2010年10月18日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しは急に明るくなった(1)

「猛暑」の名残のためか、気持ちのいい季節を例年より少し長く楽しめている。でも冬は憂鬱である。これから4,5ヶ月の辛抱か、などと考えている。

三月になった。陽射しが一日ごとに延び、パリにも遅い春の訪れが感じられる様になった。私はそれまでとはかなり変わった気分で毎日を送っていた。メトロを行きかう人々も、相変らずくすんだ色の町並みも、目に馴染んでむしろ心地好く映る。私のこれまでとは違う上機嫌にはそれなりのきっかけがあった。二月の終わりのある日、スイスのある公的機関から電話があり、私は当地で発病した患者に付き添って日本の精神病院を受診する、という任務を負って一時帰国することになったのだ。私は飛行機の中で突然「降りる」、といって叫び出すその女性を宥めつつ成田まで飛び、都内の某病院まで同伴した後に、あれほど待ち望んだ東京での生活を五日間だけ味わった。
私はどうして自分が五日間だけで戻って来てしまったのか分からない。旅費の他にも二週間前後の滞在費は保証されていたのであるから、もう少し羽を伸ばして日本の空気を存分に吸って来れば良かつたのである。しかし私の中での日本は、その夢を簡単には壊せないようなファンタジーに包まれ始めていた様である。私はその限られた時間を、9年にわたって住み馴れた新宿の繁華街のビジネス・ホテルで過ごした。私はそこで、夜はテレビを飽く事なく眺め、昼は繁華街を歩き回り、本屋で立ち読みをし、なじみの新宿の喫茶店「カトレア」でパリには存在すらしないアイス・コーヒ一を注文し、周囲の客を眺めて過ごした。不思議なもので、パリにすぐ戻ることを前提としていると、慣れ親しんだ東京の雑踏の中にいても、まるで外国にいるような違和感が有る。何か来てはいけない所に居る様な気分なのだ。
半年間求め続けた東京の空気を思い掛けなく味わってしまった私は、パリに戻ってから少しは冷静にそこでの生活を見直す気分になった様だ。まるで浮気の相手に対する熱が冷め、再び本妻に愛情を向けるようになったようなものである。但し本来はどう考えてもパリの方が浮気の相手だったはずであるが。
私の上機嫌はもう一つ別の原因にも支えられていた。というのも私は三月の始めにようやく病院で患者を「受け持つ」事が出来たからである。私は一人のデイホスピタルの新入院患者を担当医として任された。と言ってもデイホスピタルの主任のジョンドル医師やギリベール医師にことある毎に助けてもらいながらであるが。十年来慢性的な欝状態にあり、しばしば入退院を繰り返してきたその中年女性の患者は、どうやら私を主治医として認定してくれたらしく、週三回デイホスピタルに通って来ては私との面談に応じる、というリズムが出来た。私は言葉のハンディを越えてとりあえずは治療関係らしきものが成立することをようやく自ら確かめる事が出来た。
私が恐れていたのは、患者が私とのコミュニケーションを拒否し、主治医として認めてくれないのではないかという事であつた。患者の話が全く分からず、患者が私との会話が不充分な形でしか成立しないと判断して、私に黙って他の医師に交代を要求しに行って仕舞う、といったシーンは実際何度か夢にまで出て来た。しかし実際に患者と接するようになると、そこに現われる訴えは私が日本で聞いたものと基本的には大差無く、それに対する自分の経験を手掛かりに患者との対話に入ることは思ったより容易であることがわかった。
私が始めに受け持ったデイホスビタルの患者は、幸運な事に私にささやかな自信を与えてくれるには絶好であった。彼女は対人緊張が強く、私と話すのでさえ恐いが、私が少しも威圧的でないので(といってもそうしようと思っても出来ないではないか)気が体まる、といった。私にとっては当のフランス人が私に対して緊張しているなどまさに晴天のへきれきだったが、おかげで私の側の緊張は殆どなくなってしまった。私の病院での立場は若干変わり出した。患者の治療に関してのデイホスピタルのスタッフとの情報交換が必要となるため、それを機会に私は特に多くの女性の、私自身にとって対人恐怖の対象になっていた人々と頻繁に言葉を交す機会が出来た。
これまで私をどの様な身分として扱うべきかについて戸惑い気味のようだったスタッフ達は私にとりあえず医師としての振舞いを要求するようになった。私にはこれは張り合いが出る反面、それに伴う不安も生じた。患者を担当するとなると、そこには私の言葉の力では及ばない事柄をも何とか処理しなくてはならないからである。しかしともかくも私の病院で曲がりなりにも役割を与えられたことがこれほどまでに私のパリ全体に対する見方を変えるものとは思ってなかった。と同時にここまで自分の役割の有無にこだわる自分自身についても呆れてしまった。どうやら私は傍観者のままでいることがよほど苦手なようである。一方では人前では気後れがして話せない事に悩んでいるのに、である。
私が二番目に受け持ったデイホスピタルの患者もまた、幸運な事に私に自信を与えてくれた。38になる公務員のD氏は、昨年から自殺企図を繰り返し、この10箇月ほど仕事を離れ病院の入退院を繰り返した後にネッケルのデイホスピタルに毎日通うようになった。彼は慢性的な不安を訴え、スタッフとの対話でそれを紛らわすことを常に求めていた。彼はその不安をアルコールや、麻薬を少量含む下病止めの薬によっても解消していたが、一方では極めて率直であり、その事実を決して医師の前で隠そうとしなかった。私は毎日30分足らずの時間を彼との対話に費やし、彼の不安を軽減する方法を話し合った。つたない自分のフランス語にはいらいらするばかりだが、D氏はそれを意に介する様子を見せず、またこの対話を必要としている様子をはっきり示した。彼の不安がメジャートランキライザーにかなりよく反応することが分かって、その調節というはっきりとした私の役目が加わったことも影響した。(続く)