2011年7月4日月曜日

災害とPTSD:津波ごっこは癒しになるか? (2)

きのうの津波のアートセラピーの話の続きである。
私はこの「アートセラピーに気をつけるべし」という判断はかなりソフィスティケートされたものであると思う。CISDの非治療性を見出した慧眼ともつながるのではないか。なぜならそれは直観と異なるcounter-intuitiveからである。私はこの話を聞いて「え、津波の体験を絵で表現するのって、いいアイデアじゃないの?」と心の中で思ったのだ。そして同時に「いけないいけない、実はこれは外傷にもなったりするんだろう。最近の知見ではそうなっているに違いない。専門家としてそれを知らないなんて恥ずべきだ」と判断し、何も言わなかったのである。
ただここにはもう一つ微妙な問題も含まれている気がする。それは「アートセラピー」は危ない、という呼びかけに呼応するようにして、それが実際にトラウマに働いてしまうようなケースの存在なのである。トラウマは自分がトラウマを受けたのだ、という主観と共に始まることもある、というまことに微妙な問題なのである。それが以下の話だ。
トラウマと思うからトラウマになる????
これから私は実はかなりの問題発言をしなくてはならない。同じようなことを書いている人たちにいつも非常に反発を感じていることと少し似ていることを、自分で書こうとしているのだ。それは、トラウマ体験というのはきわめて主観的なものであり、いわば二重の意味で主観的なものだということだ。最初の意味は、その人にとって特異的な反応を起こすような体験。戦闘体験で敵に銃を発射しただけでも非常に大きな外傷体験になってしまう人がいるとしよう。それはその他の、戦場ではどこか割り切ってゲーム感覚で敵をなぎ倒す人々とは明らかに異なる。その人には特定のトラウマについての独特の反応があるという意味だ。ちょうど高所恐怖になる人と閉所恐怖になることと、先端恐怖になる人がいるように。そしてもう一つの主観的とは、自分がトラウマを負ってしまったのだ、という自覚をいわば外部から与えられ、それがトラウマ反応を引き起こすというごく限定された意味での主観的な性質だ。しかしこれは限定的な意味だからといって珍しい現象とは限らない。結構起こっているのではないか?


最近興味深いニュースを読んだ。これもオンラインで読むことのできるものだ。
Miller-McCune誌 July-August 2011 に掲載されたMichael Scott Mooreの記事である。PTSD Affecting More U.S. Soldiers Than British. Why do so many American and so few British soldiers suffer from post-traumatic stress?
イラクやアフガンでの体験からPTSDになる割合が、米国の兵隊はイギリスのそれに比べて数倍多いという。U.K.’s Royal Society of Medicineの発表によれば.米国では30%なのにイギリスでは4%であるという。そしてそれは同等のレベルの戦闘体験を持ったグループ間で言えることだというのだ。もちろん英国の兵役が6カ月でアメリカが1年ということもある。しかしアメリカ社会におけるPTSDが英国に比べてかなり高いことも影響しているという。これについてEthan Wattersという専門家は、PTSDは文化によっても作られ、しかも完全に当人にとってはリアルなものである、というが、私も全くその通りだと思う。
どういうことか。米国では兵役を終えた人は自分はPTSDではないかと関心を持つし、他人もそのような目で見る。何しろ深刻な外傷体験を受けた人の10~15%にPTSDが発症することが知られているからだ。そもそもこの概念の始まりは、ベトナムからの帰還兵を悩ます一定の症状群について記載することから始まったことからも、帰還兵がPTSDを発症するかどうかについての関心は高いことは伺える。そして一般にある疾患についての関心が高まると、その罹患率も上昇するという現象を私たちはたびたび経験してきた。ちょっと昔のBPDがそうだし、最近の自閉症やアスペルガー症候群もそうだ。社交不安障害についてもそれがいえる。
しかしそれでは「PTSDは気のせいだ」ということにはなるかというとそうではない。それはWattersが言っていることでもある。どのような経緯でなったとしてもPTSDはPTSDであり、それ自体はにせものではないということだ。それにもし「PTSDは気のせいだ」ということであれば、「PTSDではないというのも気のせいだ」ということにもなる。つまりイギリスの戦闘兵は自分がPTSDであるということに気がつくきっかけがないだけであり、おそらくアメリカ人の戦闘兵と同じくらいの割合で、PTSDを実際は発症しているのだ、というロジックも成り立ってしまうことになる。てそれを言うなら同時に「トラウマではないのも気のせいだ」ということになる。
人間の戦闘体験はおそらくその歴史の開始時からある。それでいてPTSDのような症状があまり記録に残っていないとしたら、それはPTSDなどというものが最初から発想になかったから、という可能性があるのだ。PTSDや、それに限らずほかの精神疾患も文化により規定される側面があるというWatters の見解は、つまりそういうことである。見つからなかったとしたら、それはそんなものはないと思い込んでいたからかもしれないのである。このように考えると、ある診断基準が定まるとそれに罹患する人の率が急上昇するという例の説明もつくという訳である。
どうしてPTSDは以前は(あまり)存在しなかったのだろうか?おそらく時の為政者にとって戦争による心のダメージを語ることを禁止されていたのかもしれない。同様のことは男性が原因となる性被害にも及んでいる可能性がありはしないか?その社会での支配層(成人男性の為政者)にとって不利なことはあまり語られず、名前を付けられない症状はそうとして認識されず、結局は存在しなかったということになるのだろう。