2011年3月17日木曜日

大震災の爪跡(5) + 社交恐怖の精神分析的なアプローチ(6)

あすで震災から一週間。まだまだ日常を取り戻したには程遠い。でも余震は今日は少なかった気がする。自分がある程度役割をはたすことを予定されていた集まりが次々とキャンセルになっている。そのせいか時間の余裕ができている。その分本を読み、原稿書きに費やす。診療は今日などは大多数の患者さんは外来にいらっしゃる。皆さん震災のせいか体調がすぐれない。まず尋ねることは、この一週間の様子。怪我はなかったか、家族は無事だったか。帰りは銀座線が止まっていた。いらだちを隠せないひとが多い。外は春には程遠い寒さ。青山通りを帰る。いつもよりずっと暗く、ネオンも見えない。立ち寄ったコンビニに、少しは品は戻ってきている印象。しかしガソリンスタンドにはどこも長い列。むろん東北地方の惨状はいやでも耳に入ってくる。そのたびに心が痛む。福島原発は3号機への放水が始まったばかり。まだ先が見えない。

手が震えるという訴えの40代前半の女性Aさんの話であった。B先生はCBT(認知行動療法)的な要素を取り入れようとしていた。あの有名なCBT、保険の点数にも加えられることになった治療法である。精神分析的なオリエンテーションを持つB先生にとっては、CBTはいわばライバルのような治療法である。しかしそのような手法もAさんには必要だと考えていた。しかしB先生のCBTの導入の仕方は、やはりどこか「精神分析的」であった。
B先生のCBTの導入は、ある意味ではごく自然な発想に基づくものであった。それは治療状況で「手が震えやすい環境」を作り出し、Aさんにそれに慣れる練習を一緒にしよう、という提案だった。これまでの私の説明では、治療環境は、それが安定したものであればあるほど、対人恐怖を起こす可能性のある「パフォーマンス状況」がおきにくいということであった。しかし、だからこそ治療状況は手の震えを再現するのに最適なのである。なぜならB先生との治療状況においては、パフォーマンス状況を作り出すことは恐れを抱かせるものではないからだ。あえて言えばむしろ照れくさいもの、違和感を覚えるようなものだからである。
B先生はこんな提案をした。「ここではどんなことを話してもいい、という状況は同じですが、ここであなたの手の震えそのものに付いても目を向けてみませんか。」
そしてまずAさんに、治療室で練習できるような課題を考えてもらった。Aさんはそんなことを提案されたことがなかったので、少し当惑した。そこでB先生は手助けをして、一緒にその課題を考え、Aさんは面接中にコーヒーカップに入れた水を飲みながら話す、という課題を考えることで落ちついた。B先生はそれに合意し、ちょうどそれに使えるようなコーヒーカップをクリニックのキッチンから借りて来ることが出来た。B先生はクリニックの給湯室にあったインスタントコーヒーを二人分淹れて、カップの8分目くらいになるくらいに注いでAさんに渡す。セッションはオフィスにあるデスクをはさんで行うことにした。こうすることでAさんもB先生もカップを目の前におくことが出来る。
B先生は言う。「おそらくこんな状況はAさんが体験したことがないと思いますよ。」それに対してAさんは言う。「でも先生、これが結構あるから困るんです。最近では気の置けない友達と喫茶店でお茶を飲むことも出来ないんですよ。仕事に関係するミーティングなどで飲み物が出てもほとんど手をつけることが出来ません。」「そこが違うんですよ」、とB先生はにっこり。「Aさんはご自分が手が震えるのが怖いということを、友達にさえもおっしゃっていないんでしょう?仕事の関係のミーティングではなおさらですよね。でもここでは治療者である私はそれを知っています。私の前では、手の震えを隠す必要はないわけです。むしろどのように震えるか、自分の手の震えを『真似して』みてくれてもいいんですよ。」