2011年8月22日月曜日

「母親病」とは何か?(10)

精神科の臨床をやっていると、「理由はさっぱりわからないが~ということが見られる。」ということがある。その一つが罪悪感、後ろめたさ、というものである。例えば私なら「漫画を読むこと」に後ろめたさがある。もちろんそれにはそれなりの背景があるが、親の教育とばかりはいえない。例えば私は子ども時代は「少年サンデー」の愛読者だったし、手塚漫画は夢中になって読んででいた。それから起きた何かでこうなったのだが、自分でもよくわからない。
さて親子病を論じる際に何度も出くわすのが、母子相当に見られる相手への後ろめたさだ。これがよくわからない。しかしとにかくしばしば見られるのだ。互いの憎しみ愛は、実はこの互いへの後ろめたさが根底にあるのではないかとさえ思うことがある。例えば一昨日に出した例(、「その黄色は似合わないわね。」と言われて激高した娘が、「お母さんは私に着るものの選択さえ自由にさせてくれないのね。これまでいつもそうだったじゃない!」という例)では、娘の側に母親のちょっとした言葉を無視するということへの後ろめたさがあるのだろう。母親の言葉を気にかけず、わが道を行けばいいのに、それを小さい頃からできないでいたし、今でも出来ない。母親の小さなコメントを無視できずに、それを出来ない自分にいらだつ。これが支配されているという感覚に結びつく。母親の方はどうだろう?おそらく母親の小言のかなりの部分が「自分が教育が行き届かないおかげで娘がこんなになってしまった」という後ろめたさによりかなり支配されている。そしてこの種の後ろめたさは相手への怒りと転化されるというところが母親病を寄り複雑で完成されたものにするのだろう。
娘の側の母親への怒りとしてしばしば耳にするのが、「お母さんは世間体を気にしてばかりいて、私のことを考えてくれない」という言葉である。お母さんは自分の体面を気にしてばかりいて、つまり自分がかわいくて、本当の私の気持ちは無視している、という言葉だ。しかしこれもそれほど単純ではない。母親の中には「娘がこんなことで世間から笑いものになるのがかわいそう」というところもあるのだ。娘のことで恥をかきたくない、という以外にも、娘に恥をかかせるのにしのびない、後ろめたい、という気持ちもあるのだ。
この母親の側の後ろめたさは、実に強烈な形で娘に対する執着を生む。母親が娘に対して時々余計な電話をして嫌われるのは、「子どもを放っておく」ことに対する後ろめたさが関係していることが多い。「娘をあんなままにして世間に出しておいて、放っておいていいのか?」というわけだ。
(明日は、この後ろめたさに複雑に絡んでいるライバル意識について。)