2011年5月12日木曜日

治療論 25 患者をほめてはいけない・・・のか?

実はこれも相当「上から目線」の議論なのだが(タイトルを書いただけでそう思う)大切なテーマである。べテランのセラピストの中にも「私は患者さんをほめることはしません。ほめて欲しいと思って治療に来るようになってはよくないからです。」とおっしゃる方がいる。そこでこのタイトルにしたのだが、ほめる、というのが何か大人が子供に対してするようであり、その意味ですでにこのテーマが「上から」なのである。
まあともかく。私はこの種の理屈はヨークわかる。これが精神分析の禁欲原則に必ずしも由来しないことも含めて、事情はわかっているつもりである。私はこの種類の議論になると治療者はすぐに「褒めるのは反対」の立場に傾くことを知っているので(フロイトもその一人だったと考えていい)、あえていつもそれに対する反論から始まる。患者をほめたら、患者は次からそうされることを目的にして来院するようになるのだろうか?それほど単純なものだろうか?これは「クセになる」ことなのだろうか?おそらく否である。これは「ほめる」という言葉に含まれる上から目線なニュアンスにも関係するのであるが、治療者はほめるのではなく、患者に対して敬意を払っていることを口にする、あるいは感嘆したり感心したことを口にする、ということが大切なのであり、そうする限り問題が起きることはないだろう。逆に「この人をほめてよう。それにより治療につなぎとめよう」という類の作為がそこに混在すると、賞賛することは単なる「ほめる」ことになってしまい、「クセ」になる要素が増すとともに、治療的な価値を失ってしまうのである。
たとえば私はきれいに書かれた字に心を動かされやすい。何気なく患者さんが書いた字がきれいだと、思わず「字がお上手ですね」となる。私はそれを「ほめ」ているという意識はない。感心してそれが言葉に出るだけだ。患者さんはその日から私に字をほめてもらいたくて来院するということはおそらくないと思う。「クセ」にはなっていない筈だ。それでも患者さんは私が何らかのポジティブな気持ちを向けているのを感じるであろう。それは私が自分の患者を「贔屓にしている」からである。私が担当する患者だから、どちらかといえばいい点が余計見えてしまう、という状態が「贔屓にしている」ということだ。そしてそれは当たり前のことであろうし、おそらく治療関係がうまくいくための重要なファクターだと考える。私にはそれがわかるからそのようなコメントをする。しかし本当に感心しない限りはそれを口にしないのである。
フロイトがいみじくも指摘したとおり、治療者患者関係を維持するのは、緩やかな陽性転移、陽性感情である。これがなくして維持される関係性は、ある意味で極めて事務的だったり味気ないものとなったりするだろう。治療者に認められている感じが基底にない治療関係は危うい。そして治療者側から患者に何らかのリスペクトが向けられた際には、先ほどの「贔屓」を裏打ちする形で治療関係をさらに確固たるものになる。
リスペクトと「贔屓」との違いをもう少し。治療者側の贔屓の念は、患者側が料金を払って自分のもとに来談するということだけですで生まれてしかるべきだろう。デパートの紳士服売り場に現れた客に、店員は極めて恭しく、丁寧に応対するはずだ。その男性の風采が上がらず、その売り場にあるどのような服も彼に似合うものがないだろうと思えても、店員はだからといって追い返したりはせず、彼でも似合う服はないかと懸命に探すだろう。そしてそれはその客からも金を落としてもらおうという商人としての熱意以上の何かである。自分の働く売り場に足を運んでくれたことに対するありがたさから生まれるものと言ってもいい。
でもその客が体格がよく、すでに洗練された着こなしをしているとしたら、店員は一目置き、より敬意を持ってその客に接し、彼にとって満足の行くような商品を選ぶことに力を尽くすだろう。「お客様はご立派な体格でいらっしゃいますから、こんなスーツはいかがでしょう?」などという言葉も出るかもしれない。こちらはリスペクトといっていいだろう。
同じようなことは治療者患者関係にも言える。患者の美徳や強さや能力の高さは患者へのリスペクトの感情を生む。それを表現することで患者さんは治療者からのポジティブな感情を体感する。それでいいではないか。きっと「なんて自分の本当の姿をわかってくれる人だろう?」と思うだろう。そのような関係性のなかで初めて、治療者からの辛口のコメントもまた真実味をもって伝わる可能性があるのだ。