2011年3月6日日曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(2)

対人恐怖とは「自己と他者と時間とをめぐる闘いの病」と表現することが出来る。対人恐怖は自分と他者との間に生じる相克であり、そこに時間の要素が決定的に関与している。それはどういうことか。私たちは自分自身の中で他者への表現を積極的に行う部分と、なるべく隠蔽しておく部分とを持っている。社会生活とは、前者を表現しつつ、後者を内側に秘めて他人とのかかわりを持つことである。それを時間軸上で行うのが、パフォーマンスである。これは順調に繰り広げられるのであれば問題はない。しかし時にはそれが裏目に出て、表現すべき自己は一向に表されず、逆に隠すべき部分が漏れ出してしまうという現象が起きる。そこで時間をとめることが出来ればいいのであるが、大抵はそうはいかない。だから時間との戦いなのである。
対人恐怖に苦しむ人は、通常ある現象に陥っている。それは出すべき部分と同時に隠すべき部分が漏れ出すという現象である。対人恐怖とは、良かれ悪しかれ、これに固着した病理なのである。これを総合的に扱わなくてはならない。アプローチは認知行動療法的であり、分析的である必要がある。
ごく簡単な例をあげてみよう。人前でのスピーチである。人前で話すことが苦手で、それにおそれを抱いたりそのような機会を何としてでも回避したいと願ったりしている人達は多い。もちろん人は自分のいいたいことをスムーズに言えればいいのであるが、言葉が使えてり口ごもったりどもったりして、肝心の言いたいことは一向に表現されず、そのかわり無様な話し方や内心の動揺を示すものばかりが口から出てきたらどうだろう。しかも一度口ごもったりどもったりした言葉は、もうすでに目の前の人の耳に届いていて、決して取り戻すことが出来ない。
ただし対人恐怖はこれにとどまらないところがある。それは他人に対する恥や負い目を常に持つところであり、人との接触に際して相手を過剰に意識してしまうという、恥多きパーソナリティ構造である。それが基礎にあり、そこから症状の形として生じるのが対人恐怖といえる。
読者はこの定義を聞いて、「どこが精神分析か?」と思うかも知れない。たしかにこの記述にはどこにも無意識という言葉は出てこないし、エディプスコンプレックスも姿を見せない。
私がそれらの伝統的な精神分析の概念の代わりに持ち込んだのが、二つの自己イメージの葛藤という図式である。ヒトは自分を理想化して持つイメージと、恥ずべき自分というイメージの二つを持つことが多い。そのイメージがかけ離れている場合に、この対人恐怖という現象が生じるという説明である。
先程のスピーチの例では、非常にうまくスピーチをしている自分のイメージと、言葉につまり吃っている恥ずべき自己イメージが大きく分極し、「ああ、自分は駄目だ!」という思いと共に、理想自己から恥ずべき自己への転落が起きる。それが著しい恥の感情をうみ、それが対人恐怖の病理の中核部分を形成する、と考えるのである。