2010年12月9日木曜日

シリーズ 「怠け病」はあるのか? その4

(承前)
このように考えると、「怠け病だ」という糾弾は、日本人のきまじめさ、勤労精神に反する行為に向けられるのであり、つまりは日本人の勤勉さの表れ、ということになるだろう。ただそれだけではない。仕事を休む人に向かって「それは怠け病だ」という人の中に、私は一種の悪意さえ読み取る。否、悪意とまではいえなくても、ある種の怨嗟の念を感じる。「みんな真面目に働いているのに、なぜあなただけそれを免除されるんだ!」 というわけだ。自分だって苦労しているのだから。確かにこのロジックは強力だ。社会生活の中で、このような主張は常に勝つことになる。それも日本だけではない。
さて「怠け病」といわれる本人の体験はどうか?これが実に複雑なのだ。たとえば今日は朝から何となくだるい。熱を計ると36.9度。ビミョーである。何となくのどに鈍痛があり、風邪の引きはじめという気がしないでもない。そこで職場に電話を入れて、今日は休ませで欲しいと告げる。すると上司が「君に休まれるとこまるんだよ。みんな頑張ってでてきているんだよ。」「・・・・・・・・」「どうしたの、よほど具合が悪いの?」「家、熱が少し・・・・。といっても7度はないんですけれど・・・」「何だ、そんなの病気でもなんでもないよ。怠けじゃない?」

そう言われたあなたは、本当にこれが甘えではないか、といったんは思うのだ。自分はなんでもないことをさも大変そうに言って、楽をしようとしているのではないか?自分のいつもの悪い癖が出て、手を抜こうとしているのではないか?
私たちの大部分は、日ごろの仕事や勉強を半ばいやいやながら、それでも自分に鞭打って行っているというところがある。よほど好きでやっていることでもない限り、私たちの日常の活動は、半ば義務感で、そしてある程度の楽しみも感じつつ行っていることばかりである。サボりたい、休みたいという願望と、手を抜くな、頑張れ、という声の両方を聞きながら何とか義務をこなしているのだ。
仕事ではないが、義務という観点からダイエットをする時を考えよう。読者のほとんどが何らかの経験を持っていることと思う。少し気を抜くとすぐ一日のカロリー摂取量が増える。するとそんな自分を叱るもうひとつの声が、「気を抜くな」という。これらの両方の声に揺れ動きながら私たちはダイエットを続けている。だから「手抜きではないか?」、「サボりではないか?」という考えはいとも簡単に私たちの心の中に響き、それに同一化しようとする。そしてほとんどの場合、「怠けだ」「甘えだ」、という声は正解である。いつも自分を両方向から引っ張る声のひとつだからだ。そしてほんの一部は、不正解である可能性がある。休みたい、しんどい、という願望は「怠け」ではなく、それにしたがって仕事を休まないがために心身に負担が及ぶ。こうして本物のうつが進行していくのである。