2011年3月20日日曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(8)(このブログの名前の由来?)

今日は安永浩先生のお通夜であった。素晴らしく前向きなご遺族。先生の全うされた人生を改めて振り返るような式だった。いろいろご家族でなくてはわからない先生の横顔をお聞きすることが出来た。どんなに才能豊かな人でも、家族にとっては普通の人になってしまうということが興味深かった。

没我性と我執性の相克、という話の続きである。いきなり難しい表現が出てきたとお思いであろうが、ドイツ流の精神病理学にはよく出てくる。確かクラーゲスという人の本がその源のかなり近くにあったと思うが、たとえば体系と性格で有名なエルンスト・クレッチマーの精神医学も、ドイツ出身でアメリカでサリバン派として活躍したカレン・ホーナイなども、この図式を使っている。昔精神病理学なるものを一時かじっていたときに、ここら辺を読み漁っていた。両方ともドイツ語のゼルプストなんとかかんとか、という語源の日本語訳というわけだ。
要するに人は二つの傾向を持っている。自分を守り、自分を主張し、他人を打ち負かすという傾向と、逆に他人に譲り、他人の主張に任せ、自分を消し去るという傾向である。私たちは日常的にその相克を体験しているというわけだ。わかりやすく言い換えれば、他者との関係でどちらが主でどちらが奴か、どちらが強者でどちらが弱者か、という相対的な位置関係のようなものだが、どちらにもそれなりの満足感が伴い、それぞれを個別に求める傾向が私たちの中にあるというわけだ。
単純な図式だけに、いろいろな文脈に当てはめることができる。精神分析的にいえば、我執とはエディプス葛藤で父親を打ち負かしたいという願望や衝動に関係し、没我とは父親にひれ伏して受身的女性的態勢をとる方向性に関係する。エディプス葛藤とは、このどちらかに引き裂かれてしまっている状態だ。また対人恐怖の文脈ではすでに説明したように、我執とは「自分は誰も怖くない。何事も恐れずに自分を表現する」ということであり、没我とは「自分には表現すべきものはない。自分はわが身を隠したい」ということだ。対人恐怖においては、この両者に引き裂かれていて身動きが取れない。
この双方の状況に共通しているのは何だろうか?それはこの相克ないしは葛藤を象徴としてではなく、極めて具体的なものとして体験していることだ。もともとこの葛藤には最終的な結論は出ず、ある意味ではどちらでもいいのだ、という姿勢が取れないのである。
ところが私たちが日常生活でかかわる他者との関係を考えればわかるとおり、他者との上下関係や強弱の関係は、いわば約束事であり、現実の強弱を反映しているものではない。会社の上司との関係を例にとってみよう。立場上は上下関係がある。上司にはかなりひどい小言を聞かされても部下としては耐えなくてはならない。何をするにも上司にお伺いを立てなくてはならない。でもそれは上司との本質的な優劣を決定しているわけではないことがわかっているから、部下は耐えられるのであろう。
慧眼な読者なら、この没我性と我執性の相克という問題が、私が本シリーズの(2)で示した図式、すなわち理想自己と恥ずべき自己の図で表した問題と結局は同じことであるという点にお気づきであろう。そのとき対人恐怖症状の深刻さはこの両自己像の隔たりに反映されていると説明した。対人恐怖においてその隔たりが継続しているひとつの理由は、当人がその両方の自己像を直視しないことにあるといっていい。対人恐怖の人は、自分を恥ずべき存在と見做す際は、徹底して自分を貶める。手が震えたり声が震えたり、赤面している自分は、それを見たら誰もが軽蔑したりあまりの悲惨さに言葉を失ったりするような姿であると感じている。それらの人に欠けているのは、おそらく人前で緊張をしたり、パフォーマンスを前にしてしり込みをしたりするのはごく普通の人にもおきることであり、特別なことではないこと、そしてその姿を他人に見せたからといって二度と人前に出られなくなったり社会的な生命が奪われたりするわけではないということである。そして人前での緊張や引っ込み思案は、他人に自己主張や発言のチャンスを与え、いわば謙譲の美徳にも裏打ちされているということを理解するということだ。そしてそれを体験することが治療関係なのである。
つまり気弱でいいのだという開き直りが突破口のひとつとなるのである。ということで私のブログの題は、「気弱な精神科医」なのだ。(実は本の編集者が勝手に決めた。私は反対しなかっただけだ。つまり治療的だったというわけである。)