2010年10月25日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しはにわかに明るくなった(後)

留学記、もう少し積み残しがある。

4月の終わりに、私の留学生活の中では比較的大きな変化があった。幸か不幸か4月いつばいで私はネッケル病院の外来を離れ、その近くにあるライネック病院の精神科病棟に行くことになったのである。同病院の精神科はネッケルとは反対に病棟のみで外来がなく、ネッケルの外来とは非常に近い関係にあり、教授(資格者)のドゥブレ医師やサイコロジスト達は同病院と兼任であった。ネッケルを去るといっても週3回は午後に通つてフーション医師の診察に立ちあうつもりであるが、デイホスビタルの患者の担当は他の医師に代わることになる。
私はネッケル病院からライネック病院に移ることを指示されたとき、余り気が向かなかった。それは結局ネッケルで自分が満足の行く形で活動することが出来なかったことに対するこだわりが大きかったからである。短期間の留学生、という身分で一体何をこだわっているのかと自分でも思うが、もう半ば意地のようなもので、とにかく病院で夕方まで過ごすことのみを考え、フランスの精神医学一般についてあちこち見学するなどして広く見聞を広める、などということはあまり望まなくなっていた。しかし他方では少なくともフランスの精神科の病棟の様子を少しは知っておきたいとも思っていたので、却ってこのライネックへの研修場所の変更は歓迎すべきことであった。
ネッケルを後にするに当たって、この7箇月の間に自分はどの様な形でここにいたのであろうか、と考えてみる。確かに何時の間にか病院に通うことがさほど苦痛でなくなっていた。一週間病院にいるうちに何度か訪れるストレスの種となる状況を、結局はあるものは切り抜け、あるものは回避して来たことになる。
私にとって最も苦痛で、しかしその克服が大きな希望ともなっていた、人前で話すことについてはどうか。これは何度かの経験を通じてそれほど苦痛ではなくなって来ていたが、それはそれなりの準備をして臨むからで、さもなくば立ち往生になって仕舞うかも知れないという恐怖はいつも感じていた。例えば映画について語り合う会で、私が見て来た映画を簡単に要約して伝えたいとする。私はパリで多少なりとも話題を呼んでいる映画をなるべくその会の前日に見に行き、既にその時点でフランス語で内容を要約する場合のキーワドを捜しておく。更にそれからその1、2分ほどしかかからぬ要約を少なくとも3回ほどは予め言ってみるのである。もしそうしなければ、実際その会で話す場合に基本的な表現が出ずにちょっとしたパニックに陥る可能性はいくらでもあるからである。
デイホスビタルのミーティングでの患者の紹介などをする時も同様の用意をするが、その場合は表現のしようのないことは別の内容に置き替えることが出来そうで、少しは楽である。しかし結局いつも最悪の状態にならないように気を張っていることにはかわりない。 
デイホスビタルでの患者との面談の際の抵抗は、それほど感じなくなっているが、それも相手による、というのが正直なところで有る。また患者本人との面談ならまだ良いが、例えばそれを気遺って面談を求めて来るその両親との面談となると、さすがに気が重い。私がライネック病院に移るといっても、誰も特別名残りを惜しんでくれるわけではない。それだけ私の影が薄かったわけであるが、そもそも留学生は研修場所の動きが多く、その役割も診療に直接関わる、というよりは見学生というニュワンスが強い事から、アンテルヌ、エクステルヌたちの就任の時の様にいちいち歓送、歓迎会をしたり特別の挨拶の場を設けたりはしない。だから留学生は皆突然病棟に来るようになり、多くは黙って去って行く。
私も何人かの特に世話になった医師に挨拶をしただけで特に誰に引き留められるわけでもなくネッケル病院を去ったわけだが、一人だけはっきりとそれを残念がってくれる人がいて、少し救われた気がした。彼はジャコブといい、二月からもう一人の医師と共にアンテルとして私達の科で働いていた。年は私と同年輩、精悍な顔つきでアラブ系の血が若干混じっていると思われる黒い髪と浅黒い肌が特徴的だった。私と彼とはここ二箇月ほどのうちに急速に病棟で一緒に行動するようになっていた。といっても主として彼の診療に私が付き添うだけである。もともとは週二回の彼のギャルド(日直としてその日の予約外の新患を担当する役目)の見学をすることを私の方から頼んだのであるが、そのうち彼は私がそれ以外の彼の診療にも付き添うことをはっきりと私に要求するようになってきたのである。彼は一般医のアンテルヌとして精神科に回って来たせいもあり、精神科の専門的な知識に関しては私の方が詳しい場合もあり、彼の診療の後に私に意見を求めて来ることがよくあつた。
ジャコブはよくも悪くも率直で、熱心な反面その振舞いに若干繊細さが欠けるところがあった。その患者との話し方は勢い患者に対する説得、指導といった傾向に傾きがちで、彼が近頃急に興味を示し出しているという精神療法的な面接を行なっているというには余りにも中立性や受け身性に欠けている気がした。それでも私は彼の熱心さが特定の患者の心を引き付け、そのはっきりとした指示的な態度が患者の症状の改善に役立っている様子を目にする場合があった。
ジャコブの診療に立ち会うようになってしばらくして、彼がネッケル病院の専属の精神分析家のプラックス氏の少人数の症例検討会にその様なケースの一つを出したことがあった。プラックス氏はジャコプの報告を少し聞いただけでその診療内容をすぐに察して、「それでは第一精神療法にすらもなっていないようだね。」という内容のことを言った。その意味をはかりかね、絶句して仕舞っているジャコブを横で見兼ねて、私は「確かに彼の態度には中立性は感じられないけれど、彼の診療に対する熱意は患者との陽性の転移関係を成立させていると思います。患者の生活態度の改善を週ごとに追ってみると、その生活目標を積極的に与える事の意味を一概に否定は出来ないと思います。」という意味のことをかなり苦労しながら言った。それを切っ掛けに少なくともプラックス氏はその批判的な語調を緩める結果になった。
ジャコプはその症例検討会が終わった後、私に握手を求めながら、「ケン、さっきは誉め言葉を有り難う。」と言って当惑する私を残して陽気に部屋を出て行った。私はその「誉め言葉compliment」という言葉を聞き、彼は今し方検討会で交された内容の真意を少しも分かっていないんだな、と感じた。その時から彼は事有るたびに私に半ば強引に彼の診療に付き合うよう求め、また彼の不在の時に私が代わって患者を見ることにしてしまった。彼は病棟でも暇さえあれば多くのガールフレンドの仕事場に電話を入れる、という癖があったが、それにさえも私を付き合わせることもあった。彼の時に一方的でアグレッシブな態度は病棟で皆の賛意を必ずしも得られていなかったため、何でも彼に付き合う私という存在は彼にとっても都合が良かったようである。それでも私は心からジャコプの気持ちを嬉しく思った。私の存在を特に認めてくれると感じられる人が殆ど誰もいなかく、いつも手持ち無沙汰にしていただけに、「君は言葉はまだまだだが、なかなかいいところがあるじゃない。」などと言って引っ張り回してくれる存在は感謝仕切れない程に有り難かった。彼のお陰で3、4月と病院での活動範囲がにわかに広がったような気がしたものである。
4月の末のある日、医師控え室でギリベール氏が私にライネック病院で人が足りなくなって来ているからさっそく行くように、と一方的に言い渡した時、たまたまそばにいたジャコプは不満そうな顔をして、ギリベール氏に「それは余りに急じゃないですか」と言い、当惑している私に代わってその真意をただしてくれた。私はそういう彼の複雑な気持ちが分かり、同時にとても嬉しかった。私がいよいよ明日からはネッケルに来なくなる、という日、ジャコプはやって来て私の顔を正面から見据え、「ケン、僕はサイコセラピーが出来ているよね。」といきなり詰間するように聞いて来た。私が「君のやっていることは広い意味でのサイコセラビーだと思うよ」と言うと、彼は始めてにっこりして、私に別れの握手を求めて来た。