2010年10月10日日曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(後)

夜神戸から帰宅。今回もいろいろ得るところが大きかった。神戸に行くたびに安先生と会った時のことを思い出す。1997年の秋に神戸に呼んでいただいたときは、まだ地震で横倒しになった建物があった。もちろん今では地震の傷跡などはみじんもない。地震のあと思い切った整地が進み、大胆な区画整理が行われた部分がある、とタクシーの運転手が教えてくれた。
留学記は、私のストイックな生活の記述が続く。

(承前)パリで「日本」を見聞きすることは少なくない。パリはちょっとした日本ブームといった感じがあった。モンパルナスの行きつけの書店フナックの入り口には日本の小説の翻訳の特設コーナーが設けられ、ポンピドゥー・センタ一では「前衛芸術日本」と題して種々の展示がされ、毎日3、4本の日本の映画が3箇月以上放映されることになっていた。またル・モンド誌に突然日本の特集が七ページにわたって組まれたりした。しかしどれもありきたりの紹介に過ぎず、肝心の日本人の心情についてどれだけ積極的に理解しようとしているのか、という点に関しては疑問を感じ続けていた。
フランス人の常かとも思うのであるが、彼等にとって物珍しいもの、目立つものに専ら興味を示し、それでもう分かったことにして仕舞う傾向があるような気がする。カミカーズ(神風)、アラキリ(腹切り)、ミシマ、カラテ、ゼンヌ(禅)、そして急速な経済成長・・・・・・。しかし日本人の控え目さ、謙譲の精神等(勿論良く言えば、の話である)についてそれを少しでも肯定的に受け止めるだけの余地を示す人に出会うことは殆どなかった。それが証拠に日本人の典型であると少なくとも自分では考えているこの私がパリ人と言葉を交すとき、何に苦労しているのかについて、相手からすこしでも理解されていると感じることはなかった。わたしはフランス人と話す時、まるで心の片側があたかも無いものとして振舞う意外に方法はなかったのである。待つことを考えず、とにかく前に出ること。声に出すこと。決して参った、とのサインを出さぬこと。相手から視線をそらさぬこと。これらが幸運にも全て満たされたとき、初めて彼等はコミュニケ一ションの許可を与えてくれる。私がそこに至った過程は顧みられることがないし、根を詰めて10分も話せばもうへとへとになって仕舞っていることも知らない。私にはこの様な日本人とは異なったフランス人の心性が、精神病理の現われ方にどの様に影響しているのかが非常に興味があった。
ネッケル病院では毎週ぺリシエ教授の外来があり、そこで毎回三ケースを選んで彼が面接を行ない、それを殆どの医局員が取り囲んで見学するということが行なわれていた。その治療上の是非はともかく、フランスでの精神科の面接の実際を知る上では非常に良い機会であった。彼等患者は概して自分の病気に対して客観的な見方や語り方をし、その述べ方は確信に満ちている様に見えた。相手が教授だからといって臆する様子も余りなく、しばしばどちらが医者か患者か区別のつかぬような堂々たる議論を始めたりした。またフランスでは処方箋を持って患者が各自薬局に薬を求めに行き、自分で医者の指示通り服薬するというシステムがとられているせいか、患者は誰もが自分に処方されている薬の名前やその効能をそらんじていることの方が当り前であった。
医者の方も、患者の薬に対する不満を聞いた場合、日本で時々するように「じゃ、ちょっと調節しておきますから」というだけでは済まず、どの薬をどれだけ、どの様な理由で増やす、ということを明確に示す。日本の病院で、何種類かの薬を全て粉にして混ぜ、患者の状態に応じて本人にその度に説明する事なく「匙加減」をして投与する、というやり方を一つの典型とすると、こちらでは医者が患者に例えば「食後にのむアルドール(ハロペリドール)を今までの20滴から、今晩から30滴に増やして下さい。」ということになる。
ちなみに患者はそのアルドールの水薬を、医師の処方望を持って街の薬局に行き、その効能書きの入った箱ごと購入してくるから、その過程で自分がその薬を服用する理由についてもある程度受け入れることが前提となっている。私は外来に現われる患者を見ていて次のように感じることがよくあった。つまりフランスの患者は概ね苦しさ、辛さを日本人のような形で表現することは少なく、それを表わすとしたら、周囲に対してかなり直接的な要求となって現われる、と。つまりその中間の、苦しさをそれとなく示唆してこちらからの働きかけを待つ、という部分がそっくり抜け落ちている、という観がある。私には患者の苦痛の訴え方のどれもがそれに対する処置を受けて当然、とのメッセージを含んだものの様に感じられて仕方がない。「人と話すと緊張りするんです。」という「日本人的」な症状でさえ、その訴え方は堂々とし、その目は医師を正面から見据え、こちらを威圧するもの有るのである。
フランスの患者について考えていると、どうしてもフランス人一般について考えを及ぼさざるを得ない。私には彼等の心の動きを十分に掴んだという気持ちをどうしても持てないのである。個々の人々の動きの動機を掴むことはむしろ容易なことも多い。彼等は怒るべき時に怒り、楽しむべき時に楽しみ、主張すべきことを主張する。しかし私自身が同様の立場でそれ等の行動をとるかと考えると話は違ってくる。楽しむにも怒るにも、常に実際行動に移る前にワンクッションが置かれるようである。自分の個々の具体的な行動はどうも彼等とは異なる基準で為されている気がする。
ヤスパースの「説明」と「了解」という概念を多少強引に当てはめてみるならば、私は彼等の行動を「説明」は出来ても十分に「了解」出来ているとは言えない。もっと具体的に言えば、彼等も悩み苦しみ、迷いつつ行動している害なのに、その心の具体的な動きは生き生きと実感を伴って伝わって来ない。彼等はその揺れ動きを具体的な動きとして表わすことが少ない(或いはそれ等を表わす、という発想が少ない)から、それを見ている私は混乱して仕舞うのである。
ただし彼等の行動上の決まりについては有る程度分かるのでそれに従う限り付き合いの上ではさして支障がない。態度を決して暖味にしないこと。そしてその為にはとにかく表現すること。視線を逸らさないこと。自己卑下のニュワンスを含んだメッセージを送らないこと。これらのきまりを念頭に置きながら行動をしさえすれば、彼等との付き合い上さほど間題は起きない。しかし先程述べたように半ば心の半分を切り捨てているので、その様な時のこちらの態度は決して自然ではない。あるいは自然に思わせようとするとかなり疲れる。ただしこれは母国語を自然に使い、生活している彼等の中に、外国人としてとてつもない言葉のハンディを背負ったままいる、という状況のせいかも知れない。その証拠に、殆ど行動を共にすることになる各国からの留学生との付き合いの上では、互いの生育環境や人種の違いは殆ど問題にならなかった。
シリアのファティマはどこからも経済的な接助が得られず、言葉の障害に加えて二重の苦しみを味わっていた。プラシルのクリステイーナはポルトガル語交じりの怪しげなフランスを使いつつ、身振りだけが先行し、しばしば絶旬した。コロンビアのホアンはスペイン語なまりのフランス語を比較的流鴨に話したが、患者からしばしばそのなまりをからかわれたり、わざと俗語を使われたりして困り果てていた。自分の置かれた状況からすれば無理もないのであるが、私はフランスでの患者の病理よりは、パリでの、自分を含めた外国人の心の動きについてあれこれ考える時間がむしろに多かった。彼等は言葉の障害がある限りは、少しでもパリ人との直接の接触を持とうとしたならば、その度に挫折感を味あわなくてはならず、そこでの彼等の果たすことの出来る事柄も彼等が自国でなら可能だったこととは及びもつかない程度のレベルに甘んじなくてはならないことによる。その時に自分を慰めるとすれば、自分がこの様に言葉の障害に苦しむのは当然であり、当のパリ人ももし外国に滞在することになれば同様の苦労をすることになるだろう、などなどとあれこれ想像するしかない。そのうち自分だけが特殊な苦しみを味わわされているという考えから解放されるのである。もしこの思考の流れがスムーズに行く様になったとすれば、いわば「開き直った」状態となり、にわかに苦しみは減ることになる。この理屈には一見無理がなく、早くその様に達観して、もう少し余格を持って生活をしたいと思う。しかし言葉のハンディを始終自覚させられ、そのために実質的な不利益をこうむり続けると、しばしばその様な思考パターンを行なう余裕を奪われてしまう。
結局その苦痛から完全に逃れる唯一の方法は、徹底して同国人との付き合いに頼り、一人で図書館にこもって勉強をすることでしかない。勿論留学の目的は様々であろうが、臨床を目的としている私の場合それをして仕舞ってはパリに来た意味が半減してしまう。それに何よりも言葉の習得は、それが不自由であることからくる屈辱感をエネルギーにしているところがある。私が病院で知る多くの留学生は、このことを本能的に感じ取って、むしろパリという環境に身を挺して飛びこんで行くようなところがある。しかし逆に彼等を見ていると、なんとなく羨ましいと思うと同時に、自分にはそこまでする気はなく、またその必要もない、という気がしてくるのである。(終り)