2010年11月2日火曜日

治療論 その5. 「自分が患者の立場なら何を望むか」から出発する

昨日テレビでこんな話を耳にした。「最近アメリカで開発された新しい治療の技法で、認知症の患者さんがどんどん改善しているとのことです。」私も「へーえ、すごいな。どんな技法なのだろう?」とさらに聞いてみると「それはバリデーションというテクニックです。」という。でもそれって、テクニックというより・・・・・・。バリデーション validation (~を正当なものとすること) とは、相手の話を真正面から受け止め、肯定することから出発することだ。認知症の患者さんに限らず、あらゆる治療において非常に大切なことである。しかしこれを「新しい治療技法」としてアメリカから後生大事に輸入する必要などどこにあろうか?でもある意味では、外国で開発された最新のテクニックとしてありがたく取り入れることが、結果的にいいのかもしれない、と思い直した。今日の話はそれと少し通じる。

まだアメリカで留学を始めて間もないころ、今の同僚の和田秀樹先生とは、一緒にたくさん時間をすごしたものである。20年近くも前のことだ。あるとき先生がこんなことをおっしゃった。「自分は治療をするならクライン派的にやると思うけれど、受けるならコフート派的な治療がいい。」このことをよく覚えているのは、ある意味ではこれが精神分析理論を学ぶもののひとつの素直な考えだと思ったからである。
和田先生はそのころアメリカでコフート理論を学び始め、その魅力に取り込まれ始めていた。しかし彼は日本ではクライン派の先生からスーパービジョンを受けていたという事情があり、クライン派的な考え方に慣れ親しんできた。彼の中でちょうどクライン派からコフート派へと視点が移行し始めていたころだったのだろう。彼はそれから帰国して、わが国のコフートの代表的な研究者の一人として活躍していらっしゃるが、彼の言葉がヒントになって、この表題に述べたことを考えている。
こと心理療法に関する限り、治療者が目の前の患者に同一化し、その患者だったらそう扱って欲しいような仕方でその患者を扱うことは、その治療指針の最たるものだと思う。迷ったらそれを考えたらいい。ただし必ずしも同じ扱いをする必要はない。ただそこを出発点と考えるということだ。
さてこのように但し書きをつけて用心をしても、すぐさま反論の矢が飛んでくるものだ。その代表的なもの。
「もし自分が治療者だったら支持的に扱ってもらいたいかもしれない。でもそれが自分のためにならないとわかっていて、ほんとうなら厳しい直面化や解釈をしてもらうべきだろう。だから自分なら後者を選ぶのだ。だからこの主張は間違っている。」
でもこれは少しおかしな論理なのだ。
もしこれが事実だとすると、目の前の患者さんの気持ちに成り代わったときに思うことは、「それは支持的に接して欲しい。でも実は厳しい直面化や解釈が必要だということもわかっている。」これは言い換えるなら、「本当は支持的なだけでなく、直面化や解釈も忘れないで欲しい」となる。そして治療者はそのような理解を「出発点」とすればいいことになる。
これは結局単なる支持的なかかわりとも、厳しいだけの直面化とも異なるかかわりをすることを治療者は選択するべきであるということを意味している。それは患者の側に潜んでいるアンビバレンスにも働きかけるということだ。そしてこの点を理解して伝えることは、単なる支持や、直面化を超えた力を持つ可能性がある。
何か私の提言は当たり前すぎて平凡すぎるものに思えてきた。でも実はこんな単純なことを思いつかない治療者があまりにも多い気がするのである。そうでない限り、精神科医や心理士との治療体験を外傷的なものとする人がこれほど多いという説明がつかないからである。