2010年12月15日水曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その9

実は怠けかどうかの議論が一番難しいのが、引きこもりの問題である。最近の傾向としては、引きこもりの人のかなりの部分がネットでゲームをするようになっている。私は少し前までは、「引きこもり≒怠け病」派であった。国際医療福祉大学が主催している市民講座「乃木坂スクール」で、和田秀樹先生と私は5年ほど前に精神医学の講座を企画したことがあったが、その中の「引きこもり」の講座の中で、私はこんなことを言った。「引きこもりの人は、インターネットを取り上げてはどうか?そうしたら彼らが部屋から出てくることに少しは貢献するのではないか?」
今から思い起こしてもいささか単純すぎる議論ではあるが、私はかなり本気だった。私もかなり過激な意見をもっていたのだ。
するとそのときに講師をお願いしていた斉藤環氏は、その意見に異を唱えた。彼に言わせれば、引きこもりからネットをとってしまうと、何もしなくなって廃人のようになってしまう、ということであった。彼に言わせれば、引きこもりの人は、決してゲームが楽しくてやっているわけではない、仕方がないからやっているというのである。そして少なくとも、ネットを取り上げることは、引きこもりを部屋から誘い出すことにはならない、と語った。私はその頃、パチンコ依存症さえも病気として捉えず、一種の甘えとして捉える傾向があったので、大きく考えを改める必要があった。
さてそれから、ネット依存の話題が出るようになった。いわゆる「ネトゲ廃人」などについても深く考えさせられるようになり、またしばらくぶりに斉藤先生と話をする機会が訪れた。そこでまた数年前と同じ質問をぶつけると、彼の返答は少かわっていた。彼はネットへの依存症が見られる場合には、ネットに関わる時間を制限するという方針を示した。これもまた納得がいくものであった。
つまりこういうことである。引きこもりが、ある種の中毒、嗜癖を維持するためのものであるなら、それは許容されるべきではないということだ。これはロジックとしてはすごくわかるのである。それにおそらくネットゲーム中毒になっている本人も、もしそれが引きこもりの主たる原因になっているのであれば、それを取り上げられることをアンフェアとは感じないだろう。
ちなみにネットゲームの場合には、その依存症を効率よく治療する方法は、理論上は存在する。それは、ポイントがたまったり、先の段階に進むにつれて、内容がつまらなくなるようにゲームを作っておくということだ。私も実際にやっていないので頓珍漢なことをいっているかもしれないが、ゲームはそれがどんどん先の段階に進むことが興奮を生むために、やめられなくなるということが生じているはずだ。新しい武器を獲得して、次第に高いレベルの力を駆使してより強力な敵を打ち負かし、より大きな満足を体験する、というように。進めば進むほど面白いからこそ人はそこにのめりこむのだろう。だとすれば、進めば進むほど武器が貧弱になり、アホらしくなってきたり、あるいは一定の段階でもうゲームオーバーになってしまうような仕掛けを作っておけば、深刻な嗜癖は抑えられるのではないか。ちょうど飲めば飲むほど味が薄くなるウィスキーのようなものだ。あるいは金儲けをすればするほど税金を取られてしまい、しかも脱税が出来ないような仕組みのようなものである。後者はどちらも実現するのは難しいだろうが、ネットゲームの場合はその内容を法律で規制することで、いわばゲームの「射幸心」を制限するというわけである。(もちろん裏ゲームというのもどんどん作られるだろうが。)
脱線を元に戻すと、引きこもりの場合は、それが怠けかどうかは、引きこもりがそれ自体苦痛なのか、むしろ安楽だったり快楽的だったりするかにより、それが「怠け」の類として理解するべきかが決まるということである。当たり前といえば当たり前かもしれないが。そして私の基本的な立場は、普通の引きこもりも、現代型のうつも、それ自体は基本的に苦痛をもたらすものであるというものなのである。