2010年10月3日日曜日

フランス留学記(1987年) 第1章(1) のはじめの部分

今日一日、family emergency のために大変であった。
ところで1987年に私が書いてお蔵入りになった留学記が見つかったので、少しずつここに公表しようと思う。相変わらず堅苦しく、抽象的な語り口だ。23年後の今も全然変わっていないという気がする。

第一話 とにかくフランスに渡ってしまった
生まれてこのかた住み慣れた国を、少なくとも一定期間留守にするという場合、旅達の際に多少なりとも感傷的になるのはむしろ当たり前なのかも知れない。1986年9月の終わりに、私はフランス政府の給費留学生として、一年間の滞在予定でパリに向けて旅立ったが、私は飛行機の離陸の際の複雑な心境を忘れることが出来ない。いったいここまでしなければならない理由などあったのだろうか?何か取り返しの付かないことになってしまうのではないか? 
日本以外の国を知りたい、という一見もっともな希望も、その実現に向けて具体的な準備を進めていくうちに、にわかに日常レベルでの様々な不都合が起きてくる。結局ほうぼうに迷惑をかけ、本来許してはもらえないはずのわがままも聞いてもらい、半ばやけになって準備を始め、別れにまつわる様々な思いから出来るだけ目を逸らすようにして旅立つことになってしまった。それらの抑えられた気持ちが、いよいよ飛行機が滑走を始めるときに一気に襲ってきたようである。何か自分が自分でない、眼に見えない力に従っているような気持ちである。しかし飛行機の窓の外の視界から成田の管制塔が消え、飛行機が雲の層を幾つも越えて高度を上げていくうちに、やはり自分はこうするしかなかったのだ、という気持ちが戻ってきた。
この、こうするしかなかったのだ、という気持ちはその後の留学生活の中で、さして変わることはなかった。考えれば考えるほど、自分が適当な機会を作り出して日本を一度は離れる、ということは決して避けられなかったような気がした。将来日本以外の場所に住むならもちろん、また日本に腰を落ち着けるのであればなおさらこうするべきであった。その理屈は私の中では明らかであったが、周囲の人にそれを伝えようとするたびに絶望的になった。旅立つ前に同僚から「フランスで何を研究してくるの?」と問われるたびに、そういうつもりではないのだ、ということを完結に表現しようとするどのような言葉も、不まじめで思いつき的なものに自分自身にも思えた。不十分ながらやっと「フランスを訪れる、ということと同様に、あるいはそれ以上に日本を離れるということに意味があるのだ」ということを伝えられたと思ったら、相手はいよいよ怪訝そうな顔になるのである。そこで「とにかくフランスの病院で臨床をやらせてもらうつもりです。」と答えると、相手はいったん納得したあと「でもそれなら日本でも出来るでしょう?」と切り替えして来、私はたちまち返答に困ってしまうのである。(第一部 続く)