2010年10月3日日曜日

精神分析 その2.

ルモンド紙に掲載されたという記事 (YOMIURI ON LINE:1日発行の仏紙ル・モンドは、中国が、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件をめぐる一連の対応で、「粗暴な大国の顔をさらした」と批判する社説を1面に掲げた。)は胸のすく思い。米国のメディアに関しても同様の報道があった。

私は精神分析との長い長い縁が続いている。正直30足らず前に出会ったときは、こんなに長くなるとは思わなかった。渡米中は、何度も忘れかけたことがある。しかし結局はそれに関係した考察を発表し、その立場からの発言を求められることで今でも関係を保っている。

この間は、フロイトによる精神分析を地動説に基づいた「天文学」などと書いたが、悪気はなかったのだ。フロイトは100年以上も前に精神分析を創始したとき、人の心を理解し、救うための手段としてそれを用いることが出来ると考えた。その一途さは頭の下がる思いである。私も人の心を助けるための対話のメソッドを知りたい、あるいは作り上げたいと考えるし、その熱意はフロイトに負けないという自負がある。

フロイトにとって精神分析とは、患者の心に潜む願望を明らかにすることだった。人は心に様々な願望や衝動を持つ。それを知ることでその人は変わると考えた。人の心には隠された願望があり、それがその人を知らぬ間に突き動かしている。それを知ればその人は変わる。実にそのとおりに聞こえるし、現代にも通じそうな理論だ。だから後は人の心を分析して、その願望を見つければいい、とした。その手法が精神分析だというわけである。

フロイトの理論のどこかが間違っていたのだろうか? ここから話は急にややこしくなっていく・・・・。