衛が必要な場合など、メス、ないしはオスがぼろぼろになるまでその勤めを果たす。それが親の遺伝子が自分を後世に残すために利己的に振舞う結果なのである。
しかし子育てが終われば去ってしまったり、命を終えてしまう動物界と違い、人間の場合はそれからが長い。女性の長命化は、そのまま閉経後の人生の長さを反映する。そして子供に向けた狂気は変わることがないから厄介なのである。
ここまで書くとこんな反論が聞こえてくる。「子供に献身的でいる親を持つのは贅沢な悩みではないか? そうできない、それこそ魚以下の親がいるから問題なのだ。そちらこそ病気ではないのか?」
部分的にはこの指摘は当たっているだろう。しかし私には中途半端に本能を発揮する親はもっと大変ではないかと思う。親は子供を思う気持ちが本能に根ざした、無私で自己犠牲的なルーツを持っていることを実感する。しかし同時にそれが自己愛の満足との混ざり物であることに気がつかないときには、その感情は最も厄介なものになるのだ。(つづく)