2011年1月31日月曜日

解離に関する断章 その14. 「暴力的な交代人格」をコントロールする

解離性障害を扱う専門家の間で、あるいはその患者さんにかかわる家族の間で、よく「暴力的な交代人格」の扱いをいかにすべきかが話題となる。確かにそのような交代人格が存在し、患者さんがコントロール不可能な状態になることはあるだろう。しかし私はすべてのDIDの患者さんの中に「暴力的な交代人格」が存在するかは疑わしいのではないかと思う。それはかつて自分に加害的な振る舞いをした誰かのイメージが取り込まれて交代人格としての体裁を獲得したものであり、しばしば畏れの対象となるのだろう。しかしその人格が実際的に外に現れて暴力を振るうということは、少なくともそれが起きる必然性については考えにくいのではないかと思われる。端的に言ってDID(解離性同一性障害)のひとつの特徴は、その人の高い感受性であり、それは人の痛みに対しても発揮される。他人に加害的な行為をした場合に、ほかの人格が自分の振る舞いとのあまりの齟齬に、内的なブレーキがかかることは十分あるだろう。 暴力的でコントロール不可能と思われる人格の非常に多くが、実際はとても苦痛で恐ろしい体験を担っている人格である場合は多い。その苦しみを今まさに味わっている状態で現れている時に、傍目には暴力的に見えるということはあるだろう。そのような人格が急に出てきて目が据わり、いきなりカッターナイフを持ち出して自分の腕を切りつけようとするかもしれない。そのような時に家族やパートナーが動転してカッターを取り上げようとすると、激しい抵抗にあう可能性が高い。その間にカッターがパートナーの体に触れて出血したりすると、「刃物沙汰」ということになり、何かその人格が凶暴な人のようなレッテルを貼られてしまうことは十分にあるだろう。しかしこの人格が本当に「暴力的」かどうかは非常に疑わしいのである。
純粋に加害的な暴力としばしば混同されるのが、「抵抗性の暴力resistive violence 」である。これはある行動を他者に制止されたときに発動するものだ。一般の社会人にもこれは容易に誘発される可能性がある。アルコールが少々入っているときなどはかなりその閾値が低くなる。よく地下鉄などでつまらない口論から小競り合いになり、暴力沙汰へと発展することがあるが、これも発端は他者への暴行というよりは、相手を制止する動作に対して半ば正当防衛的に体が反応したということが少なくないのだ。足を踏まれた男が、立ち去ろうとする相手に「ちょっと待ちたまえ」と肩をつかんだ際に、相手が大げさな動作でそれを振り払おうとする。これ自体は「抵抗性の暴力」の要素が大きいわけだが、相手はこれを純粋に加害的な暴力と理解し、「応戦」するということから殴り合いに発展する可能性もある。
この抵抗性の暴力が興味深いのは、おそらく人から不当な形で制止されたり、体の動きを封じられたとしたら、それが発揮されないほうが不自然だったり、病的だったりすることすらある点である。真の加害的な暴力に比べて、「抵抗性の暴力」はおそらく自己保存本能に根ざしている。どんなに穏やかな人格の人も、道を歩いている最中に乱暴な運転をする自転車に行く手を阻まれたらムッとするだろうし、大きな声を出したくなるだろう。
先ほどのリストカットを止められた人格にしてみれば、気持ちが高ぶった際にいつも自分で行っていたリストカットを制止されることで怒りが高じ、家族やパートナーともみ合いになることも十分にありうる。事情を知らない家族には、家族がいきなり暴力的になった、という印象を与える可能性が高いわけであるが、本人にしてみれば自分の当然の権利を奪われたことに正当な抗議をしたという気持ちが強いだろう。
交代人格が暴力人格に間違われるもうひとつのケースは、その人格が子供人格で、相手に対して力加減を知らない場合である。大柄で筋肉質の男性のDIDの患者さんが、いきなり子供人格にかわり、地団太を踏んで泣き喚いたとしたら、子供にとっては普通のしぐさでも周囲を圧倒するに違いない。交代人格と接触する際に、いざとなったら治療者が身体的な力で圧倒できるかどうかは、治療を安全に行う上での重要なファクターといえる。

2011年1月30日日曜日

絵の才能の話

忙しい週末だった。金曜の夜は柴山先生、奥田ちえ先生と解離の研究会の打ち合わせ。土曜日は久留米の前田正治先生にお招きいただき、解離の講演会。今日は一日精神分析学会の運営委員会だった。
ということでブログを更新する時間は全然なかったが、そのかわりサッカーのアジア杯の決勝はしっかり見た。と言っても途中は覚えていない部分があるが。日本とオーストラリアの両チームが無得点のままの均衡が続く中で、いつの間にか眠ってしまったが、目が覚めると一対一で試合が終わるところだった。李選手の見事なボレーシュートのシーンが何度もテレビに映された。サッカーをほんの少しかじった立場からは、あの手のシュートを確実に決められるかどうかでプロとアマで決定的な差が生じることがよくわかる。高校のサッカー部レベルだと、あそこでボールを捉えられずに空振り、ということもあるが、しっかりゴールの枠の隅に蹴り込むところは、さすがにプロはすごいと感心した。
ところで先に出た芝山先生は、画伯でもある。年末の集まりで、酒の席で差し出されたノートに、請われるままにサラサラと何人かの似顔絵を描いたことはお伝えした。その時彼は、「女性の場合は、丁寧に描くんだよ。男の場合はどうでもいいんだけどね。」とか言っていた。そこで彼が奥田先生を描いた似顔絵を今回入手したので紹介する。そして比較の意味で、以前に紹介した柴山画伯が私を書いた絵(2010年12月12日のブログに掲載)をご覧いただければ一目瞭然だろう。両者の「差」は歴然である。それにしても絵心のある人の先は、一本一本が生きている。下手な挿絵を描いた身では、それをなおさら感じる。

2011年1月28日金曜日

治療論 その21.すべての人に共通すること 「理解」されることへの希求

セラピストは時々、患者さんの前でこんな思いに駆られる。「私は治療者として何をやっているのだろう?」患者さんが話を聞いてほしいと訴えかけ、その話に共感することで時間が過ぎていき、患者さんが次回のセッションを待ち望むという状況では、この考えはあまり起きないものである。患者さんが最初は持っていた治療への期待や情熱を失ったとき、あるいは最初から受診に消極的だったり、治療時間中ずっと黙っていたり、ため息を疲れたりしたとき、その思いが治療者の中に浮かぶのだ。治療は海図のない航海に似ている。いきなり自分が何をすべきか、治療がどこに向かっているかがわからなくなってしまうことがあるのだ。 そのような時、治療者が患者さんの治療動機、ニーズを考えることは重要であると思う。「結局セッションにより何を期待しているのだろう?」もう少し端的にいうと、「セッション中の治療者とのかかわりの中で、何に、どこに心地よさを感じているのだろうか?」治療者患者関係は特に安からぬ料金が絡む場合には非常にドライなものになりかねない。患者側は、ニーズが満たされなければ、一回一万円近い料金を支払う気になれないとしても、それはもっともなことだ。セラピーの一セッションごとにこのニーズが満たされれば、治療は継続していくと考えていい。逆にそれが起きていないとき、治療者は大海原でとつぜん無風状態に遭遇した帆船のような状態になるわけだ。
患者さんのニーズは実はさまざまである。とにかく一方的に吐き出すことを要求する人。セッション中ずっと目を見て言葉の一つ一つにうなずいてほしい人。あるいは患者さんの持ち込む質問に一つ一つ答えてほしい人。しかしその表面上のニーズとは別に、それらの根底にあるものとして、患者さんの「理解してもらう」ことの心地よさ、満足感がある、と考えるべきである。私がなぜそう考えるかといえば、これまでの経験上、患者さんの置かれた状況や、そのもつ精神疾患にかかわらず、「理解してもらう」ことが満足感を与えないということは思い出せないからだ。人が心を持つ、とはすなわち「理解される」事を望むことでもある。どんなに深刻な妄想に駆られていても、どれほど深刻な自閉症傾向を持とうとも、理解してもらえることが喜びや心地よさを生まないということは考えられない。
もちろん患者さんが被害妄想に駆られている場合には、「理解される」ことは「知られる、暴かれる」という感情をも生み、恐ろしい体験ともなりうる。しかし「理解されることが恐ろしさをも生む」ということのその苦しさそのものを「理解される」ことは、実はその人にとって安心感を生むはずである。アスペルガー障害の患者さんで、人の気持ちをまったく理解することができなくても、あるいはいかに特異で奇妙な思考パターンや妄想を持ち、それが人には理解しがたいということについては関心を払わない人でも、それだからこそ「理解される」ことを渇望するというところがある。なぜなら彼らはおそらくその独特の思考や行動パターンのために、これまで誰からも理解されずにさびしい思いをし、孤独感を抱え続けてきた可能性が高いからだ。少し逆説的な言い方をすればこうである。
「世の中でもっとも人から理解しがたい考えを持っている人こそ、人から理解してもらえることを強く希求しているということになるのだ。」

2011年1月27日木曜日

解離に関する断章 その13の続き ヒルガードの実験が提起する問題―私たちはみな、多重人格なのか?

先日紹介したヒルガードの実験の話の続きである。この実験が意義深いのは、では私たちはみな多重人格なのか、という疑問を抱かせることである。私自身も、この「隠れた観察者」の実験を読んで最初に思ったのはそのことだった。しかしこれは、例えば公開の(場合によっては見世物としての)催眠、いわゆるステージヒプノーシスを見た人間が一様に思うことでもある。客席から、一見無作為的に被検者を募る。その人が壇上で催眠にかかり、年齢退行を起こして小さいころの自分になって幼児の言葉で話したりする。そのような姿を見ると、誰でも催眠にかかり、誰でも別人や別の人格に成り代わるのではないか、と考えたりする。
この一見もっともな疑問に関しては、私たちは明確な答えを持たないことになる。しかしまずひとつ明らかなのは、誰でも催眠にかかるほど、話は簡単ではないということだ。このような形で催眠が導入可能な人は決して多くはない。そして年齢退行まで起こす人はさらに限られているだろう。ステージヒプノーシスでそのような現象を見た人は、よほど運がいいケースに出会ったシーンに遭遇したか、あるいは「やらせ」を見せられたか、ということになる。しかし、それでも「一般人の中で催眠にかかりやすい人の中には、潜在的に多重人格とみなされる人がいる」ということくらいは言えるかもしれない。
しかしこれに関しては別の見方もある。たまたまステージヒプノーシスで深い催眠に導入することができ、子供時代にまで退行させることができる人は、本来DIDを持った人であったという可能性だ。
この二つの可能性は、「一般人の一部」と呼べる人々とDIDを持つ人々が、数のオーダーの点でおそらくあまりかけ離れていないという事情から、なかなかどちらが正解とも決めがたいのだ。一般人のうち催眠で年齢退行を起こす人が、たとえば20人に一人であり、DIDの発症率が2万人に一人、と言うのであれば、この両者は別物ということになる。しかし高い催眠傾向を持つ人が一般人の4,5パーセントといわれ、また実際にDIDの発症率は、研究者によりかなりバラつきがあるようだが、2~4 %が相場であるらしいとすれば、現実味を帯びてくる話なのだ。(Dell, P: OUTlINE The Long Struggle to Diagnose Multiple Personality Disorder : Partial MPD. in DISSOCIATION AND THE DISSOCIATIVE DISORDERS. DSM-V AND BEYOND Edited by Paul F. Dell, and John A. O'Neil. Routledge, 2009.) ただし一般人の2~4パーセントが交代人格を持つなどということなど、まさかありえないだろう、というのが私たちの印象であるというのもよくわかる。

2011年1月26日水曜日

治療論 21 患者さんの好きなようにしてもらう

最近挿絵を描いているが、こんな下手な絵は実際に本に挿入して恥ずかしくないか、というおしかりを受けそうである。しかし心配はいらない。実は私は昔から本の挿絵をこんな感じで描いてみて、あとはプロに「清書」(清描??)してもらっている。それがものの見事に変身するのである。私が生まれてはじめて出版した本は、Herbert Strean というアメリカの分析家の書いた「ある精神分析家の告白」という本の翻訳書であった。もう20年も前の話である。その本の各章が印象深い患者さんのエピソードで綴られていて、興味をそそる題名が付いていた。「私を誘惑した患者」」などという題である。そのため章の扉ごとにそれ風のイラストをどうしても入れたくなった。もちろん著者のDr.Strean にも承諾を得たうえである。そこでここに掲載しているような絵を、同じように稚拙なタッチで描いて、ところどころ説明を入れた。そして、その頃たまたまある雑誌を読んでいて気に入ったタッチのイラストレーターに頼んで、「清書」してもらった。するとプロは私の死んでいた線に一本一本命を吹き込んでくれたのである。自分の絵が下手だと認めるのは嬉しくはないが、プロがどのようにうまく描くかを見るのは楽しみでもある。「リフォーム前、リフォーム後」、という感じか。

今日の治療論のテーマ。「患者さんの好きなようにしてもらう。」別にネガティブな意味でこういうわけではない。「もう、勝手にせい!」という印象を与えるといけないので断っておく。(ただしそのようなケースが全くないとはいえない場合もある。)
私の治療論が「失敗学」(畑村)と深く関連しているということは何度も述べたが、畑村先生は「人間は失敗からしか学べない」とまで言っている。私はそこまで言う勇気はないが、主要な学習は、自分が主体的に選び取った行動から生まれる、ということは確かであろうという考えを持つ。端的に、自分が人から言われて、薦められて行った行動であるならば、うまくいかない場合にでも他人事で済ませたり、責任を感じなくて済んだりするということが少なくなるからだ。(では人から勧められて成功した場合は?・・・・当然自分の手柄にするのが人間の性(さが)である。)
何度も何度も言うようだが、人は簡単には変わらないものである。普通私たちは結論を先に出して、あるいは同じ思考パターンにより情報を処理して生活を送っていく。私たちの心のシステムはその時々で安定を目指すものであるから、それは半ば必然的なことなのだ。そして当然ながら少しの刺激ではそのシステムが変わることはない。そのシステムは年齢を重ねるとともにより複雑になり、また硬直化して柔軟性を欠いていく。すると余計に変わらなくなる。5歳の子供が小さなボートのように、外的な力により簡単に方向を変えられるとすれば、50歳台のサラリーマンは大きな貨物船のようなものだ。小さな横波くらいで急に舵を切ることなどできない。たとえ進行方向が受動的に変えられたとしても、そのことを否認するだけだろう。あるいは自分が自発的に変えた、とうそぶくかもしれない。彼はそれこそ自分よりさらに巨大な黒い貨物船が向こうに見え、ぶつかったらこちらが大破するような状況で、ようやく舵を切ろうとするだろう。
さてそのような人がなぜ治療者のもとに通ってくることを想定してここに治療論として書いているか、ということであるが、本来治療を求めてくる人の多くは、何らかの不安を抱えて、精神的な支持を得たいがためである。「あなたのA案は間違っていますよ。B案の方を選んでください。」といわれることを想定し、期待してくる患者さんなどほとんどいないと言っていいであろう。せいぜい「私に答えを教えてください。」という方がいるくらいだ。するとB案にしなさい、という「説教型」の治療はほとんど意味がなくなってくる。むしろ適切なスタンスはこうである。「私が同じ立場だったら、B案の方がいいように思えます。でもあなたにとってA案がいいのか、B案がいいのか、というのはやってみないとわからないことだと思います。まず今、どちらをおやりになりたいか、から出発するということにしましょうか。」
ちなみにこの話は、アドバイスは適正価格で、という前回の治療論と連動していることは言うまでもない。ただし、B案として患者さんが明らかに不利なことを行おうとしていたら、たとえば自殺をしようとしていたり、薬を急にやめようとしていたら、話は別である。

2011年1月25日火曜日

解離に関する断章 その13  また挿絵を描いてみた(ヒルガードの実験)

ヒルガードの「隠れた観察者」についての話だ。日本語には訳されていないようだから、あまり知られていない。
私たちの中には、本来もう一つの観察している部分があり、それは多重人格の症状をきたしているか否かに関係ないという見方がある。ヒルガードは、その古典的な「隠れた観察者」の実験を通して、これが通常の人にも存在するという可能性を示した。(Hilgard, E. R. (1994). Neodissociation theory. In S. J. Lynn & J. Rhue (Eds.), Dissociation: Clinical and theoretical perspectives (pp. 32–51). New York: Guilford Press.) この実験はすばらしい。

被験者に催眠下で暗示を与える。「これから大きな音をたてますが、私があなたの右肩に触れるまでは、あなたには何も聞こえません」次に大きな音をたてて被験者が無反応であることを確かめる。 さらに被験者に「催眠中でも観察しているあなたがいて、声が聞こえています。この私の声が聞こえていれば、右人差し指を上げてください。」と指示する。(実際に指が持ち上がる)被験者が突然「大変です。私の指が誰かにより動かされました。なにか変なことが起きているようです。音が聞こえるように戻してください。」検者が被験者の右肩に触れ、催眠が解ける。
ちなみに私はこのHilgard の実験について始めて読んだ際、解離や人格の分離という現象の奥深さを非常に深く印象付けられたのを記憶している。

2011年1月24日月曜日

なんのためのブログか?

昨日は結局ブログの更新を出来なかったが、ここでなんのためのブログか、というテーマで考えてみた。
自分で9カ月近くやってみた結果、ブログを続けるとはどういうことかがある程度はわかった。まず私の場合は若干の強迫があり、「ほぼ毎日」というペースを自分で勝手に作ってしまったというところがある。普通はこんな頻繁なものはない。時々更新、というのが主流だろう。でもとにかく「自分のブログを作ったのだから続けなくては・・・」というのはある。小さいけれど開店しています、という感じだ。客が訪れる以上は店にあるものが賞味期限きれだったり、棚に埃がたまっていたりするわけにはいかない。何しろブログは一応「人目に触れている」からだ。
また私のブログには、読者からの感想の欄を敢えて作っていないから、私にはあまり関係ない。一般にブログを続ける一番のモティベーションは、なんといっても読者からの反応だろう。結局はこれに一喜一憂する人が圧倒的に多い。だから私のブログはその点でも変わっている。
これらのほぼ毎日更新、そして読者からの反応を聞かないという二つは私の特殊事情であるから一般化できない。要はブログはそれぞれの人が微妙に異なるモティベーションのもとに続けているわけだ。そこで私にとってのモティベーションであるが、やはり「自分からの発信」ということを考える。これは本を書くということと繋がっている。表現したい、ということがある。(同時に非常に恥ずかしい、ということがあるので、出し方がややこしくなる。)次に発想を書き取っておくことに意味があるということ。毎日結構これでも大事な気づきがある。ブログは日記代わりというわけだ。そして執筆。ここに乗せるという短期的な目標を持ちながら、計画している本の内容をまとめている。この二つは、ではどうして自分で公開せずに書き溜めないのか、という疑問を生むだろう。しかしそこには結局は話し相手がいることで、話が進むという事情があるのだ。
私はその意味で純粋な描き下ろしというのは案外大変なことであろうと思う。多少なりとも可視化できる話し相手なしで、書き続けることは、壁に向かって講演の練習をするようなところがある。そこに相手に直接語りかけているという感覚がないと、モチベーションの糸が切れやすくなるのだ。だから作家は定期的に訪れる編集者に読ませるつもりで書き進むということをしたものである。
この編集者というのは絶好の相手である。それは向こうがそれを仕事としてくれるからであり、こちらから押し付けるわけではないからだ。向こうがいくら暇だって、無理して聞いてもらうのは悪い。聞いてもらうこちらの方にも負担になる。ブログは、聞きたくない人は開かないという意味では決して押しつけではない。私はこれでも「ブログを書いているから読んで」、といったことはだれにもないのである。しかし読む人にとっては、win win となるよう(つまり読む人が読んだら、何らかの意味で読んでよかったと思えるような内容にしているつもりではあるが。)

ということでブログは続く。

2011年1月22日土曜日

治療論 20. 「アドバイスは適正価格で」(絶対どこかに書いているはずなのに、このブログにはない)

精神科医の安永浩先生は由緒正しい精神病理学者であるが、その治療者としての態度にはまさに頭が下がる思いである。私が最も尊敬する人の一人であるが、その安永先生がどこかに書いてあったことで忘れられないこの金言。
「アドバイスは適正価格で。」
精神科医や心理療法家のような仕事に携わる人たちにとってはきわめて重要なテーマである。(ちなみにこの「アドバイス」の変わりに、いろいろなものを代入することで、いくつかの金言が出来上がる。「自己開示は適正価格で」なども授業でしばしば口にしている。要するに治療者がその時々でクライエントにとって非常に益になるように思えることにも、それを提供することがふさわしい場合とそうでない場合があることに気をつけなければならない、ということだ。当たり前の言葉かもしれないが、私にはこれが安永先生の言葉ということで、私には個人的に深い意味を持っている。
いかに頻繁に、私はアドバイスを安売り(押し売り?)し、あるいは高値をつけて売り惜しみをしているだろう。私たちが自分の経験にもとづいて何事かについてクライエントにアドバイスをする時、あるいは家族や友人にほとんど無反省に自分の趣味である何かを売り込むとき、たいていはそこに自己愛的な満足が入り込む。すると私たちはそれを「安売り」するようになる。つまり相手が欲していなかったり、それを受け取るだけの用意がなかったりする時に、投げ売りをするというわけだ。そして何かいいこと、正しいことをしたような気分になる。これは治療者としてハシタナイことだし、倫理的に問題ともなりかねない。
しかし治療者は安売りとは反対のこともする。治療者がいざ精神分析的なアプローチを心がけると、今度はとても売り惜しみをするのだ。「治療者がアドバイスだなんて、禁欲原則に真っ向から違反するではないか。」というわけだろう。
私は治療者がアドバイスを売り惜しみするのは、結果として悪いことではないと思う。しかしそれはアドバイスが禁欲原則に反しているから、というわけではない。治療者のアドバイスはたいがい、役に立たないものだからだ。第一クライアントの側が本当にそれを求めているかは疑問である。第二に治療者は患者に有効なアドバイスを与えるだけの経験知を持っていないのが普通なのだ。結局治療者はアドバイスを与えるのではなく、クライエントが自分で物事を決めるというプロセスをアシストするということしか出来ない。
もう少し具体的に書いてみよう。精神科医をしていると、具体的なアドバイスを求められることは少なくない。クライエントは通常、アドバイスを求めることにあまり躊躇はしないようである。薬を出している当の私に、「薬はちゃんと飲んだ方がいいのでしょうか?」という質問をされることすらある。そんな時でも私はいつも「アドバイスは適正価格で」とつぶやく。
そのような時私は、躊躇をすることなくアドバイスを提供することもある。「パキシルだけは、やめるときには決して急に止めてはいけませんよ。『シャンビリ』がおきるかもしれませんよ。いえ、決して『止めてもいいですよ』と言っているんじゃないけれどね。」このアドバイスは適正価格だ。パキシルを急にやめて離脱症状が起きて、「シャンシャンビリビリ状態」になった人は少なくない。必要なアドバイスは必ず差し上げる。(というよりは薬を出す前に伝えておくべきことだったのだ!!)
でもそのようにどうしても必要なアドバイスを除いたら、私は「先生が出してくれる薬はちゃんと飲むべきですか?」という一件単純な質問にすら、きちんと「正しい」アドバイスをすることは難しいことだと思う。医者が出す薬をそのまま唯々諾々と飲むべきかというのは、実は決して易しい問題ではないし、私だって内科医から出された薬が副作用が強ければ、量を半分にするか、一日だけで止めてしまうかだろうと思う。
だから結局直接的なアドバイスを差し上げる代わりに、自分がどうしてそのような「アドバイスモード」に入り込もうとしているかについてクライエントと一緒に考えることになる。そしてたいがいの場合に気がつくのは、クライエントはアドバイスを求める前に、自分ではどうしようかをある程度は決めているのである。大概はより好ましいと思えるA案のほうに、である。すると治療者の口から出るのはむしろ、「A案を選ぶことに何かためらいがあるのですね。」という言葉である。
もし治療者から見て絶対にA案のほうがいいのに、クライエントがB案に決めようとしている場合にはどうだろうか?そのようなときでさえ、「B案はまずいですよ。」というアドバイスの代わりに次のように言えば、分析的な治療者としてのお作法違反ではないだろう。(お作法にこだわる向きのためにアドバイスの「押し売り」をしておく。)
「あなたがここでA案ではなく、B案を選ぼうとしている理由について一緒に考えましょう。」

2011年1月21日金曜日

解離に関する断章 12. メールを用いる効用

いまやメールやインターネットの社会である。ケータイの普及により人々の通話が増える以上に、おそらくテキストによるメッセージが増加しているはずである。じかにリアルタイムで話すより、時間差を設けてコミュニケーションを行なう。そして若者が友達同士と交わすメールの数は尋常ではないようだ。
ケータイやパソコンによるメール交換がこのように社会現象化している以上、もうその是非を問う時期ではないだろう。それが何を促進して、何に対する弊害になっているかを明らかにすることがむしろ先決である。インターネットやメールは人と人との生きたコミュニケーションを制限するのは確かではあるが、逆にコミュニケーションそのものの成立を容易にし、促進するという側面もある。たとえば囲碁の若手ホープの井山裕太名人は幼少時にテレビゲームで囲碁を覚えた後、師匠とのインターネット対局で腕を磨き、12歳でプロ入りしたという経歴の持ち主だそうだ。私は同様の効用を、解離性の患者さんとのやり取りで体験しているというところがある。
もちろん心理士や精神科医による面接をメールで行うということに関しては、様々な問題があろう。しかしそれは同時に、交通手段の問題や遠隔地に居住するという事情から患者が頻繁に治療に通うことの出来ないという事情があったり、治療者の側の身体的な障害そのほかでオフィスでの面接が不可能な場合に、これまでは不可能であった治療関係を成立させる可能性もあろう。
私は最近は、それ以外にも解離性障害の患者さんとの治療的なかかわりで、時々メールが特異な意味を持つ遠いうことを体験するようになっている。それは端的に、患者さんの交代人格が、メールを通してよりスムーズに連絡をしてくることが考えられるからである。
メールを用いた交代人格との交流がよりスムーズになるようないくつかの根拠をここに挙げてみる。患者の異なるいくつかの人格がひとつのメールアカウントを用いる場合、例えばAさん、Bさん、Cさんがそれを使っている場合を考えよう。そのうちの一人の交代人格Cさんに対してメールを送った場合、Cさんがそれに返答する用意がある場合はそれに答え、それ以外はそのメールを無視することになるだろう。これはセッションにおいてCさんに出会う機会がない場合にその代替手段となりうる。交代人格は多くの場合、臨床の場で治療者と対面することに躊躇することが少なくない。またその人格が活動する時間や状況が限定されいるなどして、オフィスで出会えない場合には場合にも、メールは治療者と交代人格が接触する機会を生むことになる。

2011年1月20日木曜日

解離に関する断章 その11. 火山モデルを用いた治療原則 ― 特に休火山の取り扱いについて

ある火山が、現在死火山の状態なのか休火山なのか、という区別は重要である。死火山ならもう噴火する可能性はないことになる。しかし休火山の場合は、それがどの程度将来噴火する可能性があるのかを見極めることが重要である。休火山は放置しておいても死火山になっていく可能性がある。ところがやがて再び噴火する可能性もある。後者の可能性が高いと考えられる場合は噴火を回避するために、早めに手を打っておく必要があるだろう。例えば軽い地殻変動による刺激を人工的に起こすことで、余計な歪みを解放し、本格的な噴火を防ぐことが出来るかも知れない。しかし場合によってはその刺激により、結果的に本格的な噴火を引き起こしてしまうかも知れない。
この例えを解離に当てはめるならば次のようになる。たとえば時々仕事中に飛び出してきて、職務を妨害するような子供の人格を考える。このところあまり姿を表すことがなく、このままおとなしくなってくれるかも知れない。しかしこれからさらにストレスの大きい仕事にかかわることになった場合、その人格が賦活化されることが十分予想される。そこで治療において早めにその人格を扱っておくということが重要になってくる。
ただしその為にその子供の人格を治療中に呼び出すことは、その人格の出現をある程度習慣化させることにつながりかねない。もちろんそうすることは、その人格がこれまで抑制されていた自己主張をある程度までまとまった形で行うことを保証する意味を持ち、合目的的かも知れない。しかしその間その人の社会適応レベルはある程度低下することを覚悟しなくてはならないのである。

2011年1月19日水曜日

解離に関する断章 その10 解離の火山モデル

私は最近、解離性障害について、火山活動の比喩で患者さんやその家族に説明することが多くなってきている。解離という現象は長い目で見た場合にある程度の予測が可能であるが、日常生活レベルではかなり予測不可能なところがある。例えばある交代人格が頻繁に出現する時期が過ぎると、あまり姿を現さなくなるということはしばしば生じるが、今日出現するか、明日はどうか、という予想自体はつかないことが多い。それが自然現象、例えば地震や火山活動、気象現象などと非常に似ているところがあるからだ。ちょうど日本では地震が頻繁に起きるが、日常レベルではいつどの瞬間に生じるかはほとんど予想不可能というように、である。
しかし解離の患者さんの治療中にいきなり「火山を思い浮かべていただければわかるとおり・・・・」などと話し出して、とっぴな例を出す治療者だ、と思われていないとも限らない。そこでこのような場を借りてこのモデルの有用性をあらかじめ説明しておきたい。

ちなみに学問的にも、自然現象と脳の活動とはある意味で非常に類似している。どちらも複雑系において生じる様々な現象であり、その基本的なあり方はカオスに近い。カオス、とは科学的に用いる場合は、確か「ある決定論的な手続きで生じながらも決して定常状態に至らない現象」とか何とか定義されるはずであるが、わかりやすく言えば、ある種のパターン(≒揺らぎ)はかろうじて見出せても、それが決して確かな規則性を見出すことができない、ということである。ちょうど地震について言えば、火山活動がある地方で頻発することがわかっていても、実際にその地方で、何年おきに地震が生じるかを決して正確には知ることが出来ないということであり、実は自然現象はことごとくこのような性質を持つ。(地球の自転の速さだって、一回ごとに揺らいでいて、しかもしだいに遅くなっている、という風に。何か当たり前のことを言っているようだな。)同様に交代人格の出現だって、あるいは時々生じる激しい人格部分による興奮状態にしても、そこに正確な規則性を見出すことは出来ない。(もちろん、人間の脳を自然と同じように極めて複雑な体系として理解しているわけであるから、脳において生じることは同様の性質を持つことには変わりない。てんかん発作、躁転、欝のエピソード、神さんの気分、みなある程度の周期性は伺われても、性格にはその変化を知りえない。)

ここで火山というモデルを用いることの理由を述べるならば、解離性障害を持つ人は、普段は十分に適応出来ていても、時々別人格が賦活され、出現するために興奮状態になったり記憶を失ったり失神したりするために、周囲から誤解されたり、職を失いかけたりするからである。火山のモデルはその交代人格の表れの唐突さや激しさを表現していると考えていただきたい。


ここに描いたのは、活火山と休火山、および死火山である。一番左の活火山はある興奮を伴う人格が頻繁に出現しているものである。また中央の休火山は、その噴火が一時おさまっている状態である。そして一番右の状態は暫くの間噴火が起きずに、これからもその火山が活動を再開することは当分ないことが予想されるために、死火山という呼び方をする。さらにはその下に表現したのは、地殻変動である。火山はこの地殻変動により生じることがおおいが、それは解離性障害の場合には、過去の虐待者との偶然の再会や、現在の生活で体験する外傷体験などである。これがなければ交代人格はもう二度と賦活されることもなくなる可能性があるが、運悪く虐待的な関係に入ってしまうと、再び生じるかもしれないのだ。

2011年1月18日火曜日

解離に関する断章 その9 挿絵をもう一枚描いてみた(へたっ)

DID(解離性同一性障害)の状態にあることとは、患者のいくつもの人格が一つの乗り物に乗っているようなものである。ここで乗り物、とは身体の比喩であるが、彼らはほかの交代人格と身体を共有していることはおおむね否定しない。ただしそれをコントロールする立場になったり、そこから外れたり、ということがおきていることについての自覚のレベルは、それぞれの人格で異なるようである。しかし彼らが常に乗り物の内部にいることは間違いない。そこで頻繁に登場する主要な人格を仮に10人程度とし、乗り物としてマイクロバスのサイズ程度のものを考えたが、もちろんさらに大型の車両を比喩として用いることもできる。

2011年1月17日月曜日

解離に関する断章 その8 挿絵を描いてみた(へたっ)

今日は阪神淡路大震災から16周年であるという。甚大な被害と、たくさんの外傷性の精神障害を抱えた犠牲者を出したあの出来事についてのニュースを聞いた時、私はアメリカ滞在中で、市内の病院の一室にいた。当時4歳だった息子が肺膿瘍という病気になり、入院して手術を待っているところだった。肺膿瘍とは、肺炎の後の予後が悪く、胸腔、つまり胸壁と肺の実質の薄い隙間に、膿がいっぱいたまっている状態である。普段は肺と胸腔の間には摩擦がなく、その中を肺は自由に膨らんだり縮んだりできる。ところがそこに一面にバターを厚く塗ったように膿がたまり、いつまでも熱が続く。炎症はそのうちおさまって熱は下がっても、膿はそのうち固まり、胸壁と肺の実質をがっちりと糊づけしてしまう。その膿を今のうちに開胸して掻きださない限り、やがて成長する際に胸が引きつれてしまう、などの説明を医師から受け、エンパイエーマ(肺膿瘍)というその英語の病名と何度も繰り返していた。それから二週間続くことになった入院中、私と今の神さんはほとんど病室に寝泊まり状態だったのであるが、そんなときに、遠い日本で大きな地震による被害があったというニュースを聞いたのである。だから幼い息子が全身麻酔の手術に耐えられるのだろうか、そしてその手術から無事生還するのか、精神的な外傷にはならないのか、というその時の不安や暗澹たる思いと阪神大震災についての第一報を、私は今でも分けて考えることは出来ない。それにその病室で息子の熱で赤みを帯びた頬をして眠っている姿を横目で見ながら、私はワープロ原稿を打ち、秋に出版に備えていたのであるが、それが奇しくも外傷についての私の初めての単著「外傷性精神障害」だったのである。


人格Aと人格Bは別人である、という言い方をする時、次のような反論が起きることがある。しばしば二つの人格は、同時に存在して、ひとつの体験を共有することがある。自分の肩口あたりにもうひとつの人格を常に感じる、と語る患者さんもいる。両者の間に健忘障壁が明確な形では存在しないことも多い。しかしそれでもA、Bは別人である。それは例えばシャム双生児が持つ体験に類似している。体を共有する二つの人格は、明らかに別々の体験を持ち、他人同士である。しかしただひとつの身体を共有するという運命を逃れることが出来ない。だからこそ意見の対立や様々な葛藤が生じることになる。

2011年1月16日日曜日

今日は、表参道にあるこどもの城で精神分析関係の講義を午前と午後と行い、その後お通夜に参列した。私の勤務先の大学院院長開原成充先生が先日ご逝去されたのだ。講義が終わって喪服に着替えて駆けつけたが、開始時間を過ぎ、すでに弔問客の長い列は建物の外に広がっていた。恐らく零度に近い寒空を一時間ほど並んでようやく献花をすることができた。
開原先生とは色々な機会に話し合う仲だった。時には談笑し、楽しい時を過ごしたが、臨床心理学専攻の在り方について強い口調で意見を申し上げたことも一度ならずあった。開原先生は年もずいぶん上で、大学院での地位もはるかに上だったために、私も反抗的挑戦的な面を出すこともできた。ずいぶんご迷惑をかけたこともあったと思う。
思えば若い頃は、上司に対して私はかなり反抗的で生意気な態度を取ってきたものである。相手が強い立場で、私が多少攻撃的なことを言ってもびくともしないと感じられるからこそできたことだ。ところが最近自分自身が年を取ることで、私が生意気な態度を取れる人々が減ってしまっている。開原先生は時に本気になって相手をしてくださる、数少ない上司だったのである。
改めて感謝の意とともに、ご冥福を祈りたい。

2011年1月15日土曜日

またまた雑感(実は多忙)

私は別に政治の話が好きではないし、第一ぜんぜん詳しくない。ただし毎日体験していることを書くと、必ず周囲の人々に迷惑をかけてしまう。だから私の日常の話題は常に、自分のことか、神さんのことか、うちのチビ(犬)のことか・・・・政治のことになる。でも政治家の振る舞いを精神科的に眺めるのはとても面白いと思っている。ということで、以下は読売新聞電子版(今日付)からの抜粋である。


海江田経済産業相は14日の記者会見で、「人生は不条理だ」と、同じ衆院東京1区で争った与謝野氏が後任の経済財政相となったことへの不満を隠さなかった。西岡参院議長もBSフジの番組で、「選挙区が同じ人を内閣に並べて、首相は小選挙区の民意をどう考えているのか」と批判。こうした動きに、自民党幹部は「菅首相はばかだ。与謝野氏1人を捕まえて、民主党内に80人くらい敵を作った」と冷ややかに語った。(2011年1月14日23時02分 読売新聞)

与野党ぞこってのこれらの批判は、「でも財政再建のためには、不満や不協和音があったとしても、与謝野氏の起用もやむを得ないのではないか?」という方向には決して行かない。そこが一番重要なのに、与謝野氏が起用されたことのネガティブな側面のみをコメントし、ポシティブな面は無視する。それが「政治」だろうか。例えば野党の党首が、「総理のこの仕事については評価する。」というような内容の発言をしては絶対にしてはいけないのか?よほどいけないらしい。だから誰もしないのだ。
私には日本がこれ以上赤字国債に頼ることに歯止めをかけるためには、思い切った経済政策の転換が必要なことは明らか過ぎるほど明らかだし、そして菅さんは国民の不興を買ってでもそちらに舵を切ろうとしているように見える。もちろんそれ以外のたくさんの思惑や計算があるとしても、与謝野さんの起用にはその様なポジティブな意味があることは多くの人が本音の部分で思っているのではないか。
この「ホンネ発言」を廃してあくまでも建前論で終始するのが「政治家の言説」なら、私はそんな世界に生きることを想像するだけで耐えられない。もちろん誰も私に政治家になってくれとは言わないし、なれといわれても街頭演説すら出来ないだろうが。
その意味で小沢さんの言葉の一つ一つが私にとっては気になるのは、彼の言葉は徹頭徹尾「政治家の言説」であり、とりわけ欺瞞的で、またひどく空疎に聞こえる。それは彼の言葉を聞いて、その時の表情の作り方を目にしたときにすぐに感じ取ることが出来るものだ。総裁選に負けたときの言葉。「これからはイッペイソツとして、党のために・・・・」カラーン。どうして自己矛盾に陥らずに、ここまで徹底的にこの種の言説を続けることが出来るのだろう?その意味でやはり小沢さんは大政治家、ということにもなるのだろう。
政治の世界に比べれば、よほど本音や誠意や正直さが尊重されるのが精神療法の世界である。クライエントはかなり敏感に治療者の欺瞞性をかぎ分け、セッションにやってこなくなる。治療者はその欺瞞(それまで十分に意識化していなかった逆転移など)を見つめなおすことで、その見捨てられ体験を克服していくのである。

2011年1月14日金曜日

雑感

枝野さんの官房長官就任。もともと幹事長を辞任した時も、彼の判断ミスや失言などが原因でわけではない(と私は思っている)。小沢グループから嫌われ、負けた選挙の際に幹事長だったというだけで責任を取らされたわけだ。そして彼は特にそれに抵抗することなく受け入れた。あの淡々とした、恨みのこもっていない態度が、今回の彼の起用にも繋がる。あの種の辞任は、本人も楽しむべきものだろう。次にいつ声がかかるかを待っていればいいからだ。

人は左遷された際に、そのされ方が傍目から見て理不尽であればあるほど、将来再評価される可能性も高い。その間自分にとって有意義な生き方をしていればいいのだ。これはこれでむしろ楽しい時間ではないだろうか。
なぜ不当な評価を受けた後には、再評価される時が来るのか。それは世間は誰かをオールバッドとして不当に扱った場合には、必ず後ろめたさを感じ、その人を救済しようとするからだ。いわゆる判官贔屓とは、そのようなことをさすのだろう。(もちろんまったく逆のこともおきる。実力以上に高い評価を受けた場合だ。これはじつは覚悟のいる体験である。)

私も同じように考えるようにしている。職場での同僚や上司との関係でも、患者との治療関係でも色々なことがある。自分の真意が伝わらない為に不当な扱いを受けたと感じることはよくあることだが、それを甘んじて受けることは実は楽しむべきことだと考えるようにしている。もちろん役割や責任を外されるのはふがいないが、責任から外れることの開放感はある。新たに得られた時間的な余裕を純粋に楽しめばいい。そして将来またいい縁に恵まれ、出会いがあるまで待てばいいのだ。
これって、1月5日に書いた「覚悟」のテーマにも繋がる。覚悟を持って決断を下すということは、「それが人に受け入れられなければ、職を辞せばいい」ということだが、職を辞すこと自体がつらく悲しい体験であったら、覚悟を持つということもつらく悲しいことになる。しかし職を辞すことが、開放感や新たな時間を生み出すことを楽しめるのであれば、覚悟を決めるということ自体が特別悲壮を帯びていたり、勇気ある行動ではなくなってくる。むしろ冷静な選択の仕方の問題ということだろう。
話しがややこしくなったので民主党の話に戻す。1月5日のブログで、「菅さんは総理を辞任することを恐れていては何も大きなことができない」というようなことを書いたが、そのために勇気を持て、という事ではなく、総理を辞めた後の自分も楽しめる、という余裕を持つことが最初だろう、ということだ。少なくとも小泉さんはそうしている気がする。そのような覚悟が全然ないと鳩山由紀夫さんのようなことになるのだろう。「引退する」、と言った時も、おそらく「引退をやめる」、と言った時も覚悟とは程遠い「思いつき」ではなかったのだろうか、と思いたくなる。

2011年1月13日木曜日

うーん、民主党で起きていることで、どうもわからないことがあった。民主党で起きているのは、内輪もめ、という批判があるが、党の執行部の決定に従わないという事態を是正しようとするのが、なぜ「内輪もめ」なのだろうか?これは私のアメリカ体験が大きいのかもしれないが、組織の長や上層部にある人が決定したことに下が従わないということは、あってはいけないし、その事態を放置することはその上層部そのものに問題があることになるし、その組織そのものの正当性を否定することにもなる。小沢さんは国民の前で説明しなければならない。それは世論の多くが支持していることである。内閣総理大臣でもある菅さんがそのように指示したことに従わないという小沢さんの態度に対して断固たる態度を取らないことがおかしい。それは世論の多くも同意していることだ。何を菅さんは恐れているのか・・・・。と思っていたので、今の彼の動きは非常に納得が行く。ただしこれは現在の民主党という様々な矛盾をはらんだ党が、その幾重にも絡んだ結び目の一つを解いたというだけに過ぎない。結び目の一つを特だけでこれだけ党内がもめて喧々諤々の議論が沸き起こっていることが、彼らの陥っている問題の深さを物語っているようだ。

2011年1月12日水曜日

女性性を考える その2.

今日はクレイエントさん(20代女性)から話を聞いた。女性にとってのかわいい、とは何か。彼女はジーンズやパンツよりはスカートがかわいい、という。だから自分はそれをはいている。それはキュロットでは表現できないかわいさ、という。しかしそれはセクシュアルな意味があまりないようである。なぜなら「男性の目は関係ない」というからだ。女性の間でもかわいくありたいし、かわいさを競うというところがあるという。女子高であってもそれは同じだ。

女性の追及するかわいさが、セックスアピールとは微妙に、あるいは明らかに異なるという点は重要であろう。男性が女性のかわいさを魅力的と感じたとしても、そこにはどこか倒錯的なところがある。秋葉原でメイド服を着た女性たちに対して男性はそこに一種倒錯的(オタク的)な視線を向けることになる。それは女性たちがセックスアピールとは異なる「かわいさ」を発散しているところに、逆説的に魅力を覚えてしまうということになる。
確かにかわいい、はセクシュアリティと関係しているようでしていない部分がある。彼女たちはアクセサリーを見ても「かわいい!」と言ったりする。うちの神さんは、コーヒーカップも、トイレの便座カバーも、明らかに「かわいい」(彼女にとって)ものを買ってくる。そしてそのかわいいはもちろん、うちの犬チビの「かわいい!」とも結びつく。子犬、子猫の「かわいさ」は言うまでもない。そして … 人間の赤ちゃんを見たときの「かわいい」にもつながっているかもしれない。そう、女性にとってのかわいいは、幼児を見たときの「かわいい」に通じるところがある。しかしではどうして彼女たち自身が「かわい」くありたいのだろうか?動物学的に考えたら、男性を惹きつけるために女性がかわいくありたいとしたら、繁殖にむすびつくという意味では合目的的である。しかし繰り返すが、彼女たちがかわいさを追求する際にそこに男性の目はあまり意識されていないのである。
自分もかわいくありたく、そしてかわいいものにひかれるというこの女性の特徴は、女性に特有の対象との同一化傾向と関係しているのかも知れない。対象の気持ちが分かり、対象に同一化し、対象を取り入れ、また対象の中に自分を見る。この傾向が、私がつねづね考える「関係性のストレス」と繋がっているかも知れないと思うのは飛躍であろうか。

2011年1月11日火曜日

女性性について その1. 「かわいらしさ」を考える

私が女性独特の心情の中で、なかなかピンと来ないのが、「かわいい」ということである。今朝うちの神さんに聞いてみた。「かわいい、と言われるとうれしい?あるいはかつて言われた時、うれしかった?」彼女はそれを肯定して、女性にとって「かわいい」、と言われることはおそらく誰にとってもとくに抵抗なくうれしいことであるという。それは年齢を重ねても同じで、ただし中高年になると「かわいい」と言われた時「この人、からかってるんじゃないの?」と同時に考えてしまうだけだという。神さんはおそらく若いころからかわいい、と人に言われることが少しだけ多かったであろうが(私もひょっとしたら昔そう言ったかもしれない)、実は彼女の心理は屈折していて、異性にこびるとか、女らしさを武器にするということに関してはかなり嫌悪感を持っているのも知っている。しかしその彼女でも、女性にとって「かわいい」は無条件の賛辞だろうという。
おそらく男性にとって「かわいい」が賛辞にきこえるということはあまりないのだ。男性にとって無条件の賛辞があるとしたら、それはおそらく強さや優越性に関するものだろう。「(精神的、肉体的に)とてもお強い方です。」「大変優れた才能をお持ちの方です」と人に評価してもらうことでいやな気持ちを持つ男性は極めて少ないであろう。もちろん「馬鹿にされているのではないか?」という懸念は差し引いた場合である。しかし「ハンサムですね」とか、ましてや「かわいいですね」といわれて少しでも複雑な心境にならない男性はいないのではないか?ハンサムさ、かわいらしさ、がなんとなく強さや優越性をスポイルしてしまうのではないかと思うからだ。
ただし優越性に関しては女性にもアピールするかもしれない。たとえば「一番かわいい」と言われるほうが「3番目にかわいい」と言われるよりはいいだろう。ということは優越性に関しては、人間として、つまり男女共にそれを嬉しく思い、その優越性が何によるか、というところから男女で分かれると考えたほうが正確だろう。つまりそれが男性は「強さ」、女性は「かわい(らし)さ」により人に優越することなのだろう。
なぜこんなことを書いているかというと、私が先日から書いている母娘の関係や女性性の問題との文脈で、女性性を知る上でのキーワードはこの「かわいさ」だろうと思うからだ。いまや国際的に知られる表現となっている東京の kawaii が、あれだけ個人としての主張や独立を尊重する欧米の女性にもアピールしていることは、これが文化を超えた問題であることを示しているといえる。(つづくと思う。)

2011年1月10日月曜日

週末は日頃できないことをいくつか片付けることができた。気になっていた私のサイト( kenokano.com ) 私が5月の連休にこのブログを始める前まではここが私のHPであった。しかしこのところずっとこのサイトに行こうとすると、何故か私の勤務先の臨床心理学専攻のHPに直結していたのだ。私が両方のHP を管理していて、心理学選考の内容を、私のHPのプロバイダーにアップしていたためだ。だったらそれを修正すればいいのであるが、これがなんと半年出来なかった。(というより半年間忙しさにかまけてほっておいた。)ほんのちょっとした誤りがこの問題を生んでいたのである。幸いバイジーのT氏に助けてもらって修正できた。→ kenokano.com
しかしそれにしても、ある不具合が生じて、それに原因が特定される(例えばこのアドレスに見られたように)世界に私たちが親和性を抱くのは無理も無いのだろうか?身体医学などもそうだ。ある異常値には特定すべき原因がある、という方針は、内科でも外科でも同じだ。ところがある症状には必ず特定すべき原因がある、とは限らない。(異常値か、症状か、の違いである。)特定すべき原因のない症状はあってもいいことになっている。そしてそれは彼らが扱う必要は必ずしもない。それは「精神的なもの」と呼ばれ、患者さん達は精神科医や心療内科医に紹介されてくるのである。

2011年1月9日日曜日

合理性ばかり考える人生はイヤラシイ(続)

このアイスは絶対に売れていると思う。どこのコンビニに行ってもあるのだ。なければあきらめようと思っているのに、結局昼食にしてしまう。
すごいカロリー量だが、それは「中身」を食べた場合である

 このテーマについて一昨日書いたが、あれから少し考えが変わった。いやらしいほど合理性を追求するうちに、例えばソニーは テープレコーダーをカセットテープの大きさにしてしまったんだし、「普通はソコまでやらないだろ!」という努力をしていくうちにコンピューターは見る見るうちに小さくなり、USBメモリーは容量が32ギガまで大きくなり、定期入れ大の外付けハードディスクドライブの容量が500ギガ、なんてことになる。それが利便性を与えてくれるので私たちは当たり前のように毎日使うようになる。徹底した合理性がいやらしい、なんておかしい。ただしその合理性を発揮している人間が人を無視している時がいやらしいのだ。それなりの思慮深さをもっているだろうに元夫の悪口を平気で言う大竹しのぶは、サンマについてこんなことを言っていた。「取り放題のレストランなどに行くと、彼は一人でさっさとお皿に食べ物をもって席に運んで、食べ始めているの。」自分のことしか考えずに一直線にあいている席を目指す乗客のように、他の家族の存在を無視して食事を始めるサンマもはしたない。大竹しのぶが元夫の話をするとき、そのようなエピソードを語るのには理由がある。ちら、とでも他の人のことを考える姿勢、配慮は美しいし、その欠如はひどく興ざめなのである。

徹底した合理性は、それが公的な利益を追求するために向けられたなら、貴重な才能として歓迎すべきだろう。うちの神さんはおそらくかなり優秀な主婦業をこなしているが(これはほかの奥さんとは比べた事がないからわからないが)その合理性の徹底ぶりには感心する。冷蔵庫を開けて残っているものから、一瞬にして一番合理的な晩の献立が浮かんでくるらしい。しかしその割には夕方の6時過ぎには私はケータイのメールをチェックすることを忘れられない。時々連絡が入っているのだ。(「牛乳忘れた。コンビニでひとパックを買ってきて。」「●●屋でロールパン一袋お願い」)。

「神は細部に宿る」というが、うちの神さんは「時々細部が抜ける」のである。

2011年1月8日土曜日

解離に関する断章 その8  投影過剰か、取り入れ過剰か?

今、「続・解離性障害」という本を準備している。出版はまだ先になるだろう。その中で、2008年の「解離性障害」(岩崎学術出版社)で論じたことをまとめている。そこから新に何を考えたか、ということを示すためだ。2008年の同書には、まとめるならばこんなことを書いた。

「DID(解離性同一性障害)の病理をもつ多くの患者が訴えるのは、彼女たちが幼い頃から非常に敏感に母親の意図を感じ取り、それに合わせるようにして振舞ってきたということである。彼女たちは自分独自の感じ方、考え方を持たないわけではないにしても、母親のそれを自分のものとして取り入れることで、不自然にもいくつもの「自分」を心に宿すことになるのだ。そこで彼女たちがなぜ自己主張を行なったり、投影や外在化を用いて、自分の感じ方を押し付けてくる母親に対する反撃を行わないかは不明である。しかし少なくともそれが母親からの精神的な重圧だけでは説明できないことも事実である。」

「しかしどうして母親から示されたメッセージを取り入れることがストレスになるかを考えた場合、当然ながら娘の主観的な思考や感情があり、それが取り入れられたそれと矛盾するという現象が生じるのだろう。その意味ではベイトソンの示したダブルバインド状況そのものが実は解離性障害を生む危険性に関連していたということになる。この問題については、実は安 (1998) が生前指摘していたことでもある。」

うーん。いろいろ考えさせられる。DID出生じていることを、ボーダーラインと対比させることで論じる、ということを私はよくやるが、ここの図式はわれながらわかりやすいと思う。要は、投影projection 過剰か、取り入れ introjection 過剰か、ということになる。前者はボーダーライン。後者はDIDということになる。投影とは簡単に考えれば、人に耳の痛いことを言われて、その通りだと落ち込む代わりに、「あんたこそそうだ!」と言い返すことだ。これは実に大多数の人が行うことだ。精神科の研修医の頃だが、あるボーダーさんと思しき人に診断名を聞かれて、人格障害とはいえずにおずおずと「あなたは人格的な問題があると思います。」と言ってから、「しまった」と思った。案の定その患者さんからすかさず「そんなことを言う先生こそ人格的に問題があります!」といわれてしまった。これなどはいい例である。
ただ人からネガティブなことを言われて「あんたこそ●●だ」と言い返さず(投影せず)に「自分は●●だ」と引き受ける(取り入れる)ことの苦痛は、やはり何らかの形で処理されなくてはならない。自分にネガティブなレッテルを貼られて嬉しい人などいないからだ。そしてDIDの場合は、それは●●という性質を持った人格を内側に作ること、言うならば「自己の内部での投影」という複雑な規制ということになるだろう。うーん、話は複雑になってきた。

2011年1月7日金曜日

合理性ばかり考える人生はイヤラシイ

傍目には見苦しいのが、自己中心的な人間、ということを書いたが、一般的にある種の合理性を追求している人はある見方からすればとても見苦しい。Greedy はみにくさに繋がる。地下鉄で空いている席に向かって突進してくる人は情けない。ふたり分の席を占領してメールをチェックしているサラリーマンは、自分の世界に浸っていて、ケータイ画面の外に興味を示さない。これもある種の合理性の追求であるが、はた迷惑である可能性を顧慮しないのが見苦しい点なのだろう。
そして合理性に関しては、私自身も負けてはいない。時間に関しては特に貪欲だし、一つのところに留まらずに、すぐ次のことをやりたくなるのは、周囲の人間からは迷惑だろう。パーティなどお主催者に挨拶もせずに帰ってしまうのは失礼としかいいようがない。そしてこれは多動で何事にも集中できない、という私自身の問題も反映している。ゆっくり時間をかけて食事をしたり、飲み明かしたり、ということを楽しみにしている人には、私はまったく不適格で、相手を不快にすることしかないだろう。
それもあってか、私はその他の場面ではなるべく合理性を追求しないようにしている。金銭的なことにはルーズであり、着るのも、身につけるものに対するこだわりははっきり言ってない。食べ物にもうんちくはない(というより味がわからない)。
合理性とかこだわりとかの話になると出てくるのが、イチローくんの話題だろう。7年間昼は弓子夫人の手作りカレーしか食べない、などのこだわり。東京から大阪までひとつの歌を何度もエンドレスで聴き続けながら車を運転する、などのエピソードがあるが、だれも彼の車の同乗者にはなりたくないだろう。そんな話を聞くと、イチローもgreedy なひとりに数えたくなる。ただ彼の例を考えると、恐らく彼もほんの少しではあるが持っているに違いないアスペルガー傾向についても考慮せざるをえない。一定のパターンの繰り返しが安心感や快感を生む。周囲はそれに振り回され、付き合わされる。アスペルガー障害に顕著なのが、他者からどのように感じられるか、ということだとすると、彼らのこだわりがgreediness に繋がることは当然と言える。
合理性にこだわりつつ、それが周囲に迷惑をかけている事に気がついている人間は、すこしましだと思う。というより凛々しくさえある。こだわり続ける人が「あの人はブレない」「意思が強い」と評価されるときは、本人が周囲に与えている痛みが分かっている時だろう。そしてそのこだわりが実は自分を超えた全体にとっての合理性でもある時、人は彼を受け入れ、支持する。しかしそれもまた運の問題である。彼のこだわりは人々の心に訴えないかも知れない。その時は・・・・人にとって自分が迷惑で見苦しいことを認め、受け入れるしかないだろう。

2011年1月6日木曜日

快楽の条件 その9  行動の完結そのものに快感がある

もし私が食事を開始したら、よほど途中で満腹になったり食欲を失ったりしない限りはそれを終わらすことに専念するだろう。また映画館に入り始めた映画鑑賞を、残り5分を残して中断して出てきてしまう人も珍しい。また何らかの文脈で自分の名前を書き始めて、途中でやめるということなどあるだろうか? 皿に盛られた食品を全て食べないと必要なカロリーを摂取できないから、映画の最後のシーンに秘密を解く鍵が隠されているから、書きかけの署名は用をなさないから、という理由以上に、私たちはものを完結させたいという欲求から、それらを最後までやり通す。完結それ自体が快楽的だからだ。だから私たちはあまり面白くない仕事でも、やり始めたら最期まで続けるのである。やり始めるまでは散々迷っても、いったん始めたとしたら、それを完結したいという欲求が突然増すとしか言いようがない。 ゲシュタルト心理学は、このような人間の性質に注目した学問であるといえよう。全体としてまとまったものがドイツ語でいうゲシュタルト(Gestalt)だが、それを試行するという人間の脳の性質に注目した心理学がこのゲシュタルト心理学である。
さてこれと深く関係しているのが、解離理論における「離散行動モデル」であると私は考える。人はどうして異なる自己状態を有する傾向にあるのか?どうしてスイッチングを起こすのか。それは行動がひとつの完結を見ることで次に移るような間隙が生まれるからであろう。ということで続きはあす。

2011年1月5日水曜日

関係性のストレスと母子関係

小沢さんに場合によっては辞職を迫る、という菅さんの発言を聞いていて、いよいよ本気なんだな、と思う。これは小泉さんとの比較で常に考えていたことだが、政治家にせよ、実業家にせよ、これがうまくいかなかったら現在の職を退いてもいい、という覚悟がないと、大きな決断はできないだろう。小泉さんが郵政改革を巡って2005年8月に衆議院を解散した時は、誰もが彼を「●っているとしか言いようがない」「説得の仕様がない」として翻意させることを諦めたような、孤独な決断を下したのである。
いくら自分がある決断を下したいと願っていても、それが客観的に正しいか間違っているかは、誰にも証明できない。そこで「それを世の中が是としないのなら仕方がない。仕事を辞めるだけだ。」という覚悟と共に決断するのは、その人の勇敢さとか豪胆さとかとは関係がないことである。だから私は小泉さんが特別勇気がある人間とも思えない。ただ彼は決断には必ずその職を賭すほどの覚悟が伴わなくてはならないことをよく知っていたのだと思う。
「これを言ったら相手は怒るのではないか?」「皆から非難を浴びるのではないか?」「支持率が下がるのではないか?」という恐れを抱く限り、重要な決断はできない。「支持率が下がってやめることがあっても仕方がない」と最初から腹をくくっていれば、何も恐れることはない。これは勇気ではないのだろうか?むしろ立場の選択の問題であり、それを可能にするような人生設計を持つことと思う。職を失っても別の選択肢があり、それで生きて行けるだけの準備をした上で、いざとなったら失っても大丈夫な職や立場を選択し、その職や立場を賭して決断しがいのあることを決断する。その順番なのだ。
さて今回の菅さんの決断は、覚悟やその背後にある選択によるものだったのだろうか?おそらく違うだろう。私は菅さんは本気で小沢さんに腹を立てたからだと思う。年末の小沢さんとの会談で、国会招致を受け入れない彼に、菅さんは非常に怒りをあらわにしたという。それに対して小沢さんは「菅さんがあんなに感情的になったのは見たことがない。しんどかった」というようなことを他人事のように語ったというが、菅さんは今や総理大臣である自分をないがしろにするような小沢さんに怒り心頭なのだろう。人間は腹を立てたら何でもできる。この大事な決断を、結果としてはよかったとは思うが、怒りという勢いまかせないと決断が下せないのは情けない。覚悟や選択による決断は、むしろ冷静さの中からこそ出てくるべきものだからだ。



そこで昨日の続きの母子間の問題。最近いつも考えていることは、なぜこれだけ子どもは親を憎むのだろうか、ということだ。親子の関係は、時としてアカの他人同士よりもはるかに大きな憎しみを生むのはどうしてであろう? 特に子供の親に対する憎しみが顕著に思われる。親の子に対する憎しみは、子が親に対して持つ憎しみに比べれば、多寡が知れているという印象がある。そしてこの親への憎しみの特徴は、それが過去の自分への仕打ちに対する恨みとして、しばしば事後的に表れるのである。これはその親子の関係にとっては不幸なことである。
一見親子の関係が順調にいっている時に、実は後になり子供が計り知れない憎しみを感じるような対応や言動が生じてしまう。子どもが無力で自分の気持を表現できずに生殺与奪の権を握られ、他方では親は簡単に子どもを無視し、自分の感じ方を強要するような状況では、それこそあらゆる気持ちのズレが子どもにとってのストレスやトラウマに繋がるのだ。あからさまな虐待は生じなくても、親が注意を払ってくれなかったというそれだけが、深く子どもを傷つける。人は自分とは関係ない人から無視されるよりは、親から無視されることで親を100倍憎むようになる。
これは親からすれば実に理不尽なことだ。子供は勝手に生まれてきて、100% のケアを要求して、感謝の言葉もない。時には無視をしたくもなるだろう。しかしそれは子どもにとっては許されないことなのだ。
香山リカ氏は「親子という病」(講談社現代新書)の中で佐野洋子氏の「シズコさん」(新潮社)にあるエピソードを紹介する。「4歳ぐらいのとき、手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、チッと舌打ちして私の手を振り払った」ことから始まる母娘の葛藤を描いているという。「関係性のストレス」が想定する basic fault (根本的な不具合、過ち)とはこのような瞬間を指すのであるが、それはおそらく「対人ストレス」としてはカウントされないであろう。

2011年1月4日火曜日

(昨日の続き)

昨日の話の続き。私が外傷と解離との関連について考える上で理論的な拠り所とする人のひとりとして、マイケル・バリント(1896~1970)がいるということである。このことは「新・外傷性精神障害」(岩崎学術出版社、2009年)でも触れていることである。バリントは精神分析家であり、系譜としてはフロイトの直系の弟子シャンドール・フェレンチの弟子ということになる。ブタペスト出身の彼は、ナチズムを逃れて後に英国に移住し、そこで中間学派の対象関係論として活躍した。しかしそのアプローチはきわめて外傷理論としての色彩を持つ。本来は精神分析と外傷理論は水と油のところがあるから、彼のような存在は貴重である。



外傷理論を取り込んでいた
マイケル・バリント(1896~1970)

バリントの理論で一番知られているのは、いわゆる「基底欠損basic fault」という概念である。バリントは、これが母子間に生じることにより、後に重大な精神病理をきたすとした。彼はこれがある種の養育上の問題、不十分さ、であるというニュアンスをこめている。が、この「基底欠損」翻訳を宛てた中井久夫先生には申し訳ないが、ニュアンスを正確に伝えていない恐れがあるように思う。
英語の fault は、欠損 deficit というよりは、過ち、すなわち正常とは違ったことが起きた、というニュアンスがある。basic fault も、その意味では、「母子間に生じてしまった根本的な過ち、間違い」というニュアンスがあるのだ。バリントは次のように書いているのを、私自身が訳してみた。ここでfault を不具合などとしているが、そのほうが「欠損」よりはニュアンスを伝えているからだ。
「第一に、彼は何か自分の中に不具合 fault があると感じる。つまり直すべき不具合である。そしてそれは、コンプレックスではなく、葛藤ではなく、状況でもなく、不具合 fault であるというのだ。そして第二に、子供は誰かが、自分を駄目にしたfailed か、あるいはなすべきことを怠った defaulted on という感覚を持つ。(傍線岡野)そして第3に、このことはその領域に関して多大なる不安を起こさせ、それを今度は分析家には決して繰り返してほしくないという要求をして表現される。」 (He feels there is a fault within him, a fault that must be put right. And it is felt to be a fault, not a complex, not a conflict, not a situation. Second, thre is a a feeling that the cause of this fault is that someone has either failed the patient or defaulted on him, and third, a great anxiety invariarbly surrounds this area, usually expressed as a desperate demand that this time the analyst should not – in fact must not fail him. (Basic Fault ,P21.)
これでもまだ basic fault の正体は見えにくいが、一番説得力があるのが、彼が同じページで彼があげている例えである。彼はこのfault という表現は、地質学や結晶学でも使われているという。それは「全体の構造の中に突如見られる不規則性を意味し、その規則性は普段は姿を現さないが、ストレスがかかると全体の構造の崩壊を導くようなものである」という。
彼がこの basic fault を別の箇所で「外傷」と表現していることから、この結晶の不規則性は、ある種のトラウマとして位置づけられるべきものであることがわかる。しかし依然として、それは見えにくい、隠微な形で生じるそれである。バリントはそれを母親からの加害行為、という明確な表現のされ方などはしていないこともわかるだろう。 それは結晶構造の本来の問題かもしれないし、そこに加わった外的な影響、それも傍目にはわからないような微妙な影響かも知れない。恐らくその両者の相互作用で生じたものであり、それは隠微でかつ重大な亀裂がそこから将来生じるかもしれないような問題を残してしまったのだ。それを明確な外傷、対人外傷と表現できるものかといえば違うだろう。それは何らかの環境との行き違いであり、多分に相互的なものであろう。しかし患者にとっては主観的には、養育者が自分を「駄目にした、なすべきことを怠った」という印象を持つ。つまり被害者として自分を意識する可能性が高いのである・・・・。
私が「関係性のストレス」としてあらわしたいような母子間のストレスもまさにそのようなレベルのものなのである。そして関係性のストレスは、それこそ母子間の完成のずれ、ちょっとした言葉のニュアンスの違いから来るミスコミュニケーションという形をとりうる。そこから心の結晶は不規則な配列を生じ始め、それが解離症状の始まりを意味することが考えられるのだ。ところでこれを論じていくと、「親子関係」という途方も無い問題へと踏み込むことになる。(しばらく続く)

2011年1月3日月曜日

解離に関する断章 その7  DIDの成因

最近結構見ている正月二日の箱根駅伝。職業病で変なことを考えてしまう。走者はみな苦しそうな顔で、しかし走りのペースは崩さずに淡々と走ってくる。そして次の走者に襷を渡した途端、コーチらしき人にタオルを掛けられると同時に崩れ落ち、腰が抜けて立てないようになってしまうことが多い。これって鬱の発症に似ている。昨日まで仕事に来ていたのに、今日は朝から起き上がれない。そこで本人や家族が会社の上司に連絡をする。上司は当然「昨日まで平気だったよ。急に欝なんてありえないよ。甘えじゃないの?」

崩れ落ちたランナーに「ほら、しゃんと立て。さっきまで走ってきたじゃないか。甘えるな。しっかりしろ。その気になれば走れるんだ。」という人は、あまりいないだろう。この扱いの差はナンだろう?一種の差別扱いdouble standard と言えないだろうか?
さらに私の職業病がかっているのだが、彼らは襷を渡したときに、あるいは仕事に行けないことを受け入れたとき、スイッチが切り替わるのだと思う。なにも「別人格にかわる」とは言わない。しかし心身の状態が切り替わり、「もうダメ」状態になる。いったん変わったものを意図的に切り替え直すことは、通常の意志の力では無理なのだ。


DIDの成因という問題について考える。一昨日は「対人ストレス interpersonal stress」(最近欧米でのはやりの表現。結局は幼児期の心的、性的、身体的虐待 + ネグレクトの言い換え)との関係で、私の提唱する「関係性のストレス」という概念について述べたが、このようなことは他の人が言っているのか?これをちゃんと調べないといけない。ちょうど今審査のために読んでいる修士論文で、院生の期待の星Nくんが手際よくまとめているので参考にする。
まずはあまりにも有名な、Kluft の4因子説。(Richard Kluft は一昔前の解離の世界ではカリスマだが、最近は威光に影がさしている。この間学会で見かけたら、「笑うせえるすまん」みたいな風貌のただのオジみたいになっていた)第1因子は、本人の持って生まれた解離傾向。これはわかる。第2因子は「対人外傷」の存在。第3因子は「患者の解離性の防衛を決定し病態を形成させるような素質や外部からの影響」という、ある意味では一番掴みどころのない因子だ。しかしこれはその本人の持つ解離性障害の具体的なあり方を決定している要素、例えばアニメのキャラクターが交代人格のあり方に影響を与えるといった状況をさすらしく、解離性障害の形成自体は、第1,2因子で決定しているというところがある。なあーんだ、そういうことか。そして第4因子は、保護的な環境であり、言わばいったん成立しかかっている病理を保護修復する環境の欠如である。アメリカ人らしい、合理的な提案と言える。結局核心部分は、第1,2因子と考えていい。
もう一つ有名な Braun と Sachs の3 P モデル(1985)。彼らは準備因子、促進的因子、持続的因子である。このうち準備因子とは、本人の持つ解離能力や、優れたワーキングメモリーも含むという。そして促進的因子は、ここでもまた親からの虐待等が含まれるという。
解離性障害の発症については、この他にRoss の4経路モデルが有名だ。これは児童虐待経路、ネグレクト経路、虚偽性経路、医原性経路、という経路を考えるが、これもかなり大雑把な話である。要するに母子間の微妙な感情的、言語的なズレから来る亀裂、といったニュアンスはこれらの主要な理論には含まれていないということだ。ただしネグレクトでも解離が起きる、という提言については注目に価すると言えるだろうが。
私としてはやはりマイクル・バリントの「basic fault」の概念が一番「関係性のストレス」のニュアンスを伝えていると考える。(続く)

2011年1月2日日曜日

解離性障害とレジリエンス

解離性障害とレジリエンスというテーマを考えている。(しかしそれにしても正月の二日からなにも・・・・・。) レジリエンスとは最近しばしば議論される概念であり、もとの意味は「撥ね返ってもとの状態に戻ることができる」という意味を持つ。つまりストレスや外傷にあっても、それをはねのけて健康度を維持する能力である。人が持つ病理、ではなく、健康さ、という視点にたった概念と言えるだろう。
このテーマが重要なのは、人は解離という心の働きをかなり頻繁に、それこそ正常範囲で用いている可能性があるからだ。すると解離という機制は、用いることがレジリエンスの高さを表している可能性もある。しかし解離はまたそれが幼少時に用いられすぎることで後に様々な問題を残すことも臨床家は知っている。常識的に言えることは、解離はストレスや外傷をその当座はやり過ごすという意味では非常に適応的だということだ。それはさらに大きな精神的破綻を防ぐという意味では、一応適応的であり、その意味ではレジリエンスの表れだ。
例えば交通事故にあい、深刻な外傷を負ったときに、幽体離脱をおこしてそのシーンを上から眺める状態になり、直接的な苦痛を体験しないということは、本人にとって適応的と言えるかも知れない。
しかし解離が実はレジリエンスの低下や欠如と関係していることを示す根拠も又ある。それは多くの解離性障害の患者さん達は、欝や身体病と共に悪化し、解離をコントロールすることが難しくなるのが一般的だからである。人の心を脆弱するためにも、強くするためにも顔をのぞかせる解離性障害いう現象。その働きの全貌にはいまだまだ迫ることが出来ない。

2011年1月1日土曜日

interpersonal trauma の訳語について(まったくどうでもいい仕事の話)

私はしばらく前から、関係性のストレスrelational stress、という概念を提唱しているが、それに似ていて気になっているのが、最近良く見かけるinterpersonal stress, interpersonal trauma という概念である。私がアメリカで過ごした2004年頃までは耳にしなかった表現である。当時はもっぱらCSA(幼児期の性的虐待),CPA(幼児期の身体的虐待)、neglect などの表現のほうがよく聞かれた。これらはその言葉により表現されるようなざっくりとした大雑把な外傷概念である。いかにもアメリカらしく、大味。私の考えている関係性のストレスは、もう少し微妙で目に見えない様な外傷、同居者どうしの生活の中で様々なやりとりに含まれるストレスを意味している。まさに対人関係を持っていることで自然に生じてしまうようなストレスという意味だ。

そんなわけで relational stress と interpersonal stress とはぜんぜん違う意味を持つことになる。しかしこれをどのように日本語で使い分けるか、をはっきりさせる必要に今迫られている。ここ半年”The Haunted Self” (Onno van der Hart et al) の訳出作業を行っているが、そこに interpersonal trauma という言葉がよく出て来て、訳し方をまだ決めていないのだ。直感的にはサクっと「対人ストレス」としてしまいたいが、それだとシンプルすぎて、むしろ「対人間の外傷」などと説明的な訳しかたをすべきだという意見も出てきそうだ。
そんな時「過去にどう訳されているか」はかなり重要な問題である。そしてそれを知るための作業は楽ではないが、最近はインターネットのおかげで非常に楽にできるようになってきている。(こうして私の仕事はますます「座業」になっていく。図書館に足を運ぶ必要がますますなくなっていくからだ。)
まずよく見かける interpersonal stress をどう訳すかという問題がある。可能性としては「対人間(タイジンカン)のストレス」、「対人間ストレス」、そして「対人ストレス」の三つがある。(心理の世界ではサリバン派が interpersonalist などと呼ばれ、「対人関係学派」などと訳されることが定番になっているから、「対人」という表現を入れることは必須である。これは動かせない。)

先ほど述べたようにすでに誰かが論文や著作でこのうちのどれかをすでに使用していたら、それに敬意を払う事をまず考え、出来るならそうすることは学問的にも貢献する。(でもよほどひどい訳の場合は、別である。)もしどれも使われなければ自分が好きな訳語を当てることが出来る。
さて interpersonal stress がすでに「対人ストレス」として使われていることは、三つをそれぞれググることで分かる。「対人ストレス」がしっかりヒットするからだ。実際にこの表現で論文を書いた人がいることもわかった。ちなみに「対人間ストレス」と入れると、Google から「もしかして『対人ストレス?』」と聞かれてしまうから念が入っている。
では肝心の interpersonal trauma はどうするか?理論的には「対人外傷」となるはず。「interpersonal stress」 が「対人ストレス」という先例がある以上、interpersonal をサクッと「対人・・・」としてしまうことが許されるからだ。そこで念の為にググってみると・・・「対人外傷」はヒットしない。ということは今、ここで私が interpersonal trauma を「対人外傷」、と胸をはって決めていいということになる。
ちなみに「対人外傷」「対人トラウマ」とググって何も出てこない(ブログ作者がたまたま気まぐれに使ったものがヒットしたものは除こう。)これにもすこし驚く。ネットの情報は膨大なのに、使われていないものは、本当にヒットしないものだ。ネットには何でも情報がある、とは決して真実ではない。
そこで今日から interpersonal trauma は「対人外傷」と訳すことを宣言。共訳者のN先生が賛成してくれればそれが今年中には出るであろう上述の本の訳語となる。そしてそれは、私の好きな「関係性のトラウマ」とはぜんぜん違う概念である。(少なくともカブっていなくてよかった。)

こんな気長なことが出来るのも、そしてダラダラとこうして書けるのも、正月休みでずっとパソコンの前にいられるからだ。