2011年4月23日土曜日

治療論 その6 (改訂版) 患者の人生の流れは・・・・・の続き

東京はヘンな天気である。突然降ったかと思えば、晴れ間が見える。今日の空模様のように、3月11日以来、現実の「予想のつかなさ」はより実感を持って迫ってきているような気がする。ある記事によれば、南関東に大地震が起きる確率は、この震災以来高まっているという。北の「北上山地」、南の「房総半島東沖」には余計なひずみがかかっているということだ。3月11日は、都心を襲う震災の前触れだったかもしれない。私は自分の年齢からいって、何が起きても甘んじるしかないと思えるが、若い人にはこの種の将来の不安を抱えて生きていくことは可哀想なように思える。関東に住むことは確かにある種の爆弾を抱えて生きていくことなのかもしれない。

さて「患者の人生の流れは、容易には変えることが出来ない」という認識を持った治療者はどのように患者に接するのだろうか? それは患者への関わりに対する自己愛的な思い入れへの反省を、治療者自身に促すことになる。それは端的にいうならば、従来の精神分析における「解釈」に対する考え方を変えることに繋がるといっていい。
フロイト以来、精神分析における解釈とは、治療者がその分析家としての叡智を結集する形で患者に対して行う治療的なかかわりの中でも決定的なもの、最も本質的なものとみなされてきた。古典的な分析理論においては、治療者は解釈以外のことは行わないという了解が不文律としてあった。精神分析的治療が米国に導入されて以来、早くから精神療法における「探索的(表出的)関わり」と「支持的な関わり」との区分が唱えられてきたが、そこでの決め手は、この解釈をめぐるものだった。前者は精神分析を筆頭にした解釈を中心としたかかわりであり、後者は解釈以外の支持的なかかわりや種々の「パラメーター」を混入させたものであった。そして探索的療法の、支持的療法に対する優位性については暗黙の了解があった。それはそもそもフロイトが唱えた「解釈か、(非解釈的な)示唆 suggestion か」、というテーマと、前者の後者に対する優位性に端を発していたといっていい。フロイトは何しろ前者を金、後者を混じり物の入った合金というたとえを用いて紹介しているからだ。前者がより本質的で価値のあるものであるという含みは明らかである。
フロイトの確立した精神分析の最も魅力的な部分は、患者の無意識を治療者が知ることが出来、そしてそれを伝えることで患者の精神の構造が本質的に変わる、という考えである。それが心の治療に関心を持つ多くの人を惹きつけ、トレーニングへと誘い、理論の勉強へと駆り立てる。私自身もそうして精神分析に魅せられ、それを学んできたが、実際の臨床における患者のあり方は、フロイトが想定したものと若干の(あるいはかなりの)齟齬を見せる。患者は治療者の解釈以外のところで反応し、言葉によるかかわりとは少し別の部分(「しばしば関係性」と漠然と呼んでいるもの)から影響を受ける。その中で治療者が実は何をしたいと望んでいるのかを知っておくことが、(患者の人生を変えたいという欲望も含めて)より重要視されるようになってきている。治療者が自分のできることは、高々現実を提供することに過ぎない、という謙虚な姿勢であることは実は非常に重要な点なのである。(ここでの「現実」とは何か、を言い出すとヤヤこしくなるので、ここでは省略。)