2010年10月1日金曜日

恥と自己愛 その18. どうして人はほめられると謙遜するのか?

一読者から、「魚がキモチワルイ」というクレームがあった。特に黒い魚がいけないらしい。ということですこし変更しておく。


私の日米両国の体験で、ひとつ面白いと思ったのは、ひとが謙遜する姿はアメリカ人でもあまりかわらないしぐさを見せるということである。もちろんアメリカ人は自分の名声や業績をことさら隠そうとすることは少ない。人に物を送るときに「つまらないものですが」などとつまらない言葉を添えたりもしない。謙遜することが美徳、と信じる人は、たとえいても日本人に比べると遥かに少ないであろう。
ただし人から面と向かって賞賛されたりした時は、アメリカ人でも小声で否定したり、話題を変えようとする。これは人から傲慢だと思われるのは得策ではないから、というような理由だけではない。一種の防衛本能のようなものと関連しているのだろう。
思うに、人から賞賛された時の反応は、状況によりかなり異なる。例えばたった今ツアーで優勝したゴルファーに、「すばらしいご活躍でしたね。」などと語りかけたら、ニッコリと「有難うございます」と応えるだろう。一回限りのことについてコメントされるときは、あまり人間は謙遜せず、喜びを表現するだろう。ところがパーティなどで「今年はご活躍ですね」などと言われると、「いえいえ」と謙遜の表情を見せたり、無言で手のひらを左右にパタパタしたりするのではないか。つまり自分の位置的な名声などについては、それがある種の具体的な事実により裏付けられているから、それに限定した上で喜びを表現しても大丈夫なのだ。ところが「今ノッてる、活躍している」「すごい」「素敵だ」などとなると属性となり、賞賛の対象は漠然とし、その人全体となる。するとこの、「イエイエ」、「手のひらをパタパタ」現象となるのだ。

ここで私の仮説。ほめられた瞬間、実は人は喜んでいる。ほめられた時の表情を見ると、一瞬口元が緩んでいるはずである。そして次の瞬間、人は「不味い」と思うのだろう。なぜか?人はそこにある種の後ろめたさを感じ、また同時に羞恥を覚えるのだろう。ほめられて嬉しがっている姿というのは、はしたない。そしてその感覚は、日本人であろうと、アメリカ人であろうと、ドイツ人であろうと変わりないのであろう。

羞恥というのは恥辱というのとはすこし違う。恥辱と違い、羞恥には自己価値観の下落は伴わない。羞恥とは人目にふれることに抵抗のある部分が晒されてしまうことへの抵抗である。すこしヘンな例だが、自分の裸に自信がある男性も女性も、その姿を衆目に晒してしまうことには羞恥心を持つ。自信があるのだから恥辱ではないが、羞恥、気恥かしさを感じるのだ。そしてその時人は必ず照れくさそうに笑うのだ。というより、その笑いにより、そこに生じている感情が羞恥である、ということが分かるのだ。そしてそこには見られることへの嬉しさが表れている。ほめられた時の一瞬の口元の緩みと同様なのだ。