2010年11月8日月曜日

フランス留学記(1987年) 第八話  パリ最後の夏(4)

留学記が終わりそうで終わらない。といってもあと1,2回分ある。チエリー(登場人物)もすっかりオヤジになっているだろう。最後に会ってから20年以上経っているのだ。それにしても生命はどうして老いていく運命にあるのか?そんなしょうもないことを考える。
ほぼ毎日更新のブログを半年続けてみて、自分なりに使い方がわかった気がする。今後もおそらく・・・続けようと思う。しかしこれでもあくまでも試験的にやっているだけである。

7月も終わりに近付き、パリの病院での生活もひと月を割ってしまった。滯在許可証 carte de séjour が切れるのは 9 月の半ばであるが、8月の末にはアメリカへの旅行を計画しているし、9月に入れば帰国の準備に追われて何も出来ないだろう。
依然病院での活動にはやっとのことで参加している、という感じである。患者を担当させてもらっている、ということは私もそこの一員として認められているんだな、という確認作業を何度も繰りかえす。それにその仕事にしても7月から就任したアンテルヌのテイエリーに大分依存している。この26歳の秀才の医師と私はかなり親しくなったが、同時に私は彼を大分困らせたようである。彼は病棟で患者の担当医を決める役割を任されていたが、私は患者を常時二人は担当させて欲しい彼に要求したし、その扱いに関しては自分の考えをかなり通させてもらい、余り妥協をしなかったからである。内科のアンテルヌである彼は、純粋に精神医学的なことで私の判断より上回ることは余りないように思えたからである。彼との毎日の関りでも私はまたいろいろ考えさせられた。
ティエリーはケベック出身で、今から10年前、16歳でパリに来たのだが、私が身近に接した中で誰よりもパリジャンとしての際立った性質を持っていたと思う。人文、社会科学にわたる広い知識、そして何よりも豊富な医学の素養、そしてそれをもとにした強引な議論の仕方。またあらゆる議論にも無関心ではありたくない、というある意味でのふところの広さ。フランスでは医学生は学部の6年のトレーニングを終えた後、アンテルヌとして数ケ月ごとに各科を回り、そこで第一線に立って活躍する。そのせいか彼等は身体疾患に対する扱いについての経験を豊富に持つ。精神科に来る前は産婦人科、救急病棟にいたというティエリーは精神科に来てからもまもなくその活動の中心となった。私は彼が病棟の仕事を殆ど独占しかねなく、油断すると私の仕事まで奪い兼ねないのがちょっぴり不満であった。自分では半人前だと分かっていながらである。

病棟で何らかの仕事を少しずつ与えられながら、私の頭を結局最後まで去らなかつたのは例のことであった。私がその病棟にいる、ということがそもそも傍迷惑ではないのだろうか。勿論このようなことを考えていては何も学べないということも同時に分かつているのである。しかし私が結局は帰国の日を毎日数えながら、朝はいつも憂舊な気分で病院に向かったとすれば、このことが一番大きな原因のような気がする。病棟で患者を担当することはうれしかったが、私に担当されては迷惑ではないか、という気がどうしても先に立つ。私がフランスで正規の資格を得て勤務するのであればまた違うのだろうか。自分に問うてみると、病院での活動の動機は余り純粋ではない。もしこれを数年続ける、としたら逃げ出していたかも知れない。ここまではやれた、ということを自分に対する既成事実にして、後はさっさとパリを去ってしまいたい、という気持ちが確かにある。これでは結局は自己満足に過ぎないのではないか。しかしまた病棟で患者を少しずつ担当していく中で、私は私以外には出来ない、と思う仕方で患者と接することが出来たと思うことも少なからずあつた。病棟での活動に思うようについていけないことからくるフラストレーションは患者との面接の後にはある程度軽減される事が多かった。(続く)