2011年2月28日月曜日

テレビ局って、どうだかなー(2)

次の週の月曜日になって、件の番組制作会社から電話があった。「水曜日の撮影の件はいかがでしょうか?」そうか、やはりそのつもりだったのね。返事をしなかった自分も悪いと思い、「わかりました。でも水曜は外来で、夜にならないと時間が空きません。それでよろしければ。」ということで、水曜の夜7時半に、私が中央線沿線のある駅の近くに借りているオフィスに来ていただいた。代表者のA氏、そして照明さんとカメラ係。スタッフは合計3人で皆若い。名刺をいただいた担当のA氏からしてまだ30歳代といった印象である。私のオフィスは狭く、ソファーをずらしてカメラの位置を決め、背景にラシャ紙のようなものを張って設定するのに少し時間がかかった。その間にA氏から「先生にこんな風におっしゃっていただきたいのですが・・・」と渡されたものを見ると、なるほど台本も大体出来ている。「子供はどうしてうんこが好きか」というテーマで、精神分析でいう肛門期の話をして欲しいとのこと。これは予測していたのである程度期待されていたとおりの話をすることになった。「本当は、子供はウンチがタブーとしての存在であり、また擬似ウンチとしての粘土や泥んこが好きで・・・・」などとちょっと準備していた話をする余裕はなかった。
いよいよ場が設定され、ライトに照らされた私は2分くらいのトークをしたが、時々噛む。こちらは話すときはいつものことなので、気にもしなかったが、やり直して欲しいとのこと。「エー? こっちは噛んでナンボなのに」とか、ショーもないことを思いながら、仕方なく繰り返す。肛門期について話すたびに内容がかなり違うのが自分でも面白かった。さて撮影が終わり、若者が引き上げて言ったのが、8時半前。特に映像がどのような使われ方をするのか、とかギャラとか契約とかの話はなかった。
うちに帰って神さんにただ「取材を受けたよ」と話し、ほかには誰にも話さず、誰かが見たら何かいってくれるだろうかと思った。何も宣伝することはないし、何しろウンチの話だからね・・・・。
ということで数日後実際に放映されたはずだが、どうなったか。
ナーンにもなかったのである。いや正確に言えば、ある一人の院生さんから「先生がテレビに出ているのを昨日見ましたよ。夕方4時半ごろでしたよ。」フーンそうだったのか。昨日か。しかしウィークデイの4時半か?外で仕事をしている人はほとんど見ないだろうな。
結局なんてことはない。ほとんど誰からも反応なし。テレビに出るってそんなもんだ。それはそれで話の種にはなった。
さてこの話はあまりここでは終わらなかった。というよりはここで終わってしまったから終わらなかった、というべきか(相変わらずの持って回った言い方)。それで結局、「テレビ局って、なんだかなー」という私のため息になっていくのだが、それはまた後で。(続く。)

2011年2月27日日曜日

治療論 23 患者の人生に口出しをしない

2月25日(金曜日)の夜、NHKスペシャル「メガヒットの秘密~20年目のB’z~」(2008年に放送したもののアンコール)を見た。そのなかでグラミー賞受賞の松本孝弘の語ったことが印象的だった。彼は稲葉浩志とコンビを組んでいて、相手が出した企画で、「それってアリかよ!」と思うことが度々あったという。ヒットするわけないじゃん。ところがそれがヒットしたりするというのだ。そこで彼が学んだのは相手の出したものには口出しをしないということだったという。これってすごく大事なことだ。これだけ長くコンビが続くのも、実はこのお互いにあまり干渉をしないということだ。あえて言えば、夫婦が長くやっていけるのと似ている。私がよく言う「他人は不可解なり」ということだ。不可解さも理解したうえでそれを受け入れるということが共存共栄のためのひとつの知恵なのだ。お互いに理解しえないことを理解する、ということだ。そこで治療論に飛ぶ。

「治療論 23 患者の人生に口出しをしない」 これって、でもあまり説明の必要もないだろう。ただし読者は「治療者が患者の人生何もいわないなんて、いったいどこが治療なんだよ」と思われるかもしれない。第一患者が治療者に、自分の人生に口出しをして欲しい(つまりアドバイスを欲しい、指導して欲しい)という場合もあるだろう。そりゃそうだ。その場合は、「あなたねえ、治療者に自分の人生に口出ししてもらおうと思わないことですよ」などと「口出し」はしない。黙って「口出し」をするまでである。でもそれは請われて行う「口出し」であり、ある意味では本当の口出しではない。
患者の人生に口出しをしない最大の理由は何か?治療論 6(2010年11月6日)の、「患者の人生の流れは変えることができない」はこの際当てはまらない。第一に「治療者は患者の人生のことなど知らないし、わからない、アドバイスなど出来ない」というわけだ。

2011年2月26日土曜日

テレビ局って、どうだかなー(1)

最近あった話である。ある番組制作会社から勤め先の病院の広報係に電話があり、私にインタビューをしたいという。何か企画書までファックスされてきて、「つる瓶の何とかかんとか」(実は正式な名前あり、忘れた)という番組の企画の一つだという。そこで「子供ってウンチがどうして好きなの?」というテーマを扱うので岡野先生に精神分析の立場からインタビューしたい」ということなのである。しかもつきましては来週の午後水曜日に撮影にうかがっていいでしょうか?とある。よく読むとその番組は二週間ほど先には放映され、その一週間ほど前に私のインタビューをとりたいという。しかも時間まで指定されている・・・・・。私だって都合があるのに・・・・。そしてそのファックスには、もしよろしければどうか「○○」までご連絡ください、とあった。
私はテレビインタビューには、短いものに二回出たことがあるが、全国ネットというのは初めてだし、第一ハズカしい。顔が出るなんていやだ。出るならモザイクで、などと考えていたが、最近自分でこんな突込みを入れるようになって来た。「だってどうせ誰も注目してないし。」
私は極端にシャイだから町でテレビカメラを向けられてインタビューをされそうになったら、まず逃げ回ると思う。それが全国ネットなんて・・・ありえない、と思っていたが、考えてみると誰でも(といっては大げさだが)テレビに出る時代である。どこかの医師が意見を求められてちょっと出るなんて事は、毎日何度も見ている。それらの人たちの顔や名前をいちいち覚えているわけがないし、そのような一人として扱われて、「いや、待ってください、顔は撮らないでください」とか「ちょっと変装しますから」などといったら、絶対「このおじさん、どこまで自意識過剰なの?」ということになる。普通に出れば、自然に・・・と思うようになった。何度もあることじゃないし、何事も経験だし。
でもやはり気が乗らなかったので、私はこのリクエストを無視していた。だって「子供がなぜウンチがすきか?」なんていうテーマでどうしてインタビューを受けたくちゃいけないの?っていうか、何でオレなの? どうせ3,4日返事をしなければ、向こうはあきらめて誰か別の人にあたるんじゃないか?何しろ6日以内に撮りたいといっているんだから。しかしこれが甘かった・・・・(続く)

2011年2月25日金曜日

治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(3)

このテーマをもう少し続けるが、「怒りの芽」がなぜ大切かについては、私の個人的な体験を説明するとわかりやすくなるだろう。(このままだときっと誤解を生んだままである。)私のように「気弱」で優柔不断だと、人から何かを頼まれるとそれに流されやすい。限界を設けること、つまり「ここまでにしましょうね」と言うことはどちらかというと苦手で、普段はある種のきっかけが必要だ。そしてそれはある種の感情的な反応である。手短に言えば、相手に対して怒ってしまえばどんな切り方も出来てしまうのだ。知り合いと縁を切る、などという物騒なことは、若いころはいざ知らず最近では自分から仕掛けたことはほとんどないが、もしそうするきっかけがあるとしたら、相手の不誠実さに腹が立った時である。そうすると優柔不断な自分の人格が別人格に変わってしまう感じである。
でも逆にいえば、相手に不誠実さがないのに縁を切るということは普通は起きないということになる。もし知り合いの誰かが何かをきっかけにして世間から石もて追われる身になったら、むしろできるだけ援助したいという立場である。
私は人はいい方だから、何かを頼まれ、その人がまっすぐな人で、まっすぐな頼み方をしてきたら、私は一肌脱ぎましょう、という気になる。大抵は若干だが安請け合いの傾向すらあり、後で苦労したりする。ところが相手の態度や言動に不誠実さが感じられ、「え、それっておかしくない?」と思えてくると、その人にかかわっていることがむなしくなり、むしろ自分の方が大事、という感じになる。
もちろん相手の不誠実を感じるこちら側の自己欺瞞もあるだろう。だからあくまでも私が主観的にどう感じるかということが問題となっているのだ。そしてその際の怒りの源泉は、自己愛的なもの、セルフィッシュな感情だ。つまり相手に侵害された、時間を無駄にされた、利用されたという感覚である。これらにより生じる感情は、怒りそのものではないにしても、そのバリアントと理解している。
怒りないしは「怒りの芽」により相手を拒絶できると言ったが、実際にはそれらの感情に至る前に相手と距離を取り始めていることがむしろ多いかもしれない。ここで受けてしまうと「怒りの芽」がでてしまうなと感じると、最初から拒絶や限界設定を考えるという風にしている。でもやはり自分の(想像上の)感情を決め手に使っていることには変わりはない。
もちろん限界設定には、私自身のパーソナルスペースを必ずしも脅かさないものもある。しかしある行動や要求を許容することが、ある種の社会のルールや、物事の限度を破ることになると、それによる不快感は私の個人的な不快感とあまり変わらなくなって来る。
ここで改めて強調したいのは、「怒りの芽」は非常に主観的で、それ自身の正当性を客観的には証明できないようなものだということである。しかしそれが相手をフェアに扱う、あるいは相手のアンフェアさに付き合わない、不当な要求は聞かない、というある種普遍的な価値判断に使われるというところが興味ふかいのである。
私は法曹界のことは何も知らないが、おそらく裁判官などの仕事においても、最終的にどのような判決を下す際に頼るのは、おそらくこの個人的な感情なのだと思う。これはロボットにはできないことだ。ロボットは最終的な判決にいたるまでの思考や判断の道筋をアシストしてくれるに過ぎないであろう。感情という羅針盤を持たないからだ。

2011年2月24日木曜日

治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う(2)

昨日の発言は明らかに説明不足だったと思うので、付け足し。
ある患者さんの治療時間の後に、治療者が待合室を通りがかった際に、その患者さんに呼び止められたとする。彼は治療者に尋ね忘れたことを思い出したので、ほんの1,2分だけ話したいという。治療者はそれにどう応じようかと迷った後に、次の二つの反応をする可能性がある。ひとつはそれに応じる場合。もうひとつは応じない場合。
ただし治療時間以外はいかなる接触も持たないということが規則や前提となっている治療の場合には、治療者が患者さんの呼びかけに応じて立ち止まって話をするということは論外かもしれない。そこで私が想定するのはごく一般的な治療状況であり、患者さんのリクエストに応じるかどうかがその治療者自身によってもバラつきが出てくるような状況であるとしよう。(もちろん1,2分の立ち話、というのでは応じられないという方針は常に決まっているという場合には、その状況を少し動かそう。たとえば30秒だけとか、イエス、ノーで答えられる程度の質問を投げかけられるとか。あるいはその程度の立場話には必ず応じる、という治療者の場合には、その時間を5分とか10分とかに代えて考えればいいかもしれない。とにかく治療者が十分に迷う余地があることを想定したいのだ。)
さてそのような状況で治療者が患者さんからのリクエストに応じずに「いや、この次のセッションでお聞きしましょう」と言い残して去るとしたら、それはどのような状況だろう?何が治療者にそう決めさせているのだろう?
当然治療者の頭には治療構造がある。治療構造を遵守するつもりはあっても、ある程度の柔軟性を持たせたいという気持ちは大方の治療者に共通していることだろう。それに治療者が守るべき治療構造として、その行動が事細かに規定されているわけではない以上(例えば治療室以外に接触をするのはどのような状況において許されるのか、など)、適切な判断をその場で下さなくてはならないことは沢山あるはずだ。 
昨日私が言いたかったのは、そのような際に判断の材料になるのは、治療者の感情的な反応である、ということなのだ。昨日は「怒りの芽」、ということを書いたが、それはそのひとつのプロトタイプといえる。1,2分の立ち話を請われたくらいでムカッとする治療者はいないかもしれない。でもそれも状況次第だ。それが治療の後に頻繁におき、そのことについて何度も治療中に話し合われ、「治療時間で扱えなかったことは、次のセッションまで持ち越しましょう」という約束事が出来ているとしたらどうだろう。治療者は「またか!」と思うかもしれない。そのときには患者さんに対して、何かそれまでの話し合いやそれに基づく約束を反故にされた感じ、治療者としての自分の存在を軽んじられた感じ、患者さんに利用されている感じなど、さまざまな気持ちが起きるかもしれない。もちろん実際の状況はそこまで煮詰まってはいないであろうし、その場合は治療者の感じる抵抗や一瞬の不快感はその「怒りの芽」が何倍にも薄まった感情かもしれない。それは面倒くさいという感じ、わずらわしい感じ、程度で済むかもしれない。そしてもちろん治療者はそれを顔には表さないであろう。「面倒くささの芽」「わずらわしさの芽」程度にとどめながら、患者さんのリクエストには応じない方向で対応する可能性が高くなる。
ところでここまでネガティブな「芽」を考えた以上、逆も考えなくてはならない。「うれしさの芽」、もありえるだろう。自分が患者さんから信用されていないのではないか、と疑心暗鬼になっている治療者は、セッションが終わっても話しかけてくる患者さんに喜んで応じたくなるかもしれない。これも感情的な反応であり、確実に何かを伝えていることになる。そしてそれも「芽」にとどめておくべき感情なのだろう。
このように考えると治療構造の順守や揺さぶり、破壊といった問題は、結局は治療者により自分への侵害、挑戦という形で感知され、扱われるということが分かる。治療者の感情的な反応はだから極めて重要な要素ということになる。

2011年2月23日水曜日

治療論 その22.治療者は「怒りの芽」を羅針盤に使う

怒りの問題は「気弱な精神科医・・・」の「汝怒るなかれ」の章とか、このブログの「怒らないこと」シリーズ(2010年8月後半から9月半ばまで)で扱ったことであるが、治療論にはあまり組み込んでいなかった。
時々聞く言葉。「先生に怒られて目が覚めました」(ある患者さんの言葉)とか「子供を叱らないでどうして教育ができようか?」(ある親のことば)とかを聞くと、思わず心が動かされそうになる。怒りには人を啓発したり導いたりする独特の効用があるのではないかと考えてしまう。が、やはりそれでも、怒りの表現はいらない、と思う。治療者にとっては、である。
いや、怒りがあってはいけないというのではない。怒りの表現は時には不可抗力だ。足を踏まれて「痛い!」というのに似ている。最初の瞬間の怒り、私が「怒りの芽」、と呼ぶ感情は、もうこれがなければ人間ではない、というくらいに自然なものだ。そうでないと痛覚のない人間のようになり、足を踏まれるがまま、人に小突かれるままになってしまい、たちまち痣だらけ、満身創痍になってしまうだろう。ただしその「痛い」を口にしない余裕があるのなら、その方がベターである場合が多いということだ。
人は怒りから逃れることは出来ない。人は否応なしにエゴイストであることを避けられないからだ。それがあまりに当然であるために、人は怒りを表現することを正当化する傾向にある。人が怒りを表現するのは、第一に、それが快楽的であり、第二に、それにより相手に復讐を果たすことができ、第三にその怒りを振り返る余裕がない(あるいは余裕を持とうとしない)からである。そして怒りを表現された側(つまり怒られた人)もそれにある程度免疫になっており、そのままやり過ごしたり、耐えたりして毎日を送っているのだ。
親や先生や指導者が、子供や生徒のために何かをするとき、その「何か」が全体として相手のためのものなら、その途中で腹が立ち、それを表現することも「コミ」というところがある。息子を剣道で鍛えようとする親は、子供の竹刀の持ち方や打ちこみの時の姿勢を怒鳴り付けて直そうとするかもしれない。それは怒っているように聞こえるだろうし、実際に怒ることもあるだろう。その度に父親は「待てよ、この怒りは私の何を表現しているのだろう?」などと考えている暇などないだろう。怒りを振り返ることにはエネルギーが必要だし、そのエネルギーをむしろ子供を鍛え上げることのために使うことはおそらく正当なことだろう。しかし怒りは必ずそこにエゴイズムが入り込むために、トラウマとして働く可能性がある。そこが問題だ。
私は治療者とは、自分の怒りを解毒するだけの精神的、時間的な余裕をもった職業だと規定したい。そこにはトラウマが生じる余地は、可能な限り回避しなくてはならないのだ。親にも、先生にも、スポーツトレーナーにもその余裕はおそらくない。しかし一日のうちの限られた時間を患者のために注ぐ治療者は、みずからの怒りを十分に検討する余裕がなくてはならない。するとその怒りは解毒されて、治療者は怒りの代わりに当惑や困惑を表現することになる。こちらの方は怒りの「正当な分解産物」として表現されてしかるべきであろうし、その事情はすでに「怒らないこと」シリーズのどこかで触れてある。
ただしこの治療論の文脈で強調しなくてはならないのは、怒りはシグナルとして、羅針盤としての意味を持つということである。患者さんがに対して限界設定が必要な場合、それを教えてくれるシグナルは、治療者の側の「怒りの芽」である。治療者が治療構造を引き締めなくてはならない時、「怒りの芽」を感じ取ることで、治療構造の綻びを感知するというわけだ。
たとえば患者さんが何回か連続してセッションに10分ほど遅れてきて、しかもそれについて振り返る様子のない時。治療者が自分を軽んじられた気持ちになり、「怒りの芽」が頭をもたげることが、彼の治療的な介入の引き金になるはずである。もちろんそこには個人差がある。患者の遅れに全然お構いなしで、何も感じない治療者の場合はどうか。それでもいいのだ。その治療者は別の仕方で構造を守ればいいだけの話である。
「治療者は怒るべからず、でも怒りをシグナルとして使え」、とは意味不明と思われるかもしれない。ひょっとしたら明日はもう少し補足をするかもしれない。

2011年2月22日火曜日

うつ病のシリーズ 本当に最後

うつ病の話を、「積み残し」とか言って引っ張ってきたが、本当に今日で最後にしたい。「新型うつ病」の話に関して、「結局現代人の甘えじゃないの」、「病気のフリをしているんじゃないの?」という論調がいやで(というよりは直感的に、おかしいという気がして)、それを論駁したくてこうして書いてきたというところがある。患者さんの苦しみの軽視ではないの、というわけだ。
そこで最後に書いておきたいのは、自殺率のことである。もしうつ病者の究極の訴えが自殺願望であり、それにしか活路(というのもヘンだが) を見出せないとしたら、それは本当のうつ病であろう。もし「新型うつ病」がうつ病もどきであり、他人に関心を払ってほしいだけ、甘えだけだとしても、それが自殺にまでいたったとしたら、それはやはり心からの訴えであり、苦しみの表明ということになるだろう。
同様の議論は、たとえばボーダーさんなどについても成り立つ。いかに自殺企図が頻繁であり、例え思わせぶりに思えても、実際に患者さんが自殺してしまったら、それを本気にしなかった治療者は障害にわたって後悔するだろう。「彼女の自殺願望は、本当のものだったのだ・・・」と。それにより実際に死んでしまうとしたら、問題である。死んでしまいたいという訴えの何分の一かは本当であったのだろうし、それはボーダーさんの自殺の脅しは真剣に聞く必要はないという議論には真っ向から反することになる。
そこで自殺率はどうなのか?これまでも引用してきた「精神神経誌」の特集号で張賢徳先生がこの点に触れている。彼の報告では、自殺者の90パーセントが精神障害を抱えており、過半数がうつ病であったという。そして「うつ病患者は増えているのか」という本質的な問題についても触れ、それについての二つの可能性について論じている。ひとつはうつ病が受診するようになったから、もうひとつはうつ病概念が拡散したから。その上で彼はやはりうつ病は実数が増加しているという立場を取る。
そして先生の結論はアッパレなのだ。
「内因性でも、それ以外でもうつはうつだ。自殺は起きうるではないか。ちゃんと対応しなくてはならない。」
張賢徳先生に喝采を送り、このシリーズをひとまず終わる。

2011年2月21日月曜日

うつ病についての積み残し (3) それなりにオーソリティのある「新型うつ」でも、中身は同じもの

ところでこの「精神神経学雑誌」でよく見かけるのが、いわゆる「ディスチミア親和型うつ」で、これは九州大学大学院の神庭重信教授がよくおっしゃっている概念だ。ネットのある情報によれば、この概念の発症は、名付け親は、九州大学大学院生の樽味伸(たるみ しん)さん(2005年7月、33歳で死去なさったということである)。これには文献があり、そこで以下の表が出てくる。(樽味伸,神庭重信:うつ病の社会文化的試論-とくに「ディスチミア親和型うつ病」についてー.日本社会精神医学会雑誌 13:129-136,2005)
表 ディスチミア親和型うつ病とメランコリー親和型うつ病の対比

社会精神誌に掲載されるとなると、それなりにオーソライズされた概念となる。しかし結局は・・・・従来の非定型、あるいは抑うつ神経症などと同工異曲、というしかない。

2011年2月20日日曜日

うつ病について 積み残し(2) 現代社会で「未熟な人」は増えているのか?

うーん。私はどうも次の点で引っかかっているらしい。現代社会で人は未熟になってきていて、それが「新型うつ病の増加につながっている」という論旨である。これがどうしても気に食わない。どこか違う気がする。でもまだはっきりと論駁できていないという気がする。だからまだこのシリーズを止められないのだ。
これに関して昨日紹介した「精神神経学雑誌」で何人かのエキスパートが言っていることが興味深い。それは最近は自己愛が他の人が増えてきていて、自責的になるよりも他人を責める、という人が増えている。それが新型うつの見せかけ上の増加につながっているのではないか、と主張している。
それはこれでわかる気がする。現代人が他罰的になってきた、という主張には信憑性を感じる。たとえば今日こんなニュースをネットで拾った。

重体患者より「先に診ろ」…院内暴力が深刻化(2011年2月20日11時24分 読売新聞)
 香川県内の医療機関で、職員が患者から暴力や暴言を受ける被害が深刻化している。先月には県内で、傷害や暴行の疑いで逮捕される患者も相次いだ。 これらの「院内暴力」に対処するため、ここ数年、専門部署を設置したり、警察OBを常駐させたりする病院も増えている。・・・ 県も今年度、暴力の予防に重点を置いたマニュアルづくりに乗り出しており、医療現場での対策強化が進んできている。 ・・・ 県によると、県立の4医療施設では、2~3年前から医師や看護師への暴言が目立ち始め、次第にエスカレートしているという。最近では、被害に悩んで辞職した看護師も出ている。担当者は「理不尽な暴力にじっと耐えている職員も多く、把握できているのは氷山の一角。本当の被害は計り知れない」とため息を漏らす。・・・

 私はこれはあるともう。ある塾の講師(40代女性)は、ここ数年になり急に保護者のクレームが多くなったとしみじみ語っていた。学校での親のモンスター化が言われるようになったのもここ10年程のことである。私自身も以前だったら考えられないようなクレームを患者さんからいただくことが起きている。(もちろん私は悪くはない、という意味では言っていない。私の至らなさを以前だったら患者さんたちは口に出さずに我慢していた可能性がある。) 引きこもりの増加と同時に、クレイマーの増加は実際に起きているのだろう。これは了解できる。理由は分からないが。ただこれと、日本人の未熟化や、新型うつ病と結び付けるところが納得がいかないのだ。
 確かに日本人は人との接触でまずいことがあった場合に、激しくクレームをつけるようになったのだろう。しかし私はこれは未熟さとは無関係であると思う。なにも現代社会のあり方を最も敏感に表現しているはずの若者についてそれが起きているというわけではないのだ。おそらくモンスター化している親の年齢や、救急医を困らせる患者の年齢としては、30代、40代の中年層なのだろう。そしてその他罰傾向が、職場でのうつの際にも現れていて、それが現代人は都合よくうつになる!という印象を与えている気がする。つまり以前のように静かにうつになるのではなく「職場のせいでうつになりました」と声高に主張することで、会社側も心証を害し、苦々しく思うであろうからだ。
 ただこれは日本人の行動パターンが、少し変わってきたからであると考えたほうがわかりやすいように思う。何度も例に出して恐縮だが、私がアメリカから帰って体験した逆カルチャーショックの際は、日本人が依然として「理由もなく我慢する」傾向が強いことを改めて感じさせられた。いまそれが少しずつ変わりつつあるということだろう。つまり日本人は理由もなく我慢することを止めつつあるのだが、ただどのように自己主張をしたらいいかがわからない。だから時々突然怒りをぶちまける。すると対応する側もどうしたらいいかわからないで戸惑っているのだろう。サービスを共有する側(病院、学校、医師、など)が今度は「理由もなく我慢する」立場になっているのだ。
 アメリカ社会の場合は分かりやすい。患者さんが声を荒げると、あっという間にスタッフが「911」をダイアルして警察を呼ぶ。あるいはその前段階として警備員が呼ばれる。(少し大きなビルで、警備員が配置されていないことはない。大声が聞こえた直後には、すでに警備員の姿が見えることが多い。)かの地では、声を荒げることはverbal aggression (言葉の暴力)であり、すでに身体的な暴力と同様にご法度だからだ。それがわかっているから市民はよほどのことがない限り怒鳴らない。
 ところが病院などでは、患者さんが怒鳴り散らすのを前にして、職員が平身低頭、ということがよくある。まあアメリカと違い、患者さんがいくら声を荒げても、まさか米国のように懐から銃を取り出す、ということは起きないから、職員のほうもタカをくくっているというべきだろうが。

2011年2月19日土曜日

うつ病についての積み残し (1) 中安信夫先生の意見

小沢さんについて書いていて思ったこと。「欺瞞性」は人間性を語る上でで極めて重要な性質だが、精神分析にはそのような問題を語る言語はないように思う。でもそれは私達が常に他人から直感的に感じ取ることである。なぜならそれは私達が他人から見を守るために極めて重要だからだろう。ところが政治家としての力や価値は、おそらくそれとは別の次元である可能性がある。人を脅し、欺いて動かすことで大きな政治的な目的を達成することもできるからだ。そこが興味深くもあり、悲劇的なのだろう。鳩山兄弟は・・・・。

以下は積み残しだ。まだ論ずるべきテーマはたくさんある。私も精神科医の端くれだから、「新型うつ病」に関する日本精神医学会の意見を少し書いてみたい。これには格好の素材がある。日本精神神経学雑誌の比較的新しい号が、これを特集しているのだ。日本精神神経学雑誌といえば、精神科医の学会である日本精神神経学会の学会誌であり、非常に権威のある学術誌である。その2009年の第6号に「うつ病の広がりをどう考えるか」というシンポジウムの特集が掲載されている。そこには、日本の精神医学会をリードする先生方のこの問題についての見解が乗っている。これを少し整理したい。
その中で特に中安信夫先生の見解。
中安先生は私が昔ご指導いただいた先生で、高名な精神病理学者である。彼はDSM反対論者としても知られ、この号でももっぱらDSMにおける「大うつ病」に対する批判を行ないつつ、この問題について論じている。これは参考になる。ただし啓発される、というよりは、日本でのオーソリティの意見がどのようなものかよくわかるという意味でである。なるべくわかりやすく彼の主張をまとめてみたい。
「そもそも伝統的には、うつ病は次のように分類されていた。内因性と、反応性(心因性)と。これは基本的には妥当な分類だ。後者は抑うつ反応と、抑うつ神経症に別れるが、ある種の出来事に対する反応という意味では似ている。両者の違いといえば、「時が癒す」ことが出来れば抑うつ反応。「時が癒し」てくれなければ抑うつ神経症。つまりもともと性格の問題があると、時間が経っても体験の影響を受けつづけると考えられるからだ。ところが最近のDSMはこの基本的な分類を混乱させている。特に「大うつ病 major depression」という概念が問題だ。そもそもDSMの「成因を問わない」という方針が大間違いであり、従来の診断からは当然抑うつ反応や抑うつ神経症になるべきものが、「大うつ病」に分類される。なぜなら症状をカウントして9項目中8項目を満たす、などと機械的に診断を用いることで、簡単に大うつ病になってしまうからだ。従って「新型うつ病」という新しいうつ病も存在しない。それは本来は、心因反応や抑うつ神経症という診断をつけるべきものであり、それがDSMにより大うつ病と誤診されたものであるに過ぎない。その診断書をもって休職届けを出す人が増えた、というだけの話である。」
さて中安先生の見解に対する私の意見である。私は伝統的な、内因性か反応性(心因性)かという分類が、明確には出来ないというケースが多いという事情が問題なのであり、彼の理論はその点を考慮しているとは言いがたいと思う。この内因性か反応性か、という分類については、前者が私のいう「脳のうつ」、後者が「心のうつ」に大体相当するといっていいが、うつの難しい点は、後者が前者に移行し、前者は後者の体裁を取りつつ発症することがあるというところにある。
私は中安先生は、DSMの大うつ病の概念を全面否定するということで、理論的な整合性を犠牲にしてしまっているのではないかと思う。先生はかねてからDSMの「成因を問わない」という「操作主義的」な点を痛烈に批判なさる。しかしDSMのそのような性質は、もちろん多くの問題を含んでいるものの、精神医学の歴史の流れの上である程度の必然性をともなってできたものであり、その価値を白か黒かで決められないと考える。中安先生は輝かしい業績のある、日本の精神医学の頭脳とでもいうべき存在ではあるが、DSMに対する反発や怒りが、彼の臨床観察の精度を落としているように思えてならない。
うつをひとつの症候群とみなして、「不眠、抑うつ気分、食欲の減退、自殺念慮・・・・などをいくつ以上満たしたら、うつ病と呼ぼう」という約束事はやはり必要と思う。なぜなら何をうつ病と呼ぶかが、人によりあまりにも異なるからだ。うつを内因と心因に分けるという発想自体が過去のものになりつつある。それが内因性でも心因性でも、うつはうつ、なのである。一見心因性と思われたうつが、結局長引いて深刻なうつになる、ということが実際に起きるからだ。それほど心因性の疾患という概念は曖昧な点を含んでいる。何が心因かが結局は主観的な問題でしかありえないということを、この四半世紀のあいだの外傷理論の変遷が示しているのだ。

2011年2月18日金曜日

うつ病再考 その(11)結論

結構引き伸ばしてきた「うつ病再考」であるが、やはりたいしたアイデアは浮かばなかった。「新型うつ病の本質に迫る」はやはり、竜頭蛇尾、羊頭狗肉であった。それは認める。しかしそんなに簡単に本質に迫れるものだろうか。新型うつ病で本を書いている人に悪いではないか。以下に述べるのはこの一連のテーマを終えるにあたってのまとめというよりは、感想、雑感である。
まず「新型うつ病」という言い方は正しくないだろう。というのはこのタイプのうつ病は、従来からあったからだ。従来「抑うつ神経症」と呼ばれたり、DSMでは「非定型」と呼ばれたものがこれに相当する。これについては、過去のブログ(シリーズ「怠け病」はあるのか? その7 12月14日)で記載したので、少し抜粋する(スペース稼ぎでは決してない)。
「うつには、メランコリー型と、非定型が分類されている。DSMの今のスタイルはDSM-Ⅲに始まるから、1980年以来、つまりもう30年も前からこの分類があることになる。新型うつ病は、特に「新しい」タイプのうつということでもないのだ。メランコリー型とは、典型的なうつの性質を備えたもの。朝特に憂うつな気分であり、夕方に向かって気分が上向いていく。食欲がなくなり、夜も眠れない、といった点が特徴だ。正真正銘のうつ。誰もこちらのうつになった人を見て「あなた本当にうつ?」とは聞かないだろう。それに比べて非定型の欝は、 過食、過眠が特徴である上に、rejection sensitivity という特徴がある。日本語にすると「見捨てられ過敏性」というわけだが、つまり人に拒否されたり見捨てられたりすることに敏感で、グーッと気分が落ち込んでくるのである。こちらが、怠け病と一緒にされる。「うつになりました」、といいながらグーグー寝てよく食べて、人にシカトされると落ち込み、声をかけてもらえると気分を直すという人は、なかなか本物のうつをやんでいる人として同情されないだろう。」
実はこの非定型なうつは、昔は「抑うつ神経症」と呼ばれていたものだという人が多い。つまりは性格によるうつ、と見られていたという歴史がある。「あの人のうつは、本当のうつというよりは、すぐ傷ついて落ち込みやすい性格の問題だから」、といわれるような、うつモドキと考えられていたということだ。ということは、新型は決して新型ではないということだ。動物だって、すでに30年前から図鑑に載っていたがあまり注目されていない種が、最近目立ってきたからといって、それを「新種」とすることは出来ない。 しかし「非定型うつ」がなぜ、あたかも急に広まってきたように見えたのか。それには理屈上2つの可能性がある。

① 実際に「非定型のうつ」を病む人が増えてきた。
②「非定型のうつ」を有する人が、それだけ多く診断されるようになった。

さてここからは、私の想像であるが、根拠がないわけではない。アスペルガーの人がどうしてこんなに増えてきたのか?多重人格がどうしてふえてきたのか?ボーダーラインが増えてきたのは? ADHDがなぜ?・・・・。これらはすべて過去30年に議論されているが、これらについていえるのは、おそらく①,②の両方であるということだ。多分「非定型」の場合もそうなのだろう。
私は個人的には、そのうち②の影響が大きいように思う。なぜなら、まずSSRIの使用が多くなっているのだ。内科の先生もどんどん出すようになっている。当然うつ病と診断される人の数も多くなっている。数が多いということは、軽症も診断するということだ。ということは・・・・。
私は「結構昔もこんな人が社会のどこかに隠れていたんだろう。」という議論が好きだ。とにかく昔はいろいろなことがイーカゲンだった。町は野良犬にあふれていた。私が一時属していた高校のサッカー部の部室には、野良犬がいつも数匹住んでいた。部室の奥で、犬が出産したこともある。誰も綱をつけろ、ということは言わなかった。また昔は皆バイクをイーカゲンに止めていた。何もかもが適当に、イー加減に、注意を向けられたり取り締まられたりすることなく存在していた。
同じように、仕事場で落ち込んで、「もういきたくねー」となった会社員は、昔から結構いたのだろう。出社しても社にいたくなくて、仕事時間中に抜け出して近くのパチンコ屋にばかり行っていて上司に怒られた、なんて人もいたはずだ。(タイムカードなどなかったころはそうだっただろう。)規則にそぐわない人たちがそれでも許容され、社会に受け入れられていたのだと思う。
私は「最近の社会人は未熟だ」から「怠け方、甘え型のうつが広がった」と考えるよりは少しすっきりする。というのも「近頃の若い者は・・・」という議論は昔からいつの時代もあったのだ。それほど若い者が難題にもわたって未熟になっていたら、おそらく現代人は江戸時代や奈良時代、縄文時代の人間よりよほど未熟でだらしなく、甘ったれと言うことになるだろう。
ただしそれでも説明できないのは、いわゆる退却型の人々の増加である。少なくとも引きこもりの増加は確からしい。これは別問題という気がする。引きこもりといわれている人々の一部はむしろ恐怖症と理解できるという可能性についてはすでに述べた。つかり彼らを社会から遠ざけて自室に追いやるのは、怠けではなく、一種の不安であり恐怖であるという捉え方だ。しかし彼らを自室へと吸引しているものとしてネット社会の影響があるのではないか。単純な発想ではあるが。バーチャルな世界が面白くなりすぎて、「リアルな世界の充実」を求めなくなっているとしたら、これは人類が直面した新たな問題といえる。コンピューターやケータイでのゲームというのは人類がかつて経験したことのない現象だから、それが人間の脳や社会的な行動のパターンにどのような影響を与えているかは未知数である。「非定型」「新型うつ病」と呼ばれるものの存在を支えるものの一部は、これなのではないか、とも考える。

ということでよくわからない形で、このシリーズを終わる。

2011年2月17日木曜日

コワいコワい小沢さんの「ボーダーライン」

「民主党の小沢一郎元代表を支持する同党衆院議員16人が17日、衆院の会派「民主党・無所属クラブ」(307人)からの離脱を求める意向を表明した。離脱には党の了解が必要で執行部は認めない方針だが、16人は菅直人首相の退陣を公然と要求。小沢氏の党員資格停止処分に反発して予算案や予算関連法案の採決で造反する構えもみせており、菅内閣の「倒閣」の動きが党内から噴き出した。」 (朝日新聞、電子版、2月17日)
小沢さんは昔から、「豪腕」、とか「壊し屋」、とか言われている。実にたくみに組織をスプリットし、分断し、破壊する。精神医学的には小沢さんは「N」(つまり自己愛パーソナリティ)なのだろうが、私の直感では小沢さんは「B」的でもある。Bとはボーダーライン。ボーダーラインの本質はいろいろな捉え方ができるだろうが、そのひとつに対象をスプリットし、操作するという特徴がある。ある感情、通常は強い怒りに駆られて相手を攻撃し、破壊する。そのためには手段を選ばないようなところ。私の目には、菅さんや岡田さんのやり方は、「普通」「常識的」な部類に入る。策を弄しているという感じはしない。それに比べて豪腕の小沢さんは、「その手があったか!」というやり方をしてくる。それがたとえば今回のこの民主党の分断工作である。その操作性は巧妙で、自分の味方か、敵かという構図を作り、それに乗ってしまう人々の運命を翻弄する。
もちろん小沢さん本人をボーダーさんと決め付けることは出来ない。ボーダーさんの分断は、普通はうまくいかずに、自己破壊的な方向に向かう。またその力が働くのは対の関係であり、親密な関係を結び、まさに今時分を去ろうとしている個人に対して向けられる操作性や攻撃性が問題となる。だから私自身、どうして小沢さんをB的と感じるかよくわからないが・・・・・。やはりNにしてはうまくいっていない感じがある。大体彼は絶頂にあり、自己愛を肥大させるような時期はあったのだろうか? あれだけの大物であり、政治生命も長いのに、総理を経験できていない。Nに特徴的な度量の大きさも感じられない。むしろ破滅するなら相手も一緒に巻き込んでしまおうという凄惨さ、迫力といったものが感じられるのである。結局小沢さんにとっての関心は、「国民の生活が第一」とは対極にある。それは自分のプライドを守ることであり、そしておそらくはその背景にある低い自己価値、ふがいなさ、恥の感覚に結びついているのだろうか? 
小沢さんをNの見地から見るなら、コフート的なNだろうか?彼のエネルギー源の多くは「自己愛憤怒」的である。「小沢さんはしばらくおとなしくしていただきたい」というあの一言で、菅さんは厄介な敵を作り出してしまったということだろう。

2011年2月16日水曜日

うつ病再考 その(10) 新型うつ病の本質に迫る(続) 好きなことだけやるのは「うつではない証拠」か?

ひとつ論じるべきテーマがある。昨日紹介した「こころ・・・」の編集者の文に「人事担当者には、外見上の元気な姿や友人と楽しく語るさまを見れば、『なまけている』としか映らない。」というくだりがあった。確かに「楽しいことだけやっている人たちはうつではない」という主張はわからないでもない。うつ状態とは、「物事すべてにやる気が起きなくなる。」「これはしたい、と思えることがなくなる」ものだ、と思われがちである。
しかしそれは重症のうつの場合で、うつが軽度の場合は、いろいろな中間状態が起きうる。あるうつの患者さんはこう言った。「うつになると、楽しんでやれるということが非常に限られてくるんです。」「友達と会っている時は精いっぱい笑顔を作り、盛り上がるようにします。そして帰るとどっと落ち込むのです。」これらの言葉は、うつ病の人が外からは生活を楽しんでいるように見えても、案外内情は複雑であることを示していると思われるであろう。


そこでちょっと当たり前の図を作ってみた。縦軸は、ある行動の量、横軸はうつの程度を示す。そして行動としては、快楽的な行動(自分で進んでやりたい行動)と苦痛な行動(義務感に駆られるだけの行動)を考え、それぞれがうつの程度により低下する様子を示した。うつの深刻度が増すとともに、快楽的な行動も、苦痛な行動もやれる量が下がってくる。ただその下がり方にずれがあるのだ。うつでない場合(Aのラインに相当)は、快楽的な行動だけでなく苦痛な行動も、それが必要である限りにおいては出来る。うつが軽度の場合(Bのラインに相当)は、苦痛な行動は取りにくくなるが、興味を持って出来ることは残っている。うつがさらに深刻になると(Cのラインに相当)両者とも出来なくなるわけだ。
行動を、快楽的なものと苦痛なものにわける、という論法は、私が私淑している安永浩先生の引用するウォーコップの「ものの考え方」理論に出てくる。苦痛な行動は、私たちがエネルギーの余剰を持つ場合には、エネルギーのレベルをを持ち上げることでこなすことができる。賃金をもらうためにだけ行う単純な肉体労働であっても、「ヨッシャー、ひと頑張りするか!」と自分を鼓舞することで、若干ではあっても快楽的な行動に変換できるからだ。(つまり行動自体は苦痛であっても、それをやり遂げて達成感を味わうための手段にすることで、それは幾分快楽的な性質を帯びることになるわけだ。「やる気を出す」、とはそういうことであり、うつの人が一番苦手とすることである。)
私が特に注意をしていただきたいのは、Bのラインの状態であり、好きなことは出来ても義務でやることは出来ないという状態だ。このような場合、好きなことを行うのは、自分のうつの治療というニュアンスを持つ。うつが軽度の場合、例えばパチンコを一日とか、テレビゲームを徹夜でする、とかいう行動がみられる場合があるが、これはそれによる一種の癒し効果がある場合であり、うつの本人にとっては、「少なくともこれをやっていれば時間をやり過ごすことができるからやらせてほしい」という気持ちであることが多い。しかしそれを見ている家族や上司は実に冷ややかな目を向けるのである。「あいつは仕事にもいかないで一日中ゲームをやっていてケシカラン。やはりなまけだ・・・・。」

2011年2月15日火曜日

うつ病再考 その(9) 新型うつ病の本質に迫る(続)

相変わらず「こころの科学 2007年9月号 職場復帰 うつかなまけか」を読んでいる。編集者(松崎一葉氏)が編集の趣旨をはっきり書いている箇所を発見。ちょっと長いけれど引用。

「本当にうつ病なんですか? なまけなんじゃないんですか?」こうした人事担当者の問いに窮する企業のメンタルヘルス関係者が増えてきた。近年、企業内で増えているのは、従来のような過重労働のはてにうつになる労働者たちではなく、パーソナリティの未熟などに起因する「復帰したがらないうつ」である。従来のうつの場合は、治療早期にもかかわらず、早く復帰することを焦るケースが多かった。ところが近年では寛快状態となり職場復帰プログラムを開始しようとしても「まだまだ無理です」と復帰を出来るだけ回避しようとするタイプが増えてきている。人事担当者には、外見上の元気な姿や友人と楽しく語るさまを見れば、「なまけている」としか映らない。会社を長休職していることに「申し訳ない」という気持ちは少ない。主治医の診断書は「うつ状態にてさらに一ヶ月の休養を要す」と毎月更新される。「いったいいつまで休むつもりなのか?」と人事担当者や上司は苛立つ。時には、このような状況が就業規則で定められたギリギリの休職期限まで続く。

この短い文章に、「新型うつ病」と呼ばれるものの本質が尽くされているといっていいだろう。「未熟な人格」というところから明らかなように、この「新型うつ病」にはネガティブなニュアンスが込められているのは明らかである。私はこれを読んで特に反対はしないが、素直に「フーンそうか、そういうタイプのうつが増えているのか・・・」という以外の考えがいくつか浮かぶ。それには、アメリカでの体験が大きい。
アメリカでは、「就業規則で定められたギリギリの休職期限まで休む」というのは、むしろ常識である。たとえば勤めて半年ほど経つと、月に一日のsick leave が与えられるようになる。つまり月に一日の割りで、風邪をひいて休んでも給料は出ますよ、というわけだ。これがannual leave つまり有給休暇と組み合わせて月に二日、という風に出たり、それぞれ一日ずつ別々に出ていたりする。前者の場合は、「病欠でも、バケーションでも、とにかく二日までは休みを認めましょう」ということだ。そして大体はその種の休暇は、その年度内ならためることが出来る。
たいていのアメリカ人は、月に一度くらいは、「ちょっと頭が痛い」程度で休むことでそのsick leave をコンスタントに消化している。アメリカ人は日本人と違って、貯金はあまりしないのである。そして年度の終わりに、「明日までに使い切らないと、失ってしまう」という状態で、定番の「いきなり風邪」となる。つまりその年度の最終日に、そのスタッフは朝から「風邪になったから休みます」と電話を入れるわけだ。
これをやられると同僚は困るのは確かだ。よく同僚の医者がこれをやると、その日のアポの患者が何人かの同僚に振り分けられたりして、迷惑だ。しかし「来週の月曜は風邪で休みます」と予定するわけにも行かないのが、このsick leave である。みんなお互いにこれをやりあうので、お互い様というところがある。
こんないい加減なことをやるアメリカ人よりも、日本人の職業倫理観がすぐれている、と言えないこともないのだろうが、少し反論してみる。まずアメリカの場合、休みを取ることは本人の権利だという意識が強いから、バックアップ体制ははるかにしっかりしている。何人かでオフィスを経営して臨床をやっているもの同士が、夏休みなどの期間にお互いに2週間ずつの休暇を取り、互いにカバーしあう約束をしてりたりする。それでもどうしようもないときに、医者の場合などは臨時で少し高い給料で派遣してくれるサービスが全国ネットであったりする。
それとsick leave自体はその日数はたいしたことはない。長期休暇となるとすぐに給料が出なくなるから、おいそれと休めない。(もちろん個人が高い掛け金を払って、疾病保険に入っていれば話は別である。)すると日本のように、医者からの診断書により有給の病欠がかなり長期にわたって取れるという体制自体はありえないことになる。
考えてみれば、体調を多少なりとも崩して、万全の体制で仕事に望める自信がない場合、許容範囲内で(つまり就業規則が定める限度で)休みを取ること自体はある意味では当たり前のことではないか?その間「同僚に迷惑がかかる」ことを気にする必要は本当はないはずだ。それはむしろ経営者側が何とかしなくてはならない問題だろう。何しろ経営者側が、そのような就業規則を決めているのだから。
このように考えると、現代人が未熟になったから「新型うつ病」タイプの休みが増えた、という見方のほかに、現代人がよりドライに、合理的に、アメリカ人的な発想を持つようになったのではないか、とも考えられるであろう。
そしてもうひとつの私の感想。冒頭で紹介した編集者が書いているような人って、本当にうつ、なのだろうか? いや、「新型うつ病」を「なまけ」と呼びかえるのが編集者の発想であるならば、私はそれに同意するつもりはない。私たちはおそらく別の種類の精神的な疾患を見ているという気がするのである。(続く)

2011年2月14日月曜日

うつ病再考 その(8)新型うつ病の本質に迫る

このブログを始めてもう9カ月になるが、一つ私の中で変わってきたのは、漢字の変換ミスに気をつけるようになったことだ。最初は「変換ミスも含めて自然体である。このままでいいんだ!」、などとうそぶいていたが、何しろ読者が20人になってしまったということは、心を入れ替えなくてはならない。変換ミスや誤字を放置するのは、シャツがはみ出ていたり、ネクタイが曲がったままで人前に出るようなものだ。それは20人の読者に失礼ということになるだろう。

この「新型うつ病の本質に迫る」という表題は、はっきり言ってはったりである。「本質に迫るぞ」と言いつつ、自分を鼓舞しているにすぎない。私がこのシリーズで何を書いているかというと、その短期的な目的は3月のあるセミナーで発表する内容をこうやって書きすすめながら考えていくことだが、長期的な目標は、いつもと同じである。それはそれはマイノリティ、ないしは世の中で不当な扱いを受けている少数の人々の代弁者となることである。一般人がある比較的安易な思考回路を用いて、物事の深層を軽視ないし無視して一部の人々を非難し、断罪することについて、「ちょっと待ってよ!」と言うことである。もちろんマイノリティを擁護する自分の立場もまたマイノリティであることは承知である。だから私の発言に対する典型的な反応は「えっ、あなたこと何を言っているの?」であることを想定している。
うつというテーマに関しては、私が日常臨床で、患者さんたちというマイノリティの人々と出会っている以上、主張すべきたくさんのテーマがある。そもそも「うつ病」ということ自体が一般的に誤解されている、ということを昨日までの7回のシリーズで論じてきた。今日からは、「新型うつ病」として「不当に扱われている人たち」の味方をしたい。
最近の傾向は、いわゆる「新型うつ病」という診断を口実に怠けている人たちが多い!という声がマジョリティになりつつある。そうすると私はマイノリティの側に立ち、「新型うつ病だって、しっかりうつ病ですよ」とか「新型うつ病って、実体はないのですよ」ということになる。
ところでこのテーマについて、格好の参考資料を見つけた。「こころの科学 2007年、9月号 職場復帰 うつかなまけか」ドンピシャ、ではないか。
ところでこの本、取り寄せたばかりでまだ読み込んではいないが、一部の識者たちの間では、従来のうつ病のタイプにあわないうつ病、「退却神経症」(笠原嘉氏)、「逃避型抑うつ」(広瀬徹也氏)「未熟型うつ病」(阿部隆明氏)、「現代型うつ病」(松浪克文氏)などの名前で呼ばれるようになってきている、いわば「怠け型」とでも言うべきうつ病が増えてきているという見解が共有されていることは読み取れる。この特集では、牛島定信先生、斉藤環先生、そして「心の科学」のこの特集の編者でもある松崎一葉先生もこのような見解を示している。そこで現れている特徴を私なりにまとめるならば、次のようになる。
いわゆるメランコリー親和型に見られるような、几帳面で働き者、完璧主義といった様子が見られず、むしろ自己愛的、他者依存傾向が強いなどの特徴が見られる。また職場を休んでも、アルバイトを始めたり、趣味に精を出したりといった特徴が見られるという。またケースによってはうつ病という診断をいわば口実のように使い、いざ仕事となると急に症状を訴えるといった好都合な振る舞いを見せる、などなど。全体的にネガティブな印象で描かれているのが一般的といえる。
さて私自身はこの種のうつが増えているかと問われれば・・・・。実はよくわからないのである。何しろ私の臨床経験のもっとも大事な部分である17年間がごっそり抜けている。もちろんこのようなケースは何人か扱っている。ただ昔に比べて増えているかどうか、ということについては実感がない。ずっと日本で仕事をしていたのなら、この30年の傾向はある程度つかめるのかと思うが、それは出来ない話である。ただ次のことだけは言える。
ひとつには、数字からして否定の仕様がない、「退却神経症」的なケースの増加である。何しろ引きこもりの数の増加が半端ではない。日本人の意識構造や、その背景となる社会構造に何らかの変化が起きているとしか考えられない。(ちなみに引きこもりは日本だけの傾向ではない。たとえば韓国にも顕著であるという事情を、斉藤環氏の講演から聞いた。)これらの人たちと「怠け型」とはプロフィールが似ている。ということは後者も増えている、と考えるべきではないか、とは確かに思う。
もうひとつは、うつ病の診断件数の明らかな増加。2000年以降日本でもSSRIが使用されるようになってきている。これは薬を処方する主体を確実に、精神科医から診療内科医、一般内科医へとシフトさせているであろう。それと共に「うつ病」の診断書が出される患者さんも増していることになる。するとその水増しされた分(おっと、「正当に診断されるようになった分」、と言い換えるべきだろう)として考えられるのは・・・・・・。
そしてもうひとつは、米国で散々聞かされていた、bipolar type II (双極性二型)の話。これは最近増えてきた、というのではなく、これまで見過ごされてきた精神疾患ということで多くの臨床家が指摘するようになってきている。これと日本の「新型」の増加説がなにやら関係している気がする・・・(続く。)

2011年2月13日日曜日

うつ病再考 その(7) かくしてうつは誤解される

ところで精神疾患の専門家である精神科医でさえ、うつには原因がある場合が多いという考え方に偏っている人がいる。精神科医はうつ病は「内因性」の病気であるということを知っているはずだ。「内因性」とは、「外因性」、つまり脳に対する外側からの、あるいは遺伝的な影響によるものとも、「心因性」、つまり精神的な原因によるもの(つまりは「心のうつ」に相当するもの)とも違うということになっている。「内因性」、とはつまり、脳の中で何かが起きているに違いないが、今のところはその正体は不明だという意味だ。しかしそのうち脳科学がすすめば、何らかの病変が見つかるはずで、その際は「外因」のもとに収められるようになるという前提がある。そうなると実は「内因性」と「外因性」を分ける意味があまりなくなってくるわけで、事実この区別はアメリカの精神医学では死語化しつつある。
さてうつ病に原因を想定する人は、たいていは「メランコリー親和型」、つまり几帳面で完璧主義な人たちが働きすぎてうつになる、と考える傾向にある。昔テレンバッハというドイツの高名な精神医学者(私はパリで実物を見たことがある。25年前、すでに高齢だった。)がそのような説を唱えたのだ。するとここで「きっかけ」を原因と勘違いする、という現象が起きる。例えば仕事でほんの少しつまずいて落ち込んだ、上司にちょっとダメ出しをされた、風邪をひいて体力が落ちた、という「きっかけ」が直接うつを引き起こしたと考える可能性があるのだ。そして「心のうつ」の第3原則がたちまち応用される。上司にちょっと注意されたという「きっかけ」によりうつになった人に対して、「そんなことくらいでうつになるとは、よほど心の弱い人だ」ということになるのだ。
原因のきっかけへの取り違えは、実は患者の家族にも、そしてここが重要なのだが、患者自身にも起きる。心のうつの原則を一番信じているのは、実は患者自身である。私達の心は、ほとんど常に僅かな心身の異常に対して原因を追求したり、説明したりしているのである。少し頭重いと思ったら、「ああ、昨日ワインを少し飲み過ぎたから」、耳鳴りがしたら「でもこれまでも時々あったのと同じだから、心配は要らないな。」とか。原因を追求することは、それにより少しでも心身の保全を守ることができるからだ。
普通は上司に叱られたくらいではめげない人でも、その後不眠が始まり、上司の叱責の声がなんども頭をめぐるようになったとしたら、それが原因でうつになった、と思うだろう。「一体オレはどうしたんだろう。あんな事くらいでこんなに落ち込むなんて・・・・。こんなに弱い人間だったとは知らなかった。」うつを誤解し、自分を弱い人間と一番思い込んでいる人は、実は患者さん自身だったりするのである。

うつ病再考 その(6)「心のうつ」と「脳のうつ」は合併し、影響しあう

昨日、痛恨のアップし忘れ。

今日のテーマ。「『心のうつ』と『脳のうつ』は合併し、影響しあう」

いくらなんでもこんなテーマに興味を持ってもらえるとは期待していない。こんなタイトルの本を書いても絶対に売れないだろう。今日のブログを最後まで読んでくれるのは、私のゼミの小澤さんくらいだろう。しかし重要なテーマである。
まずうつ病ないしは精神疾患一般について、その原因 cause ときっかけ trigger との違いから説明しなくてはならない。原因は文字通り、その病気を引き起こす出来事。精神科的にはその原因が明記されているのはASD(急性ストレス障害)PTSD、適応障害、転換性障害くらいだ(DSMによれば)。何しろ原因を追究しないという原則になったDSMでも、適応障害やストレス障害にまで「原因は不明である」とはいえない。外傷後ストレス障害(PTSD)と呼んでおきながら、「でも外傷が原因ではありません」、とはいえないからだ。
ということは、ここにあげたいくつか以外のおよそあらゆる精神障害は、それが始まったときの事を調べても、せいぜいきっかけくらいしか見出せない。きっかけ、とは原因ではないものの、ある一連の出来事の流れの最上流にあるもの、というニュアンスだ。「風が吹けば桶屋が儲かる」の「風」といったらいいだろうか。このことわざの説明によれば、「風」の次のステップは「人の目にほこりが入る」だそうだが、ほこりが目に入るのは、風のせいばかりではないだろうし、風が吹いても実際にほこりが立たないこともある。つまり一対一の因果関係が成り立たないという意味で「風」はきっかけというわけだ。
そこで「脳のうつ」の話に戻るが、これにもきっかけくらいはあることが多い。うつが噴火の機会を待っている休火山だとしたら(また懲りずに火山のたとえである)、地殻のちょっとしたずれとか、地盤の脆弱な部分とかをきっかけとして噴火するだろう。脳のうつも、ちょっと落ち込むことだとか、体調不良などは見つかることが多い。もちろんきっかけがなく生じる精神疾患も多い。でも探せばたいてい何がしかが見つかるものだ。
これも休火山のたとえを考えればいい。噴火を始めた火山のどこかに何らかの弱さが見つからないということなどあろうか?ちょうど江戸時代に最後に噴火した富士山は、以前の噴火口からではなく、わき腹のあたりに弱いところを見つけてそこから噴火したように(ここら辺うろ覚え。要出典)、どこかに何かの誘引を見つけようと思えば、見つかるものだ。
脳のうつの場合も、もしきっかけが見つからないときには・・・我々はそれを作り出してしまうのだ。よくこんな話を聞かないか。「彼は発病するまではすごく元気だったけれど、後から考えれば、あれでエネルギーを使い果たしたんだね。」つまりきっかけが見つからないこともきっかけと読み取れるということだ。
さてこの原因ときっかけを区別したのは、次の点を理解して欲しいからだ。脳のうつはいろいろなきっかけで生じることが多い。心のうつでさえ、きっかけになる。」なんでこんなややこしいことを言っているかというと、「どうしてうつが誤解されやすいか、心の弱さと間違えられやすいかを最後に「証明」しようとしているからだ。続きは明日に回す。

2011年2月11日金曜日

うつ病再考 その(5) 木の枝に異変が・・・・「脳のうつ」

以前小沢一郎のことを書いたが、どのように彼の性格を表したらいいかよくわからなかった。しかし数日前にネットで読んだ記事で少し腑に落ちた。(「自己正当化のためなら平気で嘘をつくタイプの小沢氏 「神話」は枯れ尾花」 2011.1.31) http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110131/stt11013109050002-n1.htm
自己欺瞞、ウソつき、ということだがそれだけでは言い表せないある種の不誠実さ。Mauvaise fois??一種の反社会性?しかし彼は例えば家族は大事にするだろうし、溺愛している愛犬もいるらしい。もちろん彼は知的で多彩で、その人格は複雑かつ重層的であるはずだ。しかしこの「平気で嘘を付く」傾向は、政治家小沢のあり方を決定的な形で特徴付けているのである。

さてさて、素人さんにはあまりわからない事情。木の枝に異変が起きることがあるのだ。木が病気にかかり、枝が弱くなったり弾力性を失っていたりするという事情を考えてもいい。その枝は一見普通に見える。でもちょっとした風にも大袈裟にたわんだり、すぐ折れてしまったりする。あるいは風も吹いていないのに、力なく垂れ下がっている。 素人さんはその枝の異変に気がつき、実際に触ってみて普通の枝とはぜんぜん違うことに気がつく。ちょうど「こより」か何かのように弾力性が失われて力を加えると簡単に曲がってしまう。「どうしちゃったの?」
さてここで起きたことを整理する。正常な枝は、「心のうつ」に従った反応を示す。一昨日述べた三つの原則に従っていた。
1.心の受けたダメージの大きさにより、うつも深刻になる。← 枝は、受けた力や風の強さに応じて大きくたわむ。
2.原因が取り除かれれば、うつも自然に回復する。← 力や風が収まれば、枝はもとの形にもどる。
3.同じ程度のダメージなら、精神的に弱い人ほど落ち込みも激しくなる。 ← か細く弱々しい枝は、同じ外力でもそれだけ大きくたわむだろう。
素人さんは、それ以外の枝の振る舞いをよく知らないから、だらしなく垂れ下がっている枝を見て理解に苦しむ。そして大概は3.の原則を当てはめて「なんてだらしないやつだ。こんなことでくじけるなんて。」と思う。しかしその時ところが病気になった枝はそれ自身の性質が変わってしまっている事には気づかない。顕微鏡で組織を見ると、明らかな病的な変化が見つかるだろう。細い繊維の断裂が見られたり、何らかの細菌のようなものの侵食が見られたりする。つまりは枝の性質が勝手に変わってしまう。
読者はもうお分かりと思うが、これが私の言う「脳のうつ」に相当するというわけである。脳の組織の微細な部分に病変が見られる。微細、というか光学顕微鏡でも電子顕微鏡でも確認できないような変化が起きている。神経の間の信号の伝達に携わる物質(セロトニンとか、ノルアドとか・・・)
さてここで、枝が病気になる、脳のレベルでのうつになることにはなにか原因があるのか、という疑問が起きるだろう。これについては悩ましい問題であるとしかいいようがない。枝の病気なら、例えば細菌の感染などが手っ取り早い原因として考えられるだろうが、脳のうつはそれを起こすような細菌やウイルスはあるものの、大部分の「脳のうつ」はそのせいで起きるのではない。もう少し複雑なプロセスがそこにある。例えばどうして癌になるのか、という問題と同様の、実に複雑な要因が絡んで「脳のうつ」が生じる。遺伝かもしれないし、脳という組織の持つバグかも知れない。几帳面な正確かもしれない。幼児期の外傷が何らかの形で影響しているのかも知れない。メランコリー親和型かもしれない・・・・でもたいていはよくわからないのである。
ただ一つ明らかなのは、「脳のうつ」は「心のうつ」とは、基本的には別物だということである。つまり「心のうつ」になった人は、たいていは「脳のうつ」に移行することなく回復する。また「脳のうつ」は例えばショックな出来事がなくても起きる。
よく新人の医師の頃は、うつ病の患者さんが現れるとどのような日常のストレスがあったのかを尋ねたりした。失恋とか、受験に失敗したとか、上司とうまくいかないとか。原因のないうつはないと思っていた。そうすると原因のないところにもそれを読み込みたくなることにも気がついた。
例えば会社での仕事が忙しくなり、それに追い回されてどんどんストレスが溜まってうつになった、など。しかしそのような話のかなりの部分が、実はうつが始まることで仕事の能率が下がったということが真相であったのではないかと思えるようにもなった。
ところでここまで「心のうつ」と「脳のうつ」とを別々に説明してきたが、実は一番の難所が待っている。いちばん良くわからない部分。それは「心のうつ」と「脳のうつ」は合併し、影響しあう、ということだ。(続く)

2011年2月9日水曜日

うつ病再考 その(4)  「心のうつ」について

私の「読者」(現在17人)が増えているのは嬉しいが、実は「読者」という意味がわかっていない。読者は特に何もコメントをくれない。読者をクリックしても特に何も書いていない。ということで私は読者に何か失礼なことをしているのではないかという気がする。グーグルの説明を読めば書いてあることだろうが、こういうことをほったらかしにしてしまうのだ。「FISH」の餌のやり方も、読者から教わったし。書きたいことを書けばあとはどうでもいい、という態度だ。

私たちはあるつらい体験を持った時に、心が折れた感じ、何もやる気が起きず、しばらくはそっと一人にして欲しいと感じる。布団をかぶってずっと寝ていたい、という気持ちにもなるかもしれない。頭の中は大抵、そのつらい体験を何度もなぞっている。上司から叱られた時の言葉、彼(女)から別れを告げられた言葉など。それを繰り返し繰り返しプレイバックし、その度に胸がシクシク痛む。英語で heartbreak
という言い方があるが、まさにそうだ。
私はこのようなつらい体験に対する心の反応を「心のうつ」と呼ぶ。これ自体は、人間である限り誰でも体験していることだ。そしてそれはある単純な法則にしたがっていることが分かる。

1.心の受けたダメージの大きさにより、うつも深刻になる。
2.原因が取り除かれれば、うつも自然に回復する。
3.同じ程度のダメージなら、精神的に弱い人ほど落ち込みも激しくなる。

私たちはこれらを実感として知っている。先日のブログで「しろうと」と「プロ」という失礼な言い方をしたが、「しろうと」さんたちがもっぱら、いや唯一知っているのはこの「心のうつ」の法則なのだ。彼らは人はショックなことがあると落ち込むことを知っている。彼らもそれを体験している。ダメージが大きければその分ショックが大きいことも知っている。友達にちょっと悪口を言われたら、一日落ち込むだけかもしれないが、本格的に裏切られたら、3日間はそのことが頭から離れない、ということを知っている。そして友達にちょっと悪口を言われたくらいで3日間落ち込む人は、弱い人、と思うかもしれない。その場合はこの3の原則が効いている。普通はすぐ忘れるようなことをくよくよ考える人は、「弱い」人間ということになるのだ。だからしろうとはすぐ「あの人は弱い人だ」「あいつはだらしない」という決めつけ方をする。しかし案外間違ってもいない。人生の辛さにすぐ音をあげてしまう人もいれば、タフな人もいる。後者のような人が自分の人生をバリバリ切り開いていく様子を私たちは見ている。そうかと思えば少しのことにくよくよする人たちもたくさんいる。それらの人たちを見て、私たちは少なくとも無意識的にこの種の強い人、弱い人を区別しているのかもしれない。
この「心のうつ」のたとえとして私が用いるのは木の枝、である。木の枝が風でたわむ。強い風にはより大きくたわむだろう。でも弱い風に大きくたわむ枝を見たら、それは「弱い」枝、鍛え方の足りない枝と思うだろう。本来脆弱だったり、風雨により鍛えられていない枝、と考えるかもしれない。(続く)

2011年2月8日火曜日

うつ病再考 その(3)江藤淳に抗うつ剤を投与してみる― 「心のうつ」か、「脳のうつ」か

昨日の続きだ。精神科医の柏瀬先生は、江藤氏はうつだった、という主張だ。つまりは抗うつ剤により、自死はふせげたのではないか、というのである。それに対して作家の谷沢栄一は「それはとんでもない」、という立場をとる。ある意味では江藤の生き方は、それなりの必然性を孕んでいたのであり、それがうつのせいだとか、治療すべきだったとかは、江藤淳に失礼だ、というわけだろう。そのような対談が、「文学と医学の相剋」と題されて、「諸君!」2000年3月号の柏瀬先生の原稿の後に載っているという。
(ちなみにネットで検索しているうちに、この二人の議論について、精神科医の立場から林公一先生がかなり詳細に論じていることを知った。(http://kokoro.squares.net/depstd.html))
そこでここで大変僭越ながら、江藤先生に、抗うつ剤を飲んでもらおうと思う。もちろんもう亡くなった方だし、私は彼の治療者でもない。だからあくまでも仮想上の出来事である。私がよく使うアナフラニールを用いて、少しずつ量を増やし、50ミリにして幸運にもそれが効いたとする。すると何が起きただろうか?おそらくうつ病の症状のうちvegetative symptoms (つまりメランコリー的な症状)はよくなるかもしれない。自殺念慮もある程度は収まったかもしれない。でも奥さんをなくしたことの失望や生きる意味の喪失といった症状はおそらく変わらないだろう。江藤淳は脳梗塞も病んでいたから事態は複雑だが、アナフラニールが目いっぱい効いていても、やはり生きていくことのむなしさはあまり変わらなかったのではないだろうか?要は、江藤氏は自死はしなかったかもしれないが、生ける屍と同じような不幸な余生を送ったのであろうと思う。
僭越にも江藤氏に抗うつ剤を投与してしまった私がそれにより何を言いたいのか? 最愛の人をなくしたことによる心のショックは、人をうつにしてしまうことがある。それはその愛情や執着の強さと共に、それ以外の人生における生きがい、喜びがあるかいなかにもよるだろう。その意味ではうつは正常な人の正常な反応ともいえる。しかしそれがこううつ剤により少しは改善する、というのはどういうことか?それはわからない。ただひとつの理解の仕方は、うつを二つのコンポーネントに分けるということだ。いわく脳のうつと心のうつ。この路線で学生の講義を数年間やってきたわけである。

2011年2月7日月曜日

うつ病再考 その(3) 江藤淳の自殺をめぐる議論

うちのチビ(犬)は13歳だが、神さんは将来先が長くないのではないかと心配している。確かに13歳といえば、かなりヨボヨボの犬もいる。神さんは、チビがいなくなったら自分は生きていけないかのような言い方をする。確かに心底愛する存在がこの世を去ったら生きていく意欲がなくなるということは十分ありうるだろう。

江藤淳は20世紀後半の日本を代表する文芸評論家だったが、彼の自死はいろいろな議論を巻き起こした。慶子夫人に末期ガンという診断が下り、江藤はその傍らに付いて離れぬ看病をした。妻の臨終から、江藤本人も病魔に蝕まれ、自殺をするにいたる。江藤の遺書にあった文章は名文として当時の新聞の見出しとなった。「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」
これを諒とせよ、という江藤のメッセージについては、さまざまな議論が湧いたが、ひとつにはそれが結局は江藤の精神の弱さをあらわしているのではないか、という立場もあった。確かに夫人と一心同体のようにして生き、その死と共に自らも生きる意味を失ったという風にも取れる。それはなんとなくメメしい(これは漢字で書くわけにはいかない)。しかし他方では、江藤のこの死の選び方は潔く、彼の勇気の表れであるという見方もある。
ところがここに第3の意見が存在する。それは「江藤はうつ病だったのだ」である。精神医学者である柏瀬宏隆はその著書「欝力」(集英社インターナショナル、2003年)でそのように主張し、彼がうつ病を治療した場合には、結果は違っていたのではないかという議論を展開している。
この議論は実はうつや自殺を考える上で、悩ましい問題を提起する。愛する人を失った場合に、生きる価値を失う人はいるだろう。その際のうつは正常なのだろうか?あるいはその状態が薬で改善したとしたら、やはり異常だったのだろうか?
精神医学的にはこの問題に明確な結論は出せないが、ひとつの見方を提示して入る。それは愛する人を失った反応は悲嘆反応と呼ぶことにする。しかしそれがあまりにも長く続いた場合には、うつと同じものとして扱う。DSMではその長さとして、2ヶ月を提示し、ICD-10では6ヶ月以上をその長さとしている。(つづく)

2011年2月6日日曜日

うつ病再考 (2) 怠け病は本当にないのか?

私は現在の職場で、臨床心理学専攻の学生に精神医学の授業を行っているが、うつに関する話はいつも最初の講義でするようにしている。というのもうつは、あらゆる心身疾患の基礎にあり、臨床家はおそらく日常的に接することになるからだ。(「人を見たらうつと思え」と学生には言っている。)それと同時に、うつほど「プロ」と一般人とで捉え方が異なる病気もない。ここで「プロ」という言い方をしたが、たとえば精神科医のような本来プロであるはずの人でも、うつの本質を誤解する人は少なくない。「キミはうつ病なんかじゃない。ただの怠け病だ。」と精神科医に言われたという人が受診し、結局はうつの診断が適当と判断されるようなケースもまれではない。
では、何がプロとアマを分けるかということで言えば・・・・というところでかなり我田引水になってしまうのだが、私がこのブログでかつて論じた「怠け病はない」のテーマにつながる。つまり「俺はウツだ・・・・」という人に対して、「本当のうつか、怠け病か」という分類ではなく、「本当のうつか、それ以外の病気(たとえばフォビア)か」という見方を出来るのがプロであると言いたいのだ。
話を先に進める前に、ここで改めて問うてみる。「では怠け病、という人は皆無なのか?」これはすでに論じたことだが、簡単に振り返りたい。
まず「欝ではなく怠けだ」という人たちはある典型的なプロフィールを持つことが多い。それは「仕事に関しては意欲がわかず、職場に行こうとしても様々な精神的、身体的症状のためにそれが出来ないが、趣味やそのほかの自分が興味の持てることに関しては積極的である」というものである。これでは確かに「うつ病」という診断を下すことには違和感が生じるのも無理はない。しかしこのプロフィールはすでに「健常人」と異なるところがある。それは「症状」の存在だ。普通私たちは意欲のわかないことは、ただそれをしないだけである。特に「症状」など起きない。たとえば確定申告のための書類を書くのが面倒くさい時、私たちは単純にそれを先送りするだけだ。その書類を書こうといざ机に向かうたびに、頭痛や吐き気やゆううつな気分になるということは普通起きない。しかしそのままにしておくと経済的、社会的な制裁があることを知っている。すると確定申告を我慢して行うか、あるいは制裁を甘んじて受けるかの二者択一となる。
しかし先の怠け病のプロフィールにあった、会社に行けない人の場合はどうか?その場合は「症状」に応じて医者が「うつ病」とか「心身症」の診断書を出して、病欠扱いになる。うまくすれば給料の何割かはもらえたり、傷病手当を受け取ったり出来るだろう。つまり仕事に行かなくてもしばらくは生活に困らないことになる。私達が一番許せないのはここの部分だ。「病気扱いされることで、本来の義務を怠っていても制裁を受けない」ということにこの怠け病の本質がある。
結局こういうことだ。怠け病の本質は、本来すべきことをせずに、無罪放免になっている状態であり、実に許しがたい状態なのである。「怠け病」は、汗水垂らして働いている一般の人々の怒りがこもった呼び名だということになる。会社にいけずに、一見遊んでいるだけの彼らがやがて会社をクビになり、路頭に迷ってしまうというのであれば、誰も彼のことを「怠け病」とは言わないだろう。
もう少し具体的に話をすすめる。怠け病の典型A君を考える。彼は部屋に引きこもってコンピューターゲームばかりやり、生活費としては生保を受給しているとしよう。実にケシカラン。そこでもしA君を「こら、遊んでばかりいずに、働け!」と怒鳴りつけたとする。ここで二つの可能性がある。ひとつは重い腰を上げてハローワークにいくか、仕事を探そうとすると「症状」に襲われてしまい、それが出来ないか、である。後者の場合はA君は病院にいき、その症状に応じて診断を受けることになる。(もちろん、第3の可能性として、症状を持っているふりをして、医者をだます場合もある。それが「詐病」ということになるが、数としては少数なのでここでは省いておく。)
このA君の特徴をひとことで言い表すならば「なすべきことを強いられると、症状が出てしまう人」ということになる。でも、である。これって立派に病気なのだ。少なくともこれまでの精神医としての経験からすれば、そうなるのである。症状はあたかも意図的に作り出されているようだが、「気を取り直せ」とか「しっかりしろ」とか「たるんでる」とか「気のせいだ」とか「怠けだ」といっても、それはどこかに消えてなくなるわけではない。症状がそこにあって、ある程度は目に見えて、以上のような声賭けや恫喝をもってしても決して消えることがないとき、私たちはそれを病気、と呼ぶのである。
もちろん症状は一見「好都合」に生じるように見える。疾病利得というやつだ。しかしその利得を取り去っても症状は残る。そこが肝心なのだ。症状の存在理由は誰にもわからない。しかしそれが第一に彼らを社会生活から遠ざけている。「怠け病」A君に戻ってみよう。いかにも彼はうつ病という症状を都合よく利用して生活費を調達し、部屋にこもって楽しいゲームを続けているように見える。しかしではそのテレビゲームを取り上げたらどうなるのか?彼はおそらく布団から出てこないで何もせずに一日を過ごすだろう。そこが一番「アマ」には理解できないところなのだ。(さらに続く)

2011年2月5日土曜日

うつ病再考(1) うつとは心の弱さか?

うつ病についての問題意識を喚起する上で、次のようなことを考えてみて欲しい。「うつとは心の弱さなのか?」ここでしばらく前にネットで拾った記事を示す。(文中・・・は中略の意味)

笹川総務会長のトンデモ発言 「国会議員はうつ病にならない」(2009/3/16 20:31 JCAST NEWS)
自民党の笹川尭総務会長は2009年3月14日に大分市内で行われた党大分県連の大会で、「国会議員は気が弱くては務まらず、うつ病になる人は一人もいない」と発言し、波紋が広がっている。・・・ 笹川氏は以下のように発言したという。
「今、うつ病で休業している先生(教師)がたくさんいらっしゃる。国会議員には1人もいない。そんな気が弱かったら務まりませんから」
厚生労働省の調査によると、うつ病などの気分障害にかかる割合は5~6人に1人。また、患者の4分の3は治療を受けていない。かかりやすいのは、「几帳面で真面目、責任感が強い」「考え方に柔軟性が乏しい」「開き直りができない」という人だが、「特別な人がかかる病気ではなく、誰でもかかる可能性がある」と報告されている。心配や過労、ストレスが続いたり、孤独や孤立感が強くなったり、将来への希望が見出せないと感じた時に、かかりやすくなるそうだ。・・・ うつ病は身近で深刻な問題で、多くの人がかかっているにもかかわらず、笹川氏のように誤解している人が多い。国会議員も例外ではない。中川前財務大臣の父・中川一郎氏は1983年、札幌パークホテルのバスルームで自殺した。安倍内閣で農林水産大臣を務めた松岡利勝氏は在任中の2007年5月28日、衆議院議員宿舎で首つり自殺を図った。元民主党衆院議員・永田寿康氏は09年1月3日、北九州市内のマンションから飛び降り、搬送先の病院で死亡。家族あての遺書のようなノートと空になった焼酎の紙パックが残されており、自殺を図ったとみられる。市内の病院に入院中のことだった。3氏とも自殺前の様子から、うつ病やうつ状態だった可能性は強いとみられている。

もちろん笹川氏の発言はトンデモ、である。しかしこれは欝に対する私たちの抱きやすい観念を端的に表している。「欝はその人の心の弱さかもしれない。」 世の中には、うつの人を心が弱い人という色眼鏡で見て欲しくないと思っている人たちと、それほど強く思わない人がいる。しかし何らかの色眼鏡を私たちが心のどこかに持っていることは確かであろう。ちなみに誰が「色眼鏡で見て欲しくない」と思うのだろうか?それはうつを自分で経験したことのある人たちである・・・・。

さてこのおそらく少し長めになるであろう(実は2,3日で終わったりして。)続き物の最大のテーマは、「『欝は心の弱さの表れである』は誤解である」ということであるが、それには多少なりとも手続きが必要である。(続く)

2011年2月3日木曜日

失敗学的に八百長相撲を考える

「・・・ メールの中には、「1つ貸しているので、あと20で利権を譲りますがどうですか」「今日はまっすぐ思い切りあたっていきます」など、勝ち星の貸し借りやカネのやりとり、取組内容などについて、詳細に打ち合わせをしたと思われる文面があった。実際、夏場所では、前日にやり取りされたメールの内容に沿ったとみられる取組もあった。」(2011年2月3日03時04分 読売新聞)

これって、不完全な存在であるわれわれ人間としては、いかにもやりそうだね。「失敗心理学」(私の造語)的にはおおあり。相撲ってひょっとしたら八百長が一番きくのでは。野球やサッカーを考えて欲しい。「9回にホームランを打つから、甘い球を投げて」「後半左からのクロスをボレーでシュートするから、マークを甘くして。」どちらもありえない。すぐ観客にそれとわかる。それにバットがボールを真芯で捉えたり、シュートが枠の中に飛ぶとは限らない。ボールはいかようにでも転がる可能性がある。だから団体の球技の八百長は一般に難しいだろう。それでも一番可能性ありなのは、レフリーを買収することか。サッカーの国際試合などでも、彼らの「あり得ない」裁定には観客もすでになれているからだ。実際に結構頻繁に八百長が起きていると聞く。しかしそれにしても、ボールがポストに当たって跳ね返ったのを「ゴール!!!ピーッ」というのはあり得ない。せいぜいたいしたことのない反則でPKを与えるくらいか。こちらはそのチームに一点をプレゼントするのとほぼ同じだからだ。
相撲はその点いい(いや、もちろんよろしくない!!)。力で押し合っている同士にしか、加減がわからない。ということで、少し星が足りなくて困っている力士は、ほかの力士からお金で都合をつけてもらうこともあるだろう。ケータイという便利なものもあるし。
しかしこんなコメントをテレビかどこかでしたら、すごい顰蹙ものだろう。もちろん八百長を奨励するつもりなどない。でも相撲協会を公益法人として認めるのはもうやめたほうがいいし、国技として特別扱いする必要もないだろう。それよりもこの種の八百長がおきにくいシステムにすればいいだろう。星の数により位が上下する制度を改めるとか。「何場所負け越すとどうなる」という制度があるから、星の売買が行われるのではないだろうか?
ともかくも失敗心理学的には、この種の八百長はいくらでも起こりうるし、それで人の善悪を決めることなどできないということを言いたいだけである。

2011年2月2日水曜日

解離に関する断章 その16. いわゆる「マッピング」の功罪について

マッピングとは、DIDを有する人が、どのような交代人格を何人持っているかを探るという手法である。マッピング、とは変わった呼び方だが、患者さんが最初のセッションで大きな紙を与えられ、主人格の名前を真ん中に書き、他の人格の位置づけを、ちょうど地図を書くようにして書いてもらうという方法をとったことに由来するらしい(Kluft, RP, Fine, CG: Clinical perspectives on multiple personality disorder, 1993)。DIDの治療はすでに100年前にはアメリカのモートン・プリンスなどによりすすめられてきたが、同様の手法もその頃から用いられていたという。
このマッピングという手法は、リチャード・クラフト、フランク・パットナム、コリン・ロッスといったこの世界の偉大な先達のテキストに解説されているところを見ると、かつてはスタンダードな手法とみなされたらしい。確かにDIDの患者さんにその内部の人格をすべて書き出してもらうというプロセスは、治療の最初のステップであるという考え方はそれなりに意味があるのかも知れない。内科を訪れた患者さんは、まず全身をくまなく検査されるであろう。それと同じとも考えられる。
DIDの治療は、その道の先駆者により切り開かれていった。その中でもリチャード・クラフトの名は燦然と輝いている。彼が80年代より、自らの治療者としての力を誇示するかのような論文を発表し始めたとき、周囲の臨床家は畏敬の目でそれを見守った。彼はそこで33人の自験例の治療について触れているが、(Kluft (1984) Treatment of multiple personality disorder. Psychiatric Clinics of North America 7(1): 9-30.)そこに何人の交代人格を有していたかも表されている。それを見ると少ない例で二人、一番多い例で86人とされている。これもそのマッピングの手法でリストアップされたということだろう。
ちなみにクラフトはその表で同時に、自らの治療により人格の統合に至るまでに何ヶ月かかったかを記しているが、そこには4ヶ月以内という例が、なんと10例と記されている。三分の一の患者さんがわずか数ヶ月で人格の統合に至ったと記されているのである・・・・・。治療においてマッピングを行い、正しい治療を用いることで人格の統合を図ることが出来るという方針を彼が示してしまったことで、それ以降の治療者達はある種のプレッシャーを感じたとしてもおかしくない。
しかし最近のDIDの治療は、クラフトの頃に比べてずいぶん慎重になっているようである。その後のロッスの改訂版のテキスト(Ross, C.(1997) Dissociative Identity Disorder. Diagnosis, Clinical features, and treatment for multiple personality. John Wiley & Sons.)にはこんなことが書いてある。「第一版(1989年)以後私はマッピングについては異なる考え方を持つようになっている。私は敢えてそれをするよりは、各交代人格が自然に出現してくるに任せるようにしているのだ。」。そしてそれに対するクラフト氏の反論は聞こえてこない。
かつて私は、3年前にシカゴの学会で出会ったクラフト氏のことを、恰幅のいい「笑うセールスマン」のようだった、とこのブログで書いた。少なくともそれは、私が二十年以上も前にメニンガークリニックで見たときの彼の印象とは異なっていた。その頃は才気走ったカミソリのような印象を与えていた。治療者がその治療的な野心を抑えてゆったりと構えることの重要さを考えさせられたものである。

2011年2月1日火曜日

解離に関する断章 その15. 交代人格の間のコミュニケーションを図る

DIDの治療において、複数の交代人格の間の情報交換を図ることが大切であることは言うまでもない。DIDとは何人かの人が、同一の身体(脳も含めて)を共有しているようなものである。周囲の人はそのような事情は知らないのが普通であるから、交代人格どうしが少なくとも自分たちの中で、何を誰が行ったかを知っておくことは、周囲の人々との混乱を避けるためにもきわめて重要となる。
ここに述べた事情を、私がよく用いるマイクロバスの比喩に当てはめてみる。その時々で異なる運転手が運転台に座っていても、傍目には同じ姿と色をした一台のマイクロバスとしてしか映らないのが普通だろう。周囲は運転手は常に一人で、計画性を持って運転していると考える。だから運転手たちは、少なくとも自分の前に運転していた人が、どこに向かっていたか、どこでどのような荷物を積み下ろししたか、などのことは知っていないと不都合なのだ。
ただしこの異なる人格の間の情報交換を治療者が行うことには、複雑な事情が存在する。そもそも別人格に出会った治療者が、それを主人格に伝えていいのか、という疑問がまず起きるであろう。もちろん治療者がそれを促進するまでもなく、各人格の間の連絡は、自然発生的に、ないしは偶発的に行われているものだ。ある人はふと気がついたら自分の机の上が夜中に写真立てが粉々に割られていたことで、「誰か」がそれをしたことを知る。一人暮らしで、誰も侵入した形跡がないとすれば、そう考える以外にないからだ。あるいは自分が決して喫わないようなタバコを買っているということで、別人格の存在を認識する、という例もある。ノートに別の筆跡でメッセージが書かれていることで同様の理解にいたる、ということもよく聞く。だから治療者がそれを促進しても、なんら問題がないと思う向きもあるだろう。
しかし情報交換を治療者という第三者(?)が人為的に行うことには倫理上の問題が伴う。それぞれの人格には、プライバシーがあるからだ。自分の不注意で秘密が他人に知られることには我慢ができても、それを打ち明けた治療者が別人格に伝えたとなると、治療者との信頼関係に大きな意味を持ってしまうだろう。
この「交代人格の間のコミュニケーション」ということについてある程度結論めいたことを言うならば、以下のようになる。それを促進することは多くの場合、けっして悪くはないし、治療的な意味もたくさんあるに違いない。しかし人格の中には、ほかの人格について知りたく思わないという人はたくさんいる。あるいは無関心、という場合も少なくない。そこがこの問題を複雑にしているのだ。
異なる人格を基本的には別々の人間として理解するべきだということはすでに何度か述べた。再び同じたとえ話に戻るならば、彼らはマイクロバスで共同生活を送っている住人たちのようなものだ。しかし中の構造はきわめて複雑で、お互いがお互いをよく知らない。ある人格はその中の個別のブースに入っていることが多く、なかなかほかの住人に姿を現さない。ある人は責任感が強く、またある人はほとんど積極性を発揮しない。マイクロバス内のルールといえば、運転席がひとつしかなく、一度に誰か一人しかそこに座れないということくらいだ。そのような状況の中で、住人たちは互いの情報の交換に積極的になるだろうか?必ずしもそうではないだろう。
治療者はよく、DIDの方の日記に複数の筆跡を見出して、どうして当人はそれを不思議に思わないのだろうかと思う。しかしマイクロバスのホワイトボードに皆が勝手に予定を書き入れても、互いに関心を持ち合うということはあまりない。よほど自分のプライバシーを侵してきたり、自分のものを勝手に使ったりする同居人については特別の関心を払うであろうが、それ以外は他人にはあまり注意を向けないほうが普通だろう。基本的には「他人事」だからだ。