2010年10月26日火曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(1)

昨日は神さんの●●回目の誕生日であった。その時私の昔のフランス留学の話になった。彼女はその一部に参加していたのである。(それが今回の留学記第七話(1)だが、読み返してみると、そんなこと一言も触れていない。)そして改めて彼女が理解できなかったのがその留学の動機だった。業績のため、でもない。観光、でもない。何それ?というわけである。つくづく人間は(私は?)理由の明確でない動機にしたがって行動するものである。それにしてもどう考えてみても時間や努力の無駄遣いだったこの一年・・・・。それでは後悔するかといえばそんなことはない。後悔したら、それこそもったいない。何らかの形で自分の一部になっていると思うしかないのである。

研修先の病院を代わる機会を利用して、私はちょっと長いヴァカンスをとることにした。考えてみれば去年の秋に渡仏して以来、パリに腰を据えたままで、郊外はおろかパリ市内の見物さえ満足にしていない。日曜はポンピドゥーセンターの図書館に行くが、それ以外は来る日も来る日もネッケル病院に通っていた。私にしてみれば余り病院にとって役に立たないのに、その上休み勝ちだったら申し訳ない、という気持ちがある。しかしヨーロッパの中心にいながら周辺の国に足を向けないのも如何にも惜しい気がする。「ギリシャまでバス旅行1000フラン(約2万5000円に相当)」などという広告を見ると、改めてパリにいることの利点を感じさせられていた。私はこの際かねてから考えていたドイツ旅行に出てみることにした。
モンパルナスの駅で、ストラスブール経由の、ミュンヘンまでの往復の切符を座席指定も含めて買ってしまい、私は5月の始めに手軽な鞄ひとつの旅に出た。パリを離れるとすぐにそこから限り無く広がっている、という感じのフランスの田園風景を数時間楽しみ、フランスとドイツの国境にあるストラスブールに着く。長い歴史の中で、フランス領になったりドイツ領になったりしたところだ、と聞いている。そこには一緒に留学した給費生のH夫妻が住んでいるので御邪魔することにしていたのである。
H夫妻は私が考えていたよりも遥かにフランスでの生活に苦しんでいた。H氏は時々大学の生化学の研究所に通う他は、専ら家で身重の奥さんと時間を過ごしているとのことだった。二人ともことある度に日本は良かった、一刻も早く帰りたいと言い、また他方でフランスへの痛烈な批判を辞さなかった。H夫妻は7ケ前にフランス生活の開始時にパリを訪れ、私はそのとき知り合ったのだが、その時の彼らの夢を見ているような表情を思い出していた。人が思うほどフランス留学は華やかではない。
翌日からドイツのミュンヘンでの数日間は、私のヨーロッパ滞在の中でも特に楽しい日々となった。ミュンヘン中央駅に降りた途端にそこにはパリと違った清潔さと秩序が感じられた。ホテルでも売店でも、そして親しげに話し掛けてくる人々もパリジャンの冷たさとは非常に異なった印象を受けた。このことはパリに滞在中の、ドイツに旅行した経験のある人々から環繁に耳にしていたことであるが、それを現実に体験して私は少なからず驚いた。勿論私がドイツ人にとって特別の意味を持つ日本人である、ということはある。彼等もまた特定の民族、例えばトルコ系の人々に対して少なからず人種差別の傾向を持つことも指摘される。それに町の印象にしても、ミュンヘン自体がどちらかといえば田舎の小都市であり、人口も少なく、人々があくせくすることがない、ということも考え合わせなくてはならない。しかしそれでもやはり彼等の人との接触の仕方にはパリ人にない暖かさがあった。わたしはパリにではなくミュンヘンに滞在することになっていたら、私が毎日味わうフラストレーションの多くは解消されただろうか、と考えた。
私はいつもの出不精を返上してガイドを片手にノイエ、アルテピナコテーク(新、旧美術館)、オリンピツク塔、ドイツ博物館、マクシミリアン通り等を駆け回り、名残り惜しい気持ちで夜行でパリに戻った。(続く)