2010年10月17日日曜日

フランス留学記(1987年) 第5章「喋りたい、喋れない」(後)

今日は表参道の「こどもの城」で対象関係論セミナー。北山先生、藤山先生の講義の司会であるが、つくづくこの日本を代表する分析家の講義の充実ぶりに舌を巻く。仕事が終わり自宅まで歩く。半袖でも肌に心地よい風を楽しむ。それにとってもウイニコットという分析家。お二人の講義を聞いてその奥深さを痛感した。


(承前)ネッケル病院での実習をしながら、私はよく学生時代の病院実習のことを思い出した。医学部の三年、四年になると学生はそれぞれ自分の興味があったり苦手だったりする科の実習を、都内の病院でさせて貰った。私は四年のときある病院の産婦人科を回ったが、妊婦の腹囲を測るのでさえ満足に出来なかった。それはまだプロでもなく、患者に責任のない私が、おっかなびっくり、しかも患者にそれと悟られる事なくすることに対する一種の恐怖からであった。一緒に回ったクラスメートは比較的抵抗なくそれをこなし、既に一人前の医師としての雰囲気を持っていた。私はひそかに正式に医者になってもこの小心さを克服出来ないのではないかと思い、憂鬱になったものだった。しかしこれは杞憂に過ぎなかったことが後で分かった。一人の患者についての責任を主治医として負うことは、それが避けられない自分の仕事となった場合は、一方での苦労と同時に満足感も与えてくれたのである。
病院で患者を直接診療したい、でも一方では自信がない、喋りたい、でもそれが恐い、といつた葛藤は、パリでの生活の中でも最もつらい体験と言えた。一方ではファティマは活動の範囲が広がり、またギリベール医師も彼女には種々の仕事を言い付けるようであり、これがまた私の自尊心を変に傷付ける。朝目が醒め、今日も病院に行くのかと思うと憂醫になる。しかし病院に通うのを止めてしまうことはもっと屈辱のようで耐えられなかった。もしこのストレスが自分の忍耐の限界を越えているとしたら、テレンバッハの「レマネンツ状況」のようなことになり、このまま欝になって朝起きられなくなるのかも知れない、などと考えたりした。これからずっとここに滞在して医者をやろうというわけでもなく、せいぜい一年の研修というのに、何をこだわっているのかと自分でも思った。しかしどうしても病院での不適応は、全て引っ込み思案な自分の性格のせいのような気がして看過出来ない。他方では、日本にあのまま居たならばこの歳でいまさら自分の性格についてあれこれ思い悩むこともなかったのに、などと思ったりもした。
しかし結局私には思ったよりエネルギーの余裕があったようである。私はある日ギリベール医師に、どうしてもっとやる事を与えてくれないのか、と詰め寄った。きっと私にしてはすごく怖い顔をしていたのだろう。ギリベール医師は、それを聞いて意外といった顔をし、「少しは自信がついたのかい?」と言った。「自信は余りないけれど、何かをしたいんです。」ギリベール医師は当惑した顔をし、それでも考えて置こう、と返事をしてくれた。そばで一部始終を見ていたファティマが呆れたように、「馬鹿ね。自信がなくても、有るって言うのよ。あたしはそう言ったからうまく行ったのよ。」「でも自信がないのをあるとは言えないよ。具体的に何をどれだけやれたかを評価して貰うしかないよ。少なくとも日本人は普通はそう考えるんだ。」
それから私とファティマはカフェでこの反応の仕方の違いに刺激されてそれについて長いお喋りをした。私の一年間のネッケルでの滯在で一番の転機を挙げるとすれば、二月の始めに初めて教授の診察の際に症例提示をしたことである。本来はエクステルヌが主としてやる事になっているが、私の心境を察したギリベール医師やファティマが勧めてくれたのである。私はその日に訪れた欝病の婦人と付き添いの夫に対して面談を行ない、それを教授に報告した。私はそれまでの気遺いの大部分が不必要であったことが分かった。わたしは日本で患者を前にしたときと本質的には変わりなくその夫妻と応対することが出来た。勿論言葉の障害マはいつものように付きまとっていたが、それは他の医師の診察に立ち会った場合や、デイポスビタルの週一回の集まりでの議論が理解出来ない、といった絶望感からすれば意外な程に容易であった。その日を期に私の恐怖症が解消したとは言えないまでも、私には少し先が見えたような気持ちがした。それは私のフランス滞在の主たる目的の一つ、即ち外国において精神科の医師として活動することが全く不可能なのか否かという疑問にある種の回答を示してくれたのである。
私はフランスで医師として生計を立てることは、それが法的に可能かは別として殆ど考えていなかったが、少なくともその様な努力を重ね、その他の好条件が整ったならば、全く不可能という訳ではない、という自信が生まれた。しかし一方ではフランス人同志の会話についていけないとき、これが分かるようになる時期は一生訪れないのではないか、と思うこともしばしばあった。私はこの矛盾を不思議に思った。(第5話終り)