2011年5月29日日曜日

「津波遊び」について

ネットで昨日拾ったある記事。

東日本大震災の巨大津波に襲われた宮城県の沿岸地域の園児たちが、津波や地震の「ごっこ遊び」に興じている。「津波がきた」「地震がきた」の合図で子供たちが一斉に机や椅子に上ったり、机の下に隠れる。また、子供には不釣り合いな「支援物資」「仮設住宅」といった言葉も聞かれるという。「将来役立つ」「不謹慎だ」と評価は分かれそうだが、児童心理の専門家によると、子供たちが地震と津波の衝撃を遊びを通じて克服しようと格闘しているのだという。「徐々に回数は減ってきましたが、震災直後は『津波がきた。逃げろ』と叫ぶとみんなが一斉に少しでも高い椅子や机に上がる津波ごっこ、『地震だ』と叫ぶと机の下に競って潜り込む地震ごっこを子供たちはやっていましたね」

心理学を専門にしている人間にとっては最も妥当な理解ということであろう。フロイトの「快楽原則の彼岸」での糸巻きの例で、ある意味でお墨付きがついている。私は常識については必ず疑うので、この妥当な説明にも、「本当だろうか?」と考えている部分がある。(大体わかったような説明は嫌いだ。)
それでも確かに多くの子供たちにとってはこの種の遊びは結果的に適応的だということくらいは言えるだろうか。そしてそれにも多くの個人差があるはずだ。おそらく「津波遊び」にはいろいろな子供が加わっているはずだ。津波に遭ってかろうじて生き残り、そのトラウマを克服しようとしている子供、津波に遭わず、それがひとごとだった子供。そして忘れてはいけないのは、クラスメートの「津波遊び」を見てフラッシュバックを起こしてうずくまる子供もいるはずだということである。
大多数にとって適応的なことも、少数の人々には不適応的であったり、外傷的にすらなりうるのである。