2010年11月19日金曜日

治療論 その12 (11の続き) 治療者の話し方は、少なくとも「上から目線」をやめれば、「普通」に近づく

治療者は患者と「普通に話す」という教えは、ドクター・ベナルカザール(以下、ドクターB) という私のスーパーバイザーだった先生の影響である。「僕は患者とは普通に話すよ。今君と僕とが話すようにね。」というのを聞いて、ちょっと衝撃だったのを覚えている。10年位前の話だ。この経緯はどこかで書いたと思うが、「治療者が患者と普通に話す」という彼の言葉にインパクトを受けたということは、いかに私が「普通に」患者と話していなかったかを表していると思う。
ドクターBは私より10歳以上年上の精神分析家、20年以上前に留学した当初から知っていた。当時はメニンガーで若手のホープとされていた。ドクターBはそのころから留学が終わるまで断続的に私のバイザーだったわけだが、私がアメリカで最初からざっくばらんに話ができた数少ない人であった。それはなぜだろう?と考える。 ひとつには彼の非常にあけっぴろげな性格である。彼は誰でも分け隔てなく声をかけ、親しげに話した。大変な碩学、哲学に特に造詣が深かったが、ぜんぜん気取って見えなかったのは、彼がベネズエラ出身の外国人で、スペイン語訛りの聞き取りにくい英語を話していたということもある。英語が流暢でなく、上背もなく、あまり風采も上がらない分、留学生の私もそれだけ同一化出来る部分が大きかったのだ。
ドクターBと話していてつくづく思ったのは、英語が「タメ語」であるということだ。英語では、身分や立場の差を越えたお互いの素のコミュニケーションの部分が表現されているというところがある。日本語の助詞や敬語の部分は、言葉の「尾ひれ」という感じだが、それを剥ぎ取った言葉のやりとりが起きるのである。だから他人とのコミュニケーションのやりとりは簡素であり、直截的である。たとえ子供と話していても、年上と離しても、ある種の同様の「質」を感じる。それは普通さであり、普遍さ、と言える。「普通に話す」「普通に聞く」は英語というコミュニケーションを用いることによりさらに保障されるというところがある。
ドクターBとの会話が最初から気楽であったひとつの原因は、それが英語というタメ語であり、こちらに特に圧迫感を与えてこなかったというわけだが、もちろん英語を話していても、相手がお高く留まっていたり、威圧的であったりすることはある。その人の声の調子、対手に対して取る態度、などにそれは表れるだろう。ところがドクターBの態度や外見には、決して気取りがなかった。そしてその結果として彼の話し方は「上から目線」ではなかった。それがよかったのである。そう、普通でない話し方の一番の犯人は、上から目線、なのである。
しばらく前に、日本語はそれ自体が上から目線であると書いたが、日本の心理士さん達はそれをよくわきまえ、言葉遣いに気をつけ、患者さん達に非常に丁寧な言葉を使う傾向にある。私はそれ自体は非常に大切なことだと思う。彼らは具体的なケースについて同僚の間で語るときも敬語を用いる。「●●さん(患者さん)はセッションでこうおっしゃった」というような表現を聞き、私は最初は丁寧すぎて慇懃無礼ではないかと思ったほどだが、最近は耳が慣れてきた。
しかし心理士に比べてかなりその種の配慮が欠ける医師の場合、彼らの「上から目線」の弊害はかなり大きいと感じる。カウンセリングを受ける方々が、それ以前の精神科医とのコンタクトで外傷に近い体験を持ったという例は非常に多く聞かれる。その主たる理由は、医師の持つ様々な権限から来るのであろうが、医師の対応が「上から」であることに拍車をかけるのが、彼らの多忙さである。5分で一人の患者をこなす必要がある際、丁寧な挨拶など事実上できないではないか。彼らが「上から目線」を反省して丁寧な応対をするように心がけていても、短時間に多くの患者をさばかなくてはならないという状況が変わらない限りは、結果的に彼らの態度をぞんざいなものにしている。医師の「上から目線」の問題はかなり根が深いということになるだろう。