2010年12月7日火曜日

シリーズ「怠け病」はあるのか? その2

「怠け病」とミュンヒハウゼン病、詐病の区別をつけていないので、話は見えにくいかもしれない。三本の糸はまだ絡まったままである。書きながら解いていくつもりであるが、その方向性はある程度定まっている。それはミュンヒハウゼン病、詐病は存在するが「怠け病」は存在しない、ということである。あるいは私はこれまでそう言いつづけて来た。人が病気を得ると、そして特に精神科的な病気になると、精神科医が診断を下す間に、真っ先に家族につけられるかもしれないのが、「怠け病」である。

うつ病を考えよう。このごろ何となく気分が乗らない。浮かない。これまでできたことが急に億劫になっている。でもうつの初期はまだ笑顔は出るし、好きなことなら出来る。しかしこれまで義務でやっていたことは急に体が動かなくなるのだ。そこで仕事も休みがちになる。

「なんとなくダルいなあ。今日は仕事(別に学校でもいい)を休んじゃおうか。」すると周囲、特に親や配偶者などのは、「そうやって怠けてるんじゃないの?」という反応になることが多い。

もちろんそれ以外の反応もある。「まあ、あなたらしくないね。仕事を休むなんて余程のことじゃない? 医者にでも診てもらえば?」とむしろびっくりされることもある。このほうはむしろラッキーである。自制心力が強く、頑張り屋の性格の人は、運がよければこうやって優しい言葉をかけてもらえるかもしれない。しかし環境があなたの頑張り屋を当然のものとし、むしろがんばればがんばるほど仕事を任せられた場合、これまでの頑張りは「当たり前」とみなされ、それが出来ないと「怠けてんじゃないの?」となる。あたかも人はいつも怠け、手を抜いてしまおうという願望を常に持ち続けていて、それを実際に満たしている状態が「怠け病」とでも言いたげなのだ。である。だから「怠け病」はその病名を就けられた人ではなく、むしろつけた人の問題をあらわしていると言うわけだ。

「怠け病」はない、という主張はつまり、「怠け病」という言葉を使う人に見られる独特の視点へのアンチテーゼというわけである。もちろん私の立場自体が極端すぎる可能性はある。しかし私にとっては精神科医であるということと、このアンチテーゼを掲げているということは、かなり密接に結びついている。結構この問題に関してはムキにならざるを得ない。

ところでこの「怠け病」とほぼ同義の、ものすごく強い概念がある。それが「甘え」である。土居先生に敬意を表し、「甘え」を基本的にはポジティブなものとするならば、「甘え病」といったほうがより性格ということになる。

では「怠け病」はない、とはどういうことか? それは人は好き好んで怠けるのは難しいということだ。これまで熱心に通っていた仕事を怠けるようになる、とはどういうことか?それは仕事を行う意欲をなくした状態といえる。しかし人は健全な場合は、ひとつのことに意欲や興味をなくすだけには終わらない。興味は別の方向に向かう。それがより安易で快楽的な活動に向かうか、より困難で苦しみを伴うものなのかはわからない。前者はたとえば、しかし普通は「何もしなくなる」(怠ける)方向には向かわない。それはたとえば趣味やゲームに熱中したり、酒や女におぼれるという形をとるかもしれない。もし後者なら突然山に修行に出かけたり、四国にお遍路さんに出かけたりするだろう。いずれもこれらは「怠ける」という風には形容されない。身を持ち崩すとか、突然悟りを開いたり、第二の人生を歩み始めたとかいわれるだろう。いずれにせよ私が言いたいのは、人はひとつの活動をやめても、他の運動やそれにより得られるような快感刺激を求めるのがより自然だからだ。

だからもし純粋に「怠けている」様に見えるとしたら、それはその人の活動レベルが、それまでに高すぎ、いったん休む必要が生じたということになるが、そうなるとこれは怠けではなく必要な「休息」ということになる。

結局「怠け病」といわれる状態はたいていは、欝や身体の不調による活動低下という、それ自体が疾患に伴うものであることが多い。それでも人は活動が落ちて仕事や通学が出来なくなった人々を「怠け病」や「甘え」と真っ先に決め付けてしまう。これはなぜなのだろう?(運よければ続き。)