2010年10月29日金曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟 (3)

明日明後日と東京が台風に見舞われると思うと、憂鬱である。
今日の留学記の内容は、薬物療法に興味のない人にはあまり意味が無いかも知れない。



ライネック病院の精神科病棟には患者の行なう活動と言えるものは何もなかった。患者は月曜と木曜の教授回診に応じ、その他に担当の医師の面談を受けるだけである。病棟は特別の場合を除いて施錠しないが、患者はすべての外出に医師の許可がいる。すなわち専門の用紙に何時から何時までの外出を許可する、という証明がなされていない限り外出は許されない。というより本来はその許可以外の外出先で起きたことに対しては保険の対象外になる、という意味なのだが。
シャルコー病棟では入院して数日はこの許可が下りないのが通常であった。パリの精神科は、サンタンヌを除けば自由入院の形をとっているが、それでもこの様な形での実質的な行動制限が存在することを私は始めて知った。実際私がライネックに通い始めて数日は、入院患者の一人が許可無しに出て行こうとする為に常に病棟は施錠され、またその隙をみて飛び出そうとしたその患者を数人で押える、という場面まであった。しかしこれらの手続き上の相違を除いたら、後は病棟での活動は日本で体験した大学の精神科病棟のあるものとさほど違いがあるわけではない。その運営に治療共同体的な発想は全くといっていい程感じられないが、それとて日本でも例外という訳ではない。狭い病院の一角に作られた病棟ということもあり、何をするにも活動のスペースがないのが大きな原因という気がする。しかしその狭さが私自身にはむしろ心地好かった。何しろ大きな声を出さなくてもそこにいる人皆に考えが伝えられるのは有り難かった。
病棟の診療に関しては、教授(資格者)のクオンタン・ドゥブレ Quantin Debray 医師が当たる。彼はフランス小児精神医学界の大御所のドゥブレ教授の子息で、まだ40代前半でありながら貫禄は十分である。この教授の診療や処方をまのあたりにすることで、私はフランスの大学レベルでの精神医療の実際を肌で感じ取ることが出来、とても参考になった。
恐らくライネックの、あるいはドゥブレ教授の診療方針にもよるのであろうが、病棟での治療は専ら薬物療法に重きが置かれている、という印象がある。一般にフランスの薬物療法に関しては、元々向精神薬を産み出した国ということもあってか、日本では使われない物が多く試みられていた。例えば抗欝剤もトフラニール、アナフラニール、ルジオミール、アチミール(mianserine)、ラロキシール(amitriptyline)、といった、日本で同名ないし別名でよく使われるものの他に、フロキシフラール(fluvoxamine, SSRI),ウィヴァロン(vi1oxazine、抗コリン作用が少なく、老人にも多く用いられる)、シュルベクトール(amineptine、脱抑制効果が強く、アンフェタミン様の依存が最近問題になって来ている)、プロチアデン(dosulepine)、プラグマレール(trazodone)、キノプリール(quinopramine)、クレジアール(medifexamine)、ユモリール(toloxatone、新しい、副作用の少ないとされるM.A.0.I)といった日本では耳にしないものが頻繁に用いられる。またテラレーヌ(alimemazine),フェネルガン(promethazine)等のフェノチアンジン系のnon-neuroleptics やメレリル等の使用頻度も高い。その他主要なメジャートランキライザーやリチウム、テグレトール,ドグマチール等は名前もそのままで、使用の仕方はあまり日本と変わりがない様である。少し変わり種としては、depamide という抗てんかん薬のデパケンの親戚のような薬が、その効能ははっきりと証明されてはいないと言われながらも、感情調整薬として時々使われていた。同じ調子でマイナー・トランキライザーも、何とかセパムというのが沢山開発されていた。
これらの豊富な種類の薬を議論好きなフランス人の医者達はこの症状にはこれが良い、いやあれだ、といいつつ使用するのである。ドゥプレ教授は特に薬物療法のみを専門としている訳ではないが、やはりこの薬の匙加減にはことさら御執心のようであった。ライネックの病棟では私はまた注意深くその適応を検討された上での全身麻酔下での電気ショック療法(electronarcose) が示す著効例を何例か体験することも出来た。
フランスでの精神科の薬物療法に関して、私が体験した範囲で日本との相違が目立つのは、バルビツール系の薬に対する考え方である。日本で患者の眠剤として精神科の病棟や外来でしばしば処方されているアモバルビタール等の薬は、ネッケル病院で私の知っている範囲ではどの患者にも処方されていなかった。前にも書いたがフランス人のマイナー・トランキライザーやバルビツール系の薬物の習慣性の現われ方やそれに対する警戒は私達の想像以上である。マイナー・トランキライザーに抵抗する不眠にはテラレーヌ(alimemazine, phenothiazine 系)がよく用いられる。また日本で興奮患者に時々用いられるアモバルビタールの静注についてもこちらでは非常に消極的で、むしろドロレプタン(droperidol, butyrophenone 系)やエクアニール(meprobamate)の筋注が用いられる、という。私はこれまで日本ではこれらの場合のバルビツール系の薬の使用をやむを得ないものと思って使っていただけに、これからは眠剤の出し方ひとつにしても考え方を少し改める必要があると考えた。