2011年3月22日火曜日

社交恐怖の精神分析的なアプローチ(10)

うーん。「大震災の爪跡」はどうなったのだ?もう普通のブログに戻っているということはやはり日常に戻りつつあるということだろうか?余震に驚くことは若干少なくなっているのは、余震自体が少なくなっていることなのか、それとも「余震に慣れて」来ているのだろうか?相変わらずのモノ不足は一部は買占めによるものだろうが、生産が滞っていることもある。神さんに牛乳を頼まれて、四日目にして今日はじめて手に入った、というのも非日常ではあるが、そんなレベルでしか震災の影響を受けていないことがまた後ろめたい。家ではせいぜい節電に精を出している。(というより神さんがあちこちを消しまくって、家の中は真っ暗である。)安永先生のこと、ずっと考えている。お通夜の司会をした内海健先生の言葉が残っている。「これから何十年先に、安永先生を発見した精神科医たちは何を思うのだろうか・・・・」本当にそうである。

いったいこの読者を無視した「社交恐怖」シリーズがどこまで続くかはわからない。しかし読者を振り切ってでも行き着くところまで行き着かないわけにはいかない。というより論文を書くというのはそういうことだろう。書きながら考える。というより書き上げるために考える?これでも5月締め切りには危ないくらいだ。
アンドリュー・モリソンAndrew Morrison はアメリカの精神分析に恥の論理を持ち込んだ張本人の一人であろう。彼の「Shame The underside of Narcissism 恥-自己愛の裏の面」は1989年にThe Analytic Press社から発売されたが、私も非常に大きな力を得た。
モリソンはコフート派である。彼の主張はわかりやすい。彼は「恥とは自己愛の傷つきである。コフートははっきりとは言っていないが、彼の理論は恥の理論である(「恥の言語で綴られている(モリソン)」。」というわけで、恥の体験はコフート的な自己の病理ということになり、するとその成因もおのずと決まってくる。それは患者のプライドや健全な自己愛を育ててくれるような自己対象が養育環境において存在しなかったということになる。そして治療方針もまたわかりやすい。患者との間に成立する自己対象転移を中心にそれは展開することになる。
「ジコタイショウテンイ、だって??」と読者はおっしゃるかもしれない。「それって何?」自己対象転移とは何かを言う前に。自己対象 self-object とは何か?について説明しなくてはならない。
人は敬愛し、尊敬している他者から認められ、敬意を表されることを必要とする。それはあたかも生存のためには空中の酸素を必要とするように、である。精神的な意味で生き続けるためには、自分を認めてくれる誰か、を毎日のように望んでいるわけだ。それをコフートは自己対象と呼んだ。普通私たちはそのような存在に守られて育つ。幼少時は主として親がその役割を果たすであろう。そして成長してからも、友人や先輩や同僚や配偶者との間で、同様の関係を持つ。自己対象転移とは、治療関係において、治療者がそのような関係を取り持ってくれることを望む傾向を反映しているといえる。
ただし、である。
治療者が実際に自己対象として振舞うべきか、ということとは別なのである。つまり患者の話を静かに聴き、その存在を認め、自己価値観を高めるという、自己対象的な振る舞いをするべきかといえば、コフートは決してそうは言ってはいない。むしろそのような関係性を作ろうとしている患者のニーズについて扱っていくことが治療である、となる。そりゃそうだろう。ここら辺がやはり精神分析である。精神分析とは患者の心の動きを分析し、探求し、明らかにしていくことだからだ。
ここまでモリソン流、すなわちコフート流の恥の病理について、一筆書きをしたが、何が問題なのだろうか?対人恐怖に対する精神分析的なアプローチとして、これを最初から書いて論文として出せばよかったのではないか?でもそう簡単にはいかないのだ。そこにはいくつかの理由がある。
一番の悩ましい点は、社交恐怖、対人恐怖といった病態が、モリソン流の「恥の病理」と微妙にずれるということである。これは昨日のブログで少し触れたとおり、恥イコール自己愛の病理、としていることから来る問題ともいえる。対人恐怖者は、自己愛の病理を抱えているのか?必ずしもそうではないところが難しいのである。ただしモリソンの治療論を読むと、対人恐怖や恥を感じやすい人々を限定して論じるというよりは、自己愛の病理一般を恥という視点から見直すというニュアンスを持っていて、これはこれで非常に内容が深いという印象を受ける。これは彼が恥の防衛として生じるさまざまな病理、特に他人に対する憤りや軽蔑といった問題も自己愛が満たされないことから来る怒り(「自己愛憤怒」)という視点から扱っている。これはパーソナリティ障害に広く見られる問題を扱う手段としては非常に有効だと思うのであるが、そこに現れる患者像は、対人恐怖というよりはDSM的な自己愛パーソナリティ、すなわち自己中心的であり、他人を自分の自己愛の満足のために利用するといったタイプにより当てはまるという気がするのである。
ということで私の対人恐怖に関する臨床体験に移って2,3回論じて、このシリーズにけりをつけることを考えている。