2010年11月16日火曜日

中国の工作員はつまり、「国家公務員」なんだと思うと、少し納得がいく

昨日の相撲で、連勝街道を突っ走っていた白鳳が破れたときの町のインタビュー。「生粋の日本人の力士である稀勢の里が連勝を止めたのは、それなりにうれしい」、という意味のことをいった人がいた。これは少し意外だった。私はそんなことぜんぜん考えたこともなかったのである。まあ、言われてみればそれはそうかもしれない。しかし私はむしろ白鳳があれだけ流暢に外国語としての日本語を勉強し、「昭和の大横綱双葉山をめざして・・・・」などというのを聞いて、外国人なのにこれほど日本を愛してくれて本当にありがたいと思っていたのだ。「日本人の力士がモンゴル人の力士の連勝を止めてよかった」、というのは少し了見が狭い話である。たとえば移民の国アメリカでは、まったく考えられない発想だろう。

さてどうしてもこだわってしまう中国の話。9月10日のブログでサラリーマン川柳の「カミサンを 上司と思えば 割りきれる」を紹介したが、これを思い出させるような発想を得た。中国で盛んに日本を挑発するデモの首謀者なども、要するに政府からお金(あるいはそれ相当の見返り、報酬)をもらって政府の策動に協力している人たちの筈だ。彼らもそれで生活を潤しているのであろう。特別日本が憎いのではないかもしれない。そう思うと、見方が違ってくる。そこで「半日デモの首謀者も、国家公務員と思えば割り切れる」(字あまり)
彼らの任務は政府の方針に従って、一市民を装って反日本のデモを行なう。政府(というよりは軍?)の合図によりデモを集結させ、おとなしく暴れ、合図と共に解散する。彼らにとってこれはビジネスであり、スパイ活動などと呼ぶには大げさすぎる。日本でも学生運動が華やかなころは、デモ隊を抑える国家公務員としての機動隊とよく揉みあいを起こした。ところが中国の場合は、デモをする側も、それを押さえる側も、ある意味では両方が国家公務員であり、双方が国の決めたシナリオどおりに動いているということになろう。そしてその限りにおいてはこの国家体制は結構持つのかもしれない。
私はずっと中国は人民が立ち上がり、一党独裁が打倒され、一皮も二皮も剥けないと、とても近代国家にはなれないと思っていた。しかしこのネット社会に「革命」はもう起きようがないのかもしれない。革命の原動力になるのは抑圧され、貧富にあえぐ人々だったのであろうが、今の中国では、最下層の人々の生活レベルも劇的に向上しているのではないか?(この辺事情を知らないから自信がないが。)世界全体がこれほどグローバル化し、人や情報の交流が加速した社会では、「途上国」は革命を待たずに一足飛びに近代化を成し遂げるということもあるのではないか?ちょうどドライアイスが液体の相を経ずに気化(昇華)するように、中国の人民も今徐々に昇華しつつあるかもしれない。何しろ北京の通行人に西側のメディアがインタビューできてしまうのだから。10年前はこうではなかったはずだ。賭するとこれはひとつの実験かもしれない。経済の自由化とメディアの規制、巨大な私服機動隊の組織、というのはその未曾有の実験を成功させるための舞台装置なのではないか。
ただし以上の考えは、中国国家や人民の一連の動きが、ことごとく計算されていた場合である。しかしそこで計算されていない要素もたくさんあるだろう。軍の内部での内部抗争、党内での覇権争い、そして反日教育の「成果」など。教育を通じて日本に対して植えつけられた憎しみは、きっと本物だろう。だからこれらの要素が計算外の動きを見せる可能性はいくらでもあるといっていいのではないか。
これはおそらく中国との外交に対する考え方を根本的に変える必要を意味している。変に感情的にならず、穿った見方が必要かも。分析で言うところの「解釈」に似た介入をするのはどうだろう?

「中国の一部の人々の反応は実に不思議である。日本に対する怒りの根拠はあまりないにもかかわらず、あれほど怒っているように振る舞っている。でも当局が来ると非常におとなしく従うところを見ると、やはり真剣には思えない。」

「温家宝首相は、左手が麻痺したようである。日、中、韓の首脳同士の握手というあれだけ大事な局面で、左手をダラッとたらしたままだった。」

「一部の中国の人民が、日本に対する憎しみを持つのはもっともな話だ。日本があれだけひどいことをしてきたという教育を受けた人は、誰でも怒るだろう。それだけ中国の教育体制が行き届いているということだ。」

「中国ではメディアの規制がひどすぎて、胡錦濤国家主席でさえも尖閣諸島のビデオを見る機会がなかったらしい。菅首相はメモを見てたどたどしい挨拶をするくらいなら、一緒にビデオを鑑賞するべきではなかったか?」

だめだ。これでは逆にかの国を「いたずらに刺激してしまう」結果になりかねない。