2010年12月4日土曜日

治療論(いちおう) 18 叱り付けない(続き)

昨日はあんなことを書いたが、それは叱りつけることで大切なことが伝えられることはある。そのくらいはわかっている。人が誰かに何かを伝えたいとき、叱責するということはあるだろう。そこにこめられた気迫、感情、思いといったものがそのメッセージに込められることになる。しかし叱ることには加害的な要素がしばしば加わり、それは不必要な形で人を傷つける。ある人がメッセージを伝えるとき、相手にそれに対する注意を喚起する分だけ、それが確実に伝わる可能性があることになる。叱るということは、つまり大きな声を上げて、相手の過ちを指摘することだが、それにより衝撃を受け、一瞬にして身が引き締まり、場合によっては怒りや悲しみに襲われつつメッセージが伝えられる。おそらくそれが許されるのは、叱る側も叱られる側と同じ痛みを味わっているときであろう。どうしても教え、伝えたい内容が、ゆっくり念を入れ、時間をかけて伝えられる量をはるかに超えている時、人は厳しく叱責しながらそれを伝えることにもなるだろう。そうすることは教える側も、教えられる側以上にしんどい。


いったい親はどこまで子供に時間をかけ、教えるべきか、どこまで叱責が許容されるべきか、ということを、私は神さんが息子に公文の算数と国語を教え込むのに付き合いながら考え続けた。うちの神さんは、アメリカで日本語を知らずに息子が育つことを懸念して、公文の教師の資格まで取り、地元のアメリカ人の子供たちを教えながら、息子を鍛え上げたが、毎日が大変な剣幕の連続だった。しかしこの剣幕は、叱責はやはり愛情と言い換えられるのだろうと思っていた。子供が教えたことができれば喜び、できなければ怒るというプロセスを二人三脚でやってくれる存在からは、いくら怒られても外傷とはなりえないのだろう。

ではこの愛情としての叱責を行える存在は果たしてどの程度いるかといえば、それは人生を通じてごくわずかなのだろう。そしてそれ以外の大部分の叱責は、ナルシシズムやサディズムの混入を免れないのだと思う。