2010年10月31日日曜日

前原外相が中国から「トラブルメーカー」と名指しで非難されたそうだ。しかし中国にしても北朝鮮にしても、国としての対応が、あたかも人格を持った人のように感じるのはどうしてだろうか?基本的にはだれか一人のリーダーのパーソナルな反応がそのままおうむ返しに伝えられるのだろうか?かねがね不思議である。うちの神さんなど、中国側からの報道、例えば「日中首脳会談が中止になったのは、すべて日本側の責任である」という報道を聞き、あたかも中国、という人に対してそうするのと同様に腹を立てている。私はその分あまり腹を立てなくてもすんでいる。
それにしても国が成熟するプロセスというのは面白い。日本人は中国で日の丸の旗が焼かれても、騒ぐ人などいない。醒めている。これは日本という国やその国民がそれだけ成熟しているから、オトナだから、と言えないこともない。しかし同時に日本という国のシステムがこれでもうまく働いていて、人々が基本的には幸せに暮らしているから、ということも考えられる。衣食が足ると、人は社会に無関心になっていくのだろう。自分個人の生活をより高めることにより関心が向くからだ。でもこれは進歩を意味するのだろうか?とにかく日本は過ごしやすい。でもそのことがどこか不安にさせるのである。

2010年10月30日土曜日

快楽の条件 5-1. 人から与え続けられる恩恵は時とともに快楽的要素のほとんどを失う

大型の台風14号が今関東地方を直撃しつつある。10月の台風が列島を襲うのは珍しいそうだ。こういう日は私の妄想が膨らむ。「決して雨が降らない、そして決して寒すぎることのないところで暮らしたい。」そしてこれは案外簡単に「引きこもり願望」へと繋がる気がする。

さて今日のテーマ。これは快楽の条件 5. 「自分が持っているものは、もはや快楽的ではない」の補遺のようなものだ。
これが典型的な形で見られるのは、やはりなんといっても親子の関係だろう。親は成人した子に、自立するまでは生活費を援助するのが普通だ。子はそれを当然のものとし、特に恩に感じることもない(ように見うけられる)ことがしばしばである。不幸なのは、恩を与えている側がそれを自分の当然なすべきことと割り切っているうちはいいが、時には「どうして感謝されるべきことをしていて、当たり前と思われるのだろう? 電話一つよこさないとはケシカラン!」となる場合だ。しかし5-1で、人はそもそも快楽を体験する上で、そのような性質を持つ、という提言を行っている通り、それが人間の心に備わった性質である限り、これは致し方ないことなのだ。子どもをけしからんと怒っている親だって、実は自分の親に対して多かれすくなかれ似たような忘恩行為をしているものである。(ヒエー、私のことだ!)
もちろん5-1は親子関係に限らない。配偶者の一方が他方に与える恩恵も、国家が国民に与える恩恵も同じである。ただ親子関係が一番例としてわかりやすいのだ。
この5-1の恐ろしい点は、恩恵を与える側は、感謝されないだけでなく、その恩恵を与えることを中止した際には明白な怒りや恨みを向けられるということである。
このような現象が起きる原因は、快楽の条件5に示した通りだ。自分がすでに得たものは快楽ではない。快楽とは、自分の持っているものの、時間微分値がプラスの場合である。得たときにしか心地よくない。
さて恩恵を与えていた側が恨みを買うといった不幸が生じないためには、彼が感謝を一切期待しないという覚悟をするしかない。あるいはその恩恵を与える行為を一切止めてしまうことだ。マア、当たり前といわれればそれまでだが。
大体援助を継続している側は、たいてい一度は援助を止めてしまいたいと考えるものだ。しかしそれはなかなか出来ないことである。それはそうすることへの後ろめたさ、あるいは恩恵を受ける側からの恨みの大きさへの恐れからである。それほど援助される側の「当たり前感」は大きいのだ。ただしそれを思い切って行ったとしても、それは本人が思ったほどには、極悪非道のことには思えない。そう、援助する側が勝手にうらまれることを恐れているに過ぎない。
ただし親子の関係には、もう一つ深層があると思う。それは出生をめぐる親の後ろめたさ、あるいは負債の感覚だ。生まれたばかりの子どもを胸に抱いた親は、その子が独り立ちするまで面倒を見ることは当然だと思うだろう。それは一方的に(まさにそうである)断りもなく(これもその通り)この世に送り出した親としては当然のことと思うだろう。
親は身勝手な行為の結果として子を世に送る。その時点で子供にまったく罪はない。すると子に降りかかるすべての不幸は、親の責任ということになる。これは考え出すと実に恐ろしいことだ。そうやって人類は生命を受け継いできたのだ、実は自分自身も親の勝手な行為の結果だ、ということを忘れても、この感覚を持ち続ける親は多いように思う。特に日本の親についてそれはいえるのだ。

2010年10月29日金曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟 (3)

明日明後日と東京が台風に見舞われると思うと、憂鬱である。
今日の留学記の内容は、薬物療法に興味のない人にはあまり意味が無いかも知れない。



ライネック病院の精神科病棟には患者の行なう活動と言えるものは何もなかった。患者は月曜と木曜の教授回診に応じ、その他に担当の医師の面談を受けるだけである。病棟は特別の場合を除いて施錠しないが、患者はすべての外出に医師の許可がいる。すなわち専門の用紙に何時から何時までの外出を許可する、という証明がなされていない限り外出は許されない。というより本来はその許可以外の外出先で起きたことに対しては保険の対象外になる、という意味なのだが。
シャルコー病棟では入院して数日はこの許可が下りないのが通常であった。パリの精神科は、サンタンヌを除けば自由入院の形をとっているが、それでもこの様な形での実質的な行動制限が存在することを私は始めて知った。実際私がライネックに通い始めて数日は、入院患者の一人が許可無しに出て行こうとする為に常に病棟は施錠され、またその隙をみて飛び出そうとしたその患者を数人で押える、という場面まであった。しかしこれらの手続き上の相違を除いたら、後は病棟での活動は日本で体験した大学の精神科病棟のあるものとさほど違いがあるわけではない。その運営に治療共同体的な発想は全くといっていい程感じられないが、それとて日本でも例外という訳ではない。狭い病院の一角に作られた病棟ということもあり、何をするにも活動のスペースがないのが大きな原因という気がする。しかしその狭さが私自身にはむしろ心地好かった。何しろ大きな声を出さなくてもそこにいる人皆に考えが伝えられるのは有り難かった。
病棟の診療に関しては、教授(資格者)のクオンタン・ドゥブレ Quantin Debray 医師が当たる。彼はフランス小児精神医学界の大御所のドゥブレ教授の子息で、まだ40代前半でありながら貫禄は十分である。この教授の診療や処方をまのあたりにすることで、私はフランスの大学レベルでの精神医療の実際を肌で感じ取ることが出来、とても参考になった。
恐らくライネックの、あるいはドゥブレ教授の診療方針にもよるのであろうが、病棟での治療は専ら薬物療法に重きが置かれている、という印象がある。一般にフランスの薬物療法に関しては、元々向精神薬を産み出した国ということもあってか、日本では使われない物が多く試みられていた。例えば抗欝剤もトフラニール、アナフラニール、ルジオミール、アチミール(mianserine)、ラロキシール(amitriptyline)、といった、日本で同名ないし別名でよく使われるものの他に、フロキシフラール(fluvoxamine, SSRI),ウィヴァロン(vi1oxazine、抗コリン作用が少なく、老人にも多く用いられる)、シュルベクトール(amineptine、脱抑制効果が強く、アンフェタミン様の依存が最近問題になって来ている)、プロチアデン(dosulepine)、プラグマレール(trazodone)、キノプリール(quinopramine)、クレジアール(medifexamine)、ユモリール(toloxatone、新しい、副作用の少ないとされるM.A.0.I)といった日本では耳にしないものが頻繁に用いられる。またテラレーヌ(alimemazine),フェネルガン(promethazine)等のフェノチアンジン系のnon-neuroleptics やメレリル等の使用頻度も高い。その他主要なメジャートランキライザーやリチウム、テグレトール,ドグマチール等は名前もそのままで、使用の仕方はあまり日本と変わりがない様である。少し変わり種としては、depamide という抗てんかん薬のデパケンの親戚のような薬が、その効能ははっきりと証明されてはいないと言われながらも、感情調整薬として時々使われていた。同じ調子でマイナー・トランキライザーも、何とかセパムというのが沢山開発されていた。
これらの豊富な種類の薬を議論好きなフランス人の医者達はこの症状にはこれが良い、いやあれだ、といいつつ使用するのである。ドゥプレ教授は特に薬物療法のみを専門としている訳ではないが、やはりこの薬の匙加減にはことさら御執心のようであった。ライネックの病棟では私はまた注意深くその適応を検討された上での全身麻酔下での電気ショック療法(electronarcose) が示す著効例を何例か体験することも出来た。
フランスでの精神科の薬物療法に関して、私が体験した範囲で日本との相違が目立つのは、バルビツール系の薬に対する考え方である。日本で患者の眠剤として精神科の病棟や外来でしばしば処方されているアモバルビタール等の薬は、ネッケル病院で私の知っている範囲ではどの患者にも処方されていなかった。前にも書いたがフランス人のマイナー・トランキライザーやバルビツール系の薬物の習慣性の現われ方やそれに対する警戒は私達の想像以上である。マイナー・トランキライザーに抵抗する不眠にはテラレーヌ(alimemazine, phenothiazine 系)がよく用いられる。また日本で興奮患者に時々用いられるアモバルビタールの静注についてもこちらでは非常に消極的で、むしろドロレプタン(droperidol, butyrophenone 系)やエクアニール(meprobamate)の筋注が用いられる、という。私はこれまで日本ではこれらの場合のバルビツール系の薬の使用をやむを得ないものと思って使っていただけに、これからは眠剤の出し方ひとつにしても考え方を少し改める必要があると考えた。

2010年10月28日木曜日

チビの後ずさり (2)

チビの後ずさり(1)を以前書いたのは、・・・・・・忘れた。いつかそんなテーマで書いたような気がするので、それを(1)とする。実は13歳のチビは今年の4月頃からおもらしを始め、苦労していた。水をカプ、カプ、カプ、と飲みながら、後ろからジャー、と出したりする。昼寝をしていたチビが立ち去ったあとがやたらと濡れていたりする。まさか・・・ということになった。そこでチビはすっかりおむつのお世話になっていた。ちなみに皆さんは、犬用のおむつと人用のそれの違いをご存知か?真ん中にしっぽ用の穴が開いているのである。(ということは、実はサイズさえ合えば、犬用のおむつは人用のおむつからつくることが出来る。逆は無理だが。)ということでチビは結局おむつのお世話になったのだが、いきなりなので不思議がっていた。世田谷の獣医にかかり、腎臓の異常値を指摘されたり(結局元に戻った)、尿路感染を疑われたりしたが結局分からず。すこし回復して、おむつが取れだしたのが8月。ところがふとしたことから9月にまた3週間失禁が続き・・・・なんとまた良くなっている。あのチビの情けないオムツ姿(神さんはそれを「かわいい」という)を見なくなっているが、最近神さんに言わせれば、原因がわかった、というのである。私も認めるしかない。というのもチビは、生まれてからずっとそばにいた息子が関西に行ってしまったことに反応していたらしいのだ。そしてそれを忘れた頃に息子は初めての大学の夏休みということで家に戻ってきたのだが、また行ってしまったのが9月である。タイミングとしてはあっている。何しろ我が一家の帰国する際の2004年に、一時的に私と「二人」で気まずい3ヶ月の生活をしていた時期があったが(神さんと息子が先に帰国して、私は一年遅れた。チビは彼らが家を見つけて安定する間、アメリカで私が勝っていて、それから航空便(特殊な)で日本に送ったのだ。)チビは、激やせしたくらいだ。私との生活に終始怯え、3ヶ月が終わる頃はアバラが目立つようになり、頬は痩せこけ、なんと顔色まで青白くなったのだ。気のせいか?
ということでたくさん買い置きしているおむつは当分は無駄になりそうである。それにしても犬の「身体化症状」は面白いが、実はそれで思い出すのは、1997年から2年余りの、つまり生まれてから2年ほどの間のチビの様子である。なんと彼女は「嬉チビり」(ウレチビリ)の常習犯だったのだ。つまり嬉しかったり驚いたりするとそのままダーッと後ろから・・・・。そう、彼女は膀胱括約筋がもともとゆるいのだった。それが老化もあり不安や気がかりな状態に反応して機能不全になるということらしい。ということはこれから老化が進むと結局、チビはおチビリを始めるということなのだろう。一生おもらしに苦しめられるのだ。そういえばチビのこの名前も、それを運命付けていたのか?

2010年10月27日水曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(2)

初めて寒さを感じた朝であった。まだあのうだるような暑さがすぐに思い出されるから、それよりはまし、という気になる。
そろそろ終盤の留学記。結構健闘しているのにわれながら感心する。やはり「学問でもなく、観光でもなく」である。


ライネック病院はネッケル病院から歩いて10分ほどの、パリ第7区にあるやや小さい規模の総合病院である。時代がかった病棟の外見とは裏腹にその内部は明るく比較的清潔であつた。精神科の病棟(シャルコー病棟)は11床と規模が小さかった。いつも新しい環境に入って行くのに時間がかかる私は、それでもネッケルのときよりはかなり早くそこを居心地の良いものにすることが出来た。病棟の規模が小さく、スタッフが身近に居て、しかも私にも出来るような簡単な仕事がいつでもある、という、言わば私自身の存在意義を感じ取る事が出来る環境は私が願ってもないものであった。病棟のメンバーも気さくな人々ばかりで、私はパリジャンについてのイメージが一新する思いがした。私はそこで、言葉に依然不自由しつつも一応は精神科医として扱われることになった。フランスの常で、他国ですでに医師になっている場合はフランスでもその資格があるとの前提がある。但しあくまでもそこでの医長の責任のもとで活動する事になるのであるが。そこで私も右往左往しながらも突然医師としての振舞いを期待され、余儀なくされる、というちょっと奇妙な存在となった。私はもうバリを去る時期がわずか3ヶ月しかないこともあり、思い切っていろいろチャレンジして見ようと思っているのであるが、病棟にいると冒険をするどころか見当違いのことをせずにそこにいるだけでも精一杯である。毎日が冷や汗の連続であるが、しかしスタッフ達は私のその様な様子を故意に看過するようなところがある。
その様な環境で困るのは、例えば看護室の電話が鳴り、その時私が一番そばにいれば、それを受けなくてはならないことである。日本にいてさえ人前で電話を取るのが苦手な私がそれを皆の見ている前でフランス語でやらなくてはならない。いざとなれば内容が分からなければ他のスタッフと代わることが出来るが、彼等は私の苦労を知りつつも受話器を先に取ってくれはしない。それでいて私が仕方なく相手と話し出すと、ニヤニヤしながら私のあわてふためいた応対ぶりを聞いていたりするのである。
更にもっと困るのは、他科からの精神科のコンサルテーションの依頼がよく有り、それを時には一人で出掛けなくてはならないことである。その往診を必要としている入院患者と差し向かいで話す分にはさして問題はない。それよりもそこの何人かの医師や看護婦の集まっているところに、精神科の専門家と称して行き、東洋人というだけで注目されてしまう上にそこで何等かの説明をして彼等を納得させなくてはならないことである。これも私の対人緊張をいたく刺激することこのうえない。始めは何とか一人で行くような状況を避け、アンテルヌのリシャールの後にくっついて行っていた私も、早晩一人で行く羽目になり、半ばやけになって出掛けて行く。全く「恐怖突入」の最たるものである。
私は病棟にいることで、周囲が私に任せてくれる仕事の範囲から類推する形で、外国人医師が一般に任され得る診療内容を知ることが出来た。フランスの医療制度について詳しく調べたわけではないが、私がパリで体験した限り、自国のライセンスを持つ外国人の医師は、診療のかなりのレヴェルにまでタッチ出来、また報酬さえ得ることも出来る。そのレベルは大体フランスのアンテルヌと同等、と言うことが出来る。パリ大学医学部に登録した外国人医師の多くは、二年目からF.F.I.という制度によりアンテルヌの仕事を代行するのが通常である。事実私と同時に研修を始めたファティマやクリスティナは既にパリ郊外の精神病院で5000フラン程度の報酬を得ながら勤務を開始していた。私も報酬はないものの病棟に居る限りは、勝手が分からないながらも医師としての振舞いを余儀なくされることは述べた。
例えば見舞いに来た患者の家族が、本人の吐き気の訴えを伝えに看護室に来ると、他に医師がいなければ私が対応しなければならない。さもなければ、どうしておまえはそこにいるのだ、ということになってしまう。私がとっさに適当な薬を思い付かないと、患者と家族で勝手に「おまえ、このあいだはフォスファルゲルが良く効いたじゃないか。先生、どうでしょう?」私はこのフランス人にとってはなじみの制酸剤を初めて聞くので、とりあえずは手帳に書き留めるのにやっとである。すると彼等は私の様子をみて、「フォスファルゲルをご存知ないのですか?」「おまえ、失礼なことを言うんじゃないよ。この人は医者だよ」などという会話を始める。断わるまでもなく、フランスではこのような状況で私に残された手だては一つしかない。すなわち絶対にその薬について分かり切っているという態度を保ちつつ、間違いを犯す前に何とかその状況を切り抜けることである。私は「そうですな。うんうん。それがここの病棟の常備薬にあるか見て来ましょう」などと言って看護控え室に取って返し、ヴィダール事典(フランスでは各診察室に一冊は備えている薬の事典)で調べ、看護婦のカトリーヌに尋ねる。そしてその薬の日本での相当物などを想い浮かべ、有る程度落ち着き、患者に持って行くと同時に、患者が同時に欲しい薬の候補として挙げていたプランペロン(これは要するに日本でもなじみの「プリンペラン」のフランス語読みだから私も知っている)との機序の違いなどを聞かれないうちから述べて彼等の私に対する疑いを少しでも軽減し、私自身もフラストレーションから少しは解消される必要があるのである。
こういう体験は私が最も苦手なものだが、かといって他に旨く切り抜ける方法も見当たらない。しかし余りこういうことが毎日重なると、一体こんな事を続けていると自分はどうなって仕舞うのだろう、などというへんな興味が沸いてくる。それにしても恐らくこれからは私は患者の吐き気の訴えに関して少しは巧く切り抜けることが出来るであろうが、この様な体験を一体何百回繰り返せば私はここに適応して適切な振舞いが出来るようになるのであろう?こう考えるとあと3ヶ月足らずとなった私のフランス滞在、ということも気になる。日常的に出会う目新しい事柄をいちいち手帳に記入するのも、これから先の私の3箇月を支えるだけ、と考えると余り意味が無い様な気がしてくる。すぐにパリを離れて仕舞うのであるから、病院にいること自体傍迷惑なのかも知れないという気もする。しかし後3箇月だと思うから「旅の恥はかき捨て」とばかりに、もう少し思うままに振舞って見たい、とも思うのである。

2010年10月26日火曜日

フランス留学記(1987年)第七話 ライネック病院 精神科病棟(1)

昨日は神さんの●●回目の誕生日であった。その時私の昔のフランス留学の話になった。彼女はその一部に参加していたのである。(それが今回の留学記第七話(1)だが、読み返してみると、そんなこと一言も触れていない。)そして改めて彼女が理解できなかったのがその留学の動機だった。業績のため、でもない。観光、でもない。何それ?というわけである。つくづく人間は(私は?)理由の明確でない動機にしたがって行動するものである。それにしてもどう考えてみても時間や努力の無駄遣いだったこの一年・・・・。それでは後悔するかといえばそんなことはない。後悔したら、それこそもったいない。何らかの形で自分の一部になっていると思うしかないのである。

研修先の病院を代わる機会を利用して、私はちょっと長いヴァカンスをとることにした。考えてみれば去年の秋に渡仏して以来、パリに腰を据えたままで、郊外はおろかパリ市内の見物さえ満足にしていない。日曜はポンピドゥーセンターの図書館に行くが、それ以外は来る日も来る日もネッケル病院に通っていた。私にしてみれば余り病院にとって役に立たないのに、その上休み勝ちだったら申し訳ない、という気持ちがある。しかしヨーロッパの中心にいながら周辺の国に足を向けないのも如何にも惜しい気がする。「ギリシャまでバス旅行1000フラン(約2万5000円に相当)」などという広告を見ると、改めてパリにいることの利点を感じさせられていた。私はこの際かねてから考えていたドイツ旅行に出てみることにした。
モンパルナスの駅で、ストラスブール経由の、ミュンヘンまでの往復の切符を座席指定も含めて買ってしまい、私は5月の始めに手軽な鞄ひとつの旅に出た。パリを離れるとすぐにそこから限り無く広がっている、という感じのフランスの田園風景を数時間楽しみ、フランスとドイツの国境にあるストラスブールに着く。長い歴史の中で、フランス領になったりドイツ領になったりしたところだ、と聞いている。そこには一緒に留学した給費生のH夫妻が住んでいるので御邪魔することにしていたのである。
H夫妻は私が考えていたよりも遥かにフランスでの生活に苦しんでいた。H氏は時々大学の生化学の研究所に通う他は、専ら家で身重の奥さんと時間を過ごしているとのことだった。二人ともことある度に日本は良かった、一刻も早く帰りたいと言い、また他方でフランスへの痛烈な批判を辞さなかった。H夫妻は7ケ前にフランス生活の開始時にパリを訪れ、私はそのとき知り合ったのだが、その時の彼らの夢を見ているような表情を思い出していた。人が思うほどフランス留学は華やかではない。
翌日からドイツのミュンヘンでの数日間は、私のヨーロッパ滞在の中でも特に楽しい日々となった。ミュンヘン中央駅に降りた途端にそこにはパリと違った清潔さと秩序が感じられた。ホテルでも売店でも、そして親しげに話し掛けてくる人々もパリジャンの冷たさとは非常に異なった印象を受けた。このことはパリに滞在中の、ドイツに旅行した経験のある人々から環繁に耳にしていたことであるが、それを現実に体験して私は少なからず驚いた。勿論私がドイツ人にとって特別の意味を持つ日本人である、ということはある。彼等もまた特定の民族、例えばトルコ系の人々に対して少なからず人種差別の傾向を持つことも指摘される。それに町の印象にしても、ミュンヘン自体がどちらかといえば田舎の小都市であり、人口も少なく、人々があくせくすることがない、ということも考え合わせなくてはならない。しかしそれでもやはり彼等の人との接触の仕方にはパリ人にない暖かさがあった。わたしはパリにではなくミュンヘンに滞在することになっていたら、私が毎日味わうフラストレーションの多くは解消されただろうか、と考えた。
私はいつもの出不精を返上してガイドを片手にノイエ、アルテピナコテーク(新、旧美術館)、オリンピツク塔、ドイツ博物館、マクシミリアン通り等を駆け回り、名残り惜しい気持ちで夜行でパリに戻った。(続く)

2010年10月25日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しはにわかに明るくなった(後)

留学記、もう少し積み残しがある。

4月の終わりに、私の留学生活の中では比較的大きな変化があった。幸か不幸か4月いつばいで私はネッケル病院の外来を離れ、その近くにあるライネック病院の精神科病棟に行くことになったのである。同病院の精神科はネッケルとは反対に病棟のみで外来がなく、ネッケルの外来とは非常に近い関係にあり、教授(資格者)のドゥブレ医師やサイコロジスト達は同病院と兼任であった。ネッケルを去るといっても週3回は午後に通つてフーション医師の診察に立ちあうつもりであるが、デイホスビタルの患者の担当は他の医師に代わることになる。
私はネッケル病院からライネック病院に移ることを指示されたとき、余り気が向かなかった。それは結局ネッケルで自分が満足の行く形で活動することが出来なかったことに対するこだわりが大きかったからである。短期間の留学生、という身分で一体何をこだわっているのかと自分でも思うが、もう半ば意地のようなもので、とにかく病院で夕方まで過ごすことのみを考え、フランスの精神医学一般についてあちこち見学するなどして広く見聞を広める、などということはあまり望まなくなっていた。しかし他方では少なくともフランスの精神科の病棟の様子を少しは知っておきたいとも思っていたので、却ってこのライネックへの研修場所の変更は歓迎すべきことであった。
ネッケルを後にするに当たって、この7箇月の間に自分はどの様な形でここにいたのであろうか、と考えてみる。確かに何時の間にか病院に通うことがさほど苦痛でなくなっていた。一週間病院にいるうちに何度か訪れるストレスの種となる状況を、結局はあるものは切り抜け、あるものは回避して来たことになる。
私にとって最も苦痛で、しかしその克服が大きな希望ともなっていた、人前で話すことについてはどうか。これは何度かの経験を通じてそれほど苦痛ではなくなって来ていたが、それはそれなりの準備をして臨むからで、さもなくば立ち往生になって仕舞うかも知れないという恐怖はいつも感じていた。例えば映画について語り合う会で、私が見て来た映画を簡単に要約して伝えたいとする。私はパリで多少なりとも話題を呼んでいる映画をなるべくその会の前日に見に行き、既にその時点でフランス語で内容を要約する場合のキーワドを捜しておく。更にそれからその1、2分ほどしかかからぬ要約を少なくとも3回ほどは予め言ってみるのである。もしそうしなければ、実際その会で話す場合に基本的な表現が出ずにちょっとしたパニックに陥る可能性はいくらでもあるからである。
デイホスビタルのミーティングでの患者の紹介などをする時も同様の用意をするが、その場合は表現のしようのないことは別の内容に置き替えることが出来そうで、少しは楽である。しかし結局いつも最悪の状態にならないように気を張っていることにはかわりない。 
デイホスビタルでの患者との面談の際の抵抗は、それほど感じなくなっているが、それも相手による、というのが正直なところで有る。また患者本人との面談ならまだ良いが、例えばそれを気遺って面談を求めて来るその両親との面談となると、さすがに気が重い。私がライネック病院に移るといっても、誰も特別名残りを惜しんでくれるわけではない。それだけ私の影が薄かったわけであるが、そもそも留学生は研修場所の動きが多く、その役割も診療に直接関わる、というよりは見学生というニュワンスが強い事から、アンテルヌ、エクステルヌたちの就任の時の様にいちいち歓送、歓迎会をしたり特別の挨拶の場を設けたりはしない。だから留学生は皆突然病棟に来るようになり、多くは黙って去って行く。
私も何人かの特に世話になった医師に挨拶をしただけで特に誰に引き留められるわけでもなくネッケル病院を去ったわけだが、一人だけはっきりとそれを残念がってくれる人がいて、少し救われた気がした。彼はジャコブといい、二月からもう一人の医師と共にアンテルとして私達の科で働いていた。年は私と同年輩、精悍な顔つきでアラブ系の血が若干混じっていると思われる黒い髪と浅黒い肌が特徴的だった。私と彼とはここ二箇月ほどのうちに急速に病棟で一緒に行動するようになっていた。といっても主として彼の診療に私が付き添うだけである。もともとは週二回の彼のギャルド(日直としてその日の予約外の新患を担当する役目)の見学をすることを私の方から頼んだのであるが、そのうち彼は私がそれ以外の彼の診療にも付き添うことをはっきりと私に要求するようになってきたのである。彼は一般医のアンテルヌとして精神科に回って来たせいもあり、精神科の専門的な知識に関しては私の方が詳しい場合もあり、彼の診療の後に私に意見を求めて来ることがよくあつた。
ジャコブはよくも悪くも率直で、熱心な反面その振舞いに若干繊細さが欠けるところがあった。その患者との話し方は勢い患者に対する説得、指導といった傾向に傾きがちで、彼が近頃急に興味を示し出しているという精神療法的な面接を行なっているというには余りにも中立性や受け身性に欠けている気がした。それでも私は彼の熱心さが特定の患者の心を引き付け、そのはっきりとした指示的な態度が患者の症状の改善に役立っている様子を目にする場合があった。
ジャコブの診療に立ち会うようになってしばらくして、彼がネッケル病院の専属の精神分析家のプラックス氏の少人数の症例検討会にその様なケースの一つを出したことがあった。プラックス氏はジャコプの報告を少し聞いただけでその診療内容をすぐに察して、「それでは第一精神療法にすらもなっていないようだね。」という内容のことを言った。その意味をはかりかね、絶句して仕舞っているジャコブを横で見兼ねて、私は「確かに彼の態度には中立性は感じられないけれど、彼の診療に対する熱意は患者との陽性の転移関係を成立させていると思います。患者の生活態度の改善を週ごとに追ってみると、その生活目標を積極的に与える事の意味を一概に否定は出来ないと思います。」という意味のことをかなり苦労しながら言った。それを切っ掛けに少なくともプラックス氏はその批判的な語調を緩める結果になった。
ジャコプはその症例検討会が終わった後、私に握手を求めながら、「ケン、さっきは誉め言葉を有り難う。」と言って当惑する私を残して陽気に部屋を出て行った。私はその「誉め言葉compliment」という言葉を聞き、彼は今し方検討会で交された内容の真意を少しも分かっていないんだな、と感じた。その時から彼は事有るたびに私に半ば強引に彼の診療に付き合うよう求め、また彼の不在の時に私が代わって患者を見ることにしてしまった。彼は病棟でも暇さえあれば多くのガールフレンドの仕事場に電話を入れる、という癖があったが、それにさえも私を付き合わせることもあった。彼の時に一方的でアグレッシブな態度は病棟で皆の賛意を必ずしも得られていなかったため、何でも彼に付き合う私という存在は彼にとっても都合が良かったようである。それでも私は心からジャコプの気持ちを嬉しく思った。私の存在を特に認めてくれると感じられる人が殆ど誰もいなかく、いつも手持ち無沙汰にしていただけに、「君は言葉はまだまだだが、なかなかいいところがあるじゃない。」などと言って引っ張り回してくれる存在は感謝仕切れない程に有り難かった。彼のお陰で3、4月と病院での活動範囲がにわかに広がったような気がしたものである。
4月の末のある日、医師控え室でギリベール氏が私にライネック病院で人が足りなくなって来ているからさっそく行くように、と一方的に言い渡した時、たまたまそばにいたジャコプは不満そうな顔をして、ギリベール氏に「それは余りに急じゃないですか」と言い、当惑している私に代わってその真意をただしてくれた。私はそういう彼の複雑な気持ちが分かり、同時にとても嬉しかった。私がいよいよ明日からはネッケルに来なくなる、という日、ジャコプはやって来て私の顔を正面から見据え、「ケン、僕はサイコセラピーが出来ているよね。」といきなり詰間するように聞いて来た。私が「君のやっていることは広い意味でのサイコセラビーだと思うよ」と言うと、彼は始めてにっこりして、私に別れの握手を求めて来た。

2010年10月24日日曜日

上から目線の国

ふと思うのだが、(というよりいつも思っているが)日本って、上から目線の国だね。先輩が、年上が、上役が、後輩に、年下に、部下に上から目線で話す。それは端的に言葉に現れる。日本語は尊敬語、丁寧語、謙譲語しかなく、「卑下語」「軽蔑語」などないのだが、尊敬語、丁寧語を使わないという形で区別をする。上から目線の国である、ということは同時に下から目線の国でもある。上から目線の人には、下から目線で対応することになっているからだ。これって文化にあまり貢献していない気がする。貢献しているとしたら、上から目線で話しかけられることに疲れ、「自分だってアイツの立場になってやる!」と頑張ることくらいか。でも今度は自分が上から目線で話すことになるのだから、変わらない。
上から目線の文化では、上から理不尽なことを言われても、容易に反発できないということが生じる。そうすることは生意気だからだ。(ちなみに「生意気」という表現、英語にはなかなか見つからないのである。少なくとも日本語で意味するところの「ナマイキ」は。)年下は、後輩は「雑巾がけ」をしなくてはならない。正論は通じず、年上の理不尽さがとおる。
私なこのことを、50歳代になってつくづく感じる。私が無理を言っても簡単に通ってしまうような状況にいることが多いことに気がつく。でも私よりシニアな人たちばかりの世界に行くと、やはり上から目線を感じるのだから、やはり少しも状況は変わっていない。特別私が賢くなって人徳が出て、子供扱いされなくなっているということはありえないのだ。
私は日本社会での叱責や、お説教や、望んでもいないアドバイスのほとんどが、上から目線で行われ、立場が上の人間が「上から目線で理不尽なことを言う」という権利を行使しているに過ぎないと思うことがある。
欧米社会を例に出すのはすこしイヤらしいが、例えば英語の社会は、タメ口の社会であるから、この上から、下から、というのがあまり働かない。彼らのものの言い方はまるで上から目線なことが覆いが、応える方も同じように上から目線なのだ。上からに対して上から、という形で釣り合いが取れている。アメリカで生活していると、実際の年齢を問題にされることが本当にない、ということもその証左だろう。人種も違い、文化も違うところから人が集まっているから、年齢の差など問題にしていられないのだ。そのせいでかなりフェアな、しかしシビアな関係が展開している。フェア、というのは年上から理不尽なことを言われなくていいという意味でだが、シビアなのは、年下だっておかしいと思うところはどんどん付いてくるからだ。
私はつくづく思う。50代以降に日本にいられるのは幸せである。

2010年10月23日土曜日

精神分析学会が終わった

非日常(分析学会)が終わった。ご覧の通りブログを更新する余裕もない。大会最後のシンポジウムは最近米国で徐々に主流になりつつある関係精神分析と非常に近いテーマが選ばれ、時代の流れを感じた。個人的には良い体験もあまり嬉しくない体験もあったが、ひとつの区切りがついたという感じである。精神分析学会は、言わば精神分析療法を最上のものとするという前提のもとに成立している。それは一定のルールと原則を持つ。精神分析療法を、より治療的なものにするという努力は極めて重要である。だって精神分析は治療手段だからである。(ちなみに精神分析は治療手段ではない、という立場もあり、ここらへんは色々厄介である。)ところが従来の分析の考えを否定することは、精神分析学会そのものの存在を危うくするという可能性を持つ。精神分析学会が建物だとすると、精神分析の従来の原則を疑うことは、その柱の一本を揺さぶるようなものなのだ。治療手段としての精神分析をより良くするという努力と、精神分析を学び実践する人たちの集まりを守っていくことは、実は正反対のことだったりするのだ。そんな精神分析学会だが、大きな魅力がある。それはそこに集まる人達が非常に知的で、ハイレベルのディスカッションを聞くことが出来ることである。でもその知性と、治療としての精神分析を考える努力とは、やはり微妙にずれているという実感がある。いずれにせよ色々考えることの多い体験であった。

2010年10月22日金曜日

分析学会の二日目。午前中の「土居健郎先生を偲ぶ」という小シンポジウムが多くの人気を読んだ。それにしても土居先生、高い学識や日本の精神分析への偉大な貢献と共に、学会などで雷を落として多くの後輩を苦しませたようだ。私も分析学会誌「分析研究」に「斬る名人としての土居先生」という文を書いた。今年中には刊行となるはずだが、私の「斬られ」体験は、このブログでもすでに書いた気がする。先生から受けた恩義は大きい。

2010年10月21日木曜日

分析学会の一日目が終わった。場所はオリンピック発表する側から、主として司会や助言をする立場にかわり、しばらく経つ。発表が少ない分さほどストレスはないが、やはり多数の目に晒されるのは憂鬱である。今日は午前中は3時間の症例検討の司会、夕刻は「教育研修セミナー」という数年来続けている企画を行った。一般に精神療法はその正体が曖昧でそこで起きることを明確に規定はできないし、その為の訓練もマニュアル化出来ない。それなのにたくさんの精神科医や心理士が参加し、熱心に発表に耳をかたむけるのはなぜだろう。不思議な気がするが、ありがたい事でもある。

2010年10月20日水曜日

快楽の条件 7. 反復は基本的には快楽である

明日からは学会である。私にとってはかなり非日常の3日間となる。

これまで明示したことはなかったが、これまで繰り返されてきた刺激は、それだけでも快感の源泉になる。特に今現在も繰り返されている、という点がポイントである。住み慣れたうちの使い慣れたベッドと枕の感触。それがことさら不快感を生む原因が生じたというのでなければ、基本的には快感につながる。
それを示すような日常的な例。決まったパターンを何らかの形で破る必要が生じた場合に、不本意ながら用いた代替物に慣れてしまうと、「どうしてあんなものを毎日続けていたのだろう?」と感じるということがある。私の場合は例えば一時期フォントといえば、HG丸ゴシックM-PRO を用いていた。論文を書くにも、スライドを作るにも、である。使い続けるのは快感だった。でもある時あるフォーマットにあわせる必要があり、仕方なくHG正楷書体-PROを使っていたら、今度はこれにはまってしまっている。ゴシックM-PROを使っていたときの快感は、まさにそれを使っていたから得られていた、ということが出来るのだろう。
似た例としてはスナック。恥ずかしいから書けないが、夕食後に必ず食べていたスナックがあった。もう3年間ほど続けたのだが、一時期それがしばらく手に入らないという時期があった。そこで別のものを食べ始めたのだが、そちらになれると、なぜあんなものを毎日食べていたのかと思う。おんなじ仕組みである。
同じことを続けたいというこのプレッシャーは、実は新奇なもの、というもう一つの種類の快感によりピリオドが打たれ、移り変わっていくというわけだ。そしてもちろん慣れによる不快感ということも起きる。どうして反復による快が、ある場合には不快か、快の逓減を生むのかはよくわからない。反復することの危険性を知らせるための安全装置だろうか?確かに同じものばかり食べていると健康を害しやすいということもあるだろう。この二つの要素があるからこそ、人は同じことを一生繰り返さないで済む。
あのイチローが例の黒いバットを使わなくなるとしたら、余程のことがあるだろうが、ありえないわけではない。極度の打撃不振に陥り、偶然握った白バットでヒットが生まれる。ヒットが続く限りは使ってみよう、と。それからクロバットには見向きもしなくなるかも知れない。
反復の快楽。これがあるから人はこうも変わらないのだ。

2010年10月19日火曜日

フランス留学記(1987年) 第六話 見通しはにわかに明るくなった(中)

実は今週は分析学会があるので、留学記の掲載はラクである。こんな留学記でも、同様の経験をした方は同一化できるようである。私が10年以上もまじめに全会期間を出席しているのはこの学会だけである。

(承前)幾人かの患者を担当し、少なからずデイホスビタルに出入りするうちに、私はそこでの治療の在り方にいろいろ考えさせられた。それまでもネッケル病院精神科のデイホスビタルの在り方についていろいろ耳にすることがあったが、私は自分で関わっている訳ではないのでその通りなのか分からない、というのが本当の気持ちであった。しかし患者と話し始めて先ず感じたことは、私自身がいつも感じていた、デイホスビタルへ足を踏み入れる際の敷居の高さ、スタッフと接する際の抵抗感とほぼ同様のものを、一部の患者達も感じているという事である。私が患者を持つ際に、決まってギリベール氏は言った。「この患者は操作的だから巻きこまれないように気を付けろよ。」私はその種の失敗なら経験がない訳ではない、と答えつつ、いつも同じことを言われることに戸惑った。
しかしやがてデイホスピタル全体の雰囲気に管理的な色彩が強い事に気がついた。ある種の甘えや依存的な態度に対しては容赦しないというスタッフ達の態度が常に感じられた。例えばある聲の女性の患者が躁転し、病棟じゅうの人にひっきりなしに話し掛け、付まとって困らせるという事が起こる。その時作業療法士のイザベルや看護婦のシルビイはうんざりした、という表情を露骨に出し、彼女を叱りつける。その様な対応の仕方は私が日本で経験したものとは確かに違っていた。よくよく考えれば、それはまさにパリの冷たさそのものの現われと言えた。言葉の不自由な者に対して手を差し伸べない、徹底したまでの個人主義が彼等の思考の基本にある。彼等にとって精神的な病故に苦しむ者に対して、必要以上に寛容な態度で接する正当な理由などない、と考えるのは自然なことであるとも言える。
私が病院で過ごす時間を有意義なものにすることが出来たのは他にも理由があつた。それはフーション医師の、週三回の午後の診察に立ち会うことが出来るようになった為である。フーション医師は以前ネッケル病院で働いていた時期があり、今でも当時からの患者を、火、木、金の午後に診療していた。私は半ば偶然の事から同医師の指導が受けられるようになった。今から思えばよくぞ彼はここまで面倒を見てくれたと思うほどである。彼が午後の診察の際にみる数人の患者に私は殆どすべて立ち会えた上に、その前後にはその患者の治療経過等についてかなり長く話し合う機会を持ってくれた。
私はフーション医師の、穏やかな、かつ率直な治療態度に惹かれた。私とは一世代近くも年が上にもかかわらず、私の述べる考えに対してもそれを静かに聞いてくれた後、彼自身の考え方を分かりやすく伝えてくれた。一緒に診察された患者達には迷惑だったろうが、( 勿論彼等には事前に承諾は得ていたのであるが) 私はベテランの医師の診療の様子を見ることが出来、そのうえフランスの精神医療についてかなり突っ込んだ質問をする機会を初めて持てた。何しろ医長のギリべール氏はいつも忙しく動き回っていて、やっとつかまえて話す機会を得ても、私が口篭ろうものならすぐに何処かにダイヤルを回し始める具合だったし、ぺリシエ教授に至つてはまず秘書に面会の予約をして二、三週間は待たなくてはならなかった。
始めのうちは午後の時間を有効に使う手段であったこの週三回のフーション医師の診察の見学も、私の仕事が徐々に出来ていくうちに時間の都合をつけつつ顔を出す、という様になって来た。デイホスビタルで担当する患者も三人となり、夕方まで常にすべき事がある、という事もまれではなくなった。私にすればこれは歓迎すべき事だった。それまでは病院で暇を持て余して本を読んで過ごす、という事が多かったからである。パリの病院に研修に来ていてその臨床を体験しないのではつまらない。一年間しかないのであるから、むしろ出来るだけ多くのものを見聞きすべきかとも思うが、私は一度に多くのことができない。すると結局今しか出来ないこと、つまり病院で出来るだけ実際の診療に顔を突っ込み、分からないことを恥を恐れず臆面もなく聞く、ということになる。
これが「今しか出来ないこと」なのは多分に私の年齢に関係がある。病院のスタッフは幸いにも30才の私を、20代前半のエクステルヌ達と同様に扱ってくれ、私も変な面子を気にせずにすむのである。しかし一方では半人前扱いをされることに対するフラストレーションが溜まってくる。もう少しましな形でここにいることが出来たら、と常に考えている。
但しこの苦労を先延ばしにして、例えば40代になってから同様のことをする気にはなれない。別にこの苦労をどうしても体験して置かなくてはいけないような必然性は見あたらないが、この苦労を避けて終わって仕舞う、というのも嘘のような気がする・・・・・・。このようなことを今後フランスに来る明確な予定がないにもかかわらず考えてしまうところが自分でもおかしい、という自覚はあるのだが。このようなことを考えながら、私は時には全く仕事もないにもかかわらずに遅くまで病院に残っていることが多かった。そのような私を見て、ギリベール医長は不思議そうな顔をするだけだった。(続く)

2010年10月18日月曜日

フランス留学記(1987年)第六話 見通しは急に明るくなった(1)

「猛暑」の名残のためか、気持ちのいい季節を例年より少し長く楽しめている。でも冬は憂鬱である。これから4,5ヶ月の辛抱か、などと考えている。

三月になった。陽射しが一日ごとに延び、パリにも遅い春の訪れが感じられる様になった。私はそれまでとはかなり変わった気分で毎日を送っていた。メトロを行きかう人々も、相変らずくすんだ色の町並みも、目に馴染んでむしろ心地好く映る。私のこれまでとは違う上機嫌にはそれなりのきっかけがあった。二月の終わりのある日、スイスのある公的機関から電話があり、私は当地で発病した患者に付き添って日本の精神病院を受診する、という任務を負って一時帰国することになったのだ。私は飛行機の中で突然「降りる」、といって叫び出すその女性を宥めつつ成田まで飛び、都内の某病院まで同伴した後に、あれほど待ち望んだ東京での生活を五日間だけ味わった。
私はどうして自分が五日間だけで戻って来てしまったのか分からない。旅費の他にも二週間前後の滞在費は保証されていたのであるから、もう少し羽を伸ばして日本の空気を存分に吸って来れば良かつたのである。しかし私の中での日本は、その夢を簡単には壊せないようなファンタジーに包まれ始めていた様である。私はその限られた時間を、9年にわたって住み馴れた新宿の繁華街のビジネス・ホテルで過ごした。私はそこで、夜はテレビを飽く事なく眺め、昼は繁華街を歩き回り、本屋で立ち読みをし、なじみの新宿の喫茶店「カトレア」でパリには存在すらしないアイス・コーヒ一を注文し、周囲の客を眺めて過ごした。不思議なもので、パリにすぐ戻ることを前提としていると、慣れ親しんだ東京の雑踏の中にいても、まるで外国にいるような違和感が有る。何か来てはいけない所に居る様な気分なのだ。
半年間求め続けた東京の空気を思い掛けなく味わってしまった私は、パリに戻ってから少しは冷静にそこでの生活を見直す気分になった様だ。まるで浮気の相手に対する熱が冷め、再び本妻に愛情を向けるようになったようなものである。但し本来はどう考えてもパリの方が浮気の相手だったはずであるが。
私の上機嫌はもう一つ別の原因にも支えられていた。というのも私は三月の始めにようやく病院で患者を「受け持つ」事が出来たからである。私は一人のデイホスピタルの新入院患者を担当医として任された。と言ってもデイホスピタルの主任のジョンドル医師やギリベール医師にことある毎に助けてもらいながらであるが。十年来慢性的な欝状態にあり、しばしば入退院を繰り返してきたその中年女性の患者は、どうやら私を主治医として認定してくれたらしく、週三回デイホスピタルに通って来ては私との面談に応じる、というリズムが出来た。私は言葉のハンディを越えてとりあえずは治療関係らしきものが成立することをようやく自ら確かめる事が出来た。
私が恐れていたのは、患者が私とのコミュニケーションを拒否し、主治医として認めてくれないのではないかという事であつた。患者の話が全く分からず、患者が私との会話が不充分な形でしか成立しないと判断して、私に黙って他の医師に交代を要求しに行って仕舞う、といったシーンは実際何度か夢にまで出て来た。しかし実際に患者と接するようになると、そこに現われる訴えは私が日本で聞いたものと基本的には大差無く、それに対する自分の経験を手掛かりに患者との対話に入ることは思ったより容易であることがわかった。
私が始めに受け持ったデイホスビタルの患者は、幸運な事に私にささやかな自信を与えてくれるには絶好であった。彼女は対人緊張が強く、私と話すのでさえ恐いが、私が少しも威圧的でないので(といってもそうしようと思っても出来ないではないか)気が体まる、といった。私にとっては当のフランス人が私に対して緊張しているなどまさに晴天のへきれきだったが、おかげで私の側の緊張は殆どなくなってしまった。私の病院での立場は若干変わり出した。患者の治療に関してのデイホスピタルのスタッフとの情報交換が必要となるため、それを機会に私は特に多くの女性の、私自身にとって対人恐怖の対象になっていた人々と頻繁に言葉を交す機会が出来た。
これまで私をどの様な身分として扱うべきかについて戸惑い気味のようだったスタッフ達は私にとりあえず医師としての振舞いを要求するようになった。私にはこれは張り合いが出る反面、それに伴う不安も生じた。患者を担当するとなると、そこには私の言葉の力では及ばない事柄をも何とか処理しなくてはならないからである。しかしともかくも私の病院で曲がりなりにも役割を与えられたことがこれほどまでに私のパリ全体に対する見方を変えるものとは思ってなかった。と同時にここまで自分の役割の有無にこだわる自分自身についても呆れてしまった。どうやら私は傍観者のままでいることがよほど苦手なようである。一方では人前では気後れがして話せない事に悩んでいるのに、である。
私が二番目に受け持ったデイホスピタルの患者もまた、幸運な事に私に自信を与えてくれた。38になる公務員のD氏は、昨年から自殺企図を繰り返し、この10箇月ほど仕事を離れ病院の入退院を繰り返した後にネッケルのデイホスピタルに毎日通うようになった。彼は慢性的な不安を訴え、スタッフとの対話でそれを紛らわすことを常に求めていた。彼はその不安をアルコールや、麻薬を少量含む下病止めの薬によっても解消していたが、一方では極めて率直であり、その事実を決して医師の前で隠そうとしなかった。私は毎日30分足らずの時間を彼との対話に費やし、彼の不安を軽減する方法を話し合った。つたない自分のフランス語にはいらいらするばかりだが、D氏はそれを意に介する様子を見せず、またこの対話を必要としている様子をはっきり示した。彼の不安がメジャートランキライザーにかなりよく反応することが分かって、その調節というはっきりとした私の役目が加わったことも影響した。(続く)

2010年10月17日日曜日

フランス留学記(1987年) 第5章「喋りたい、喋れない」(後)

今日は表参道の「こどもの城」で対象関係論セミナー。北山先生、藤山先生の講義の司会であるが、つくづくこの日本を代表する分析家の講義の充実ぶりに舌を巻く。仕事が終わり自宅まで歩く。半袖でも肌に心地よい風を楽しむ。それにとってもウイニコットという分析家。お二人の講義を聞いてその奥深さを痛感した。


(承前)ネッケル病院での実習をしながら、私はよく学生時代の病院実習のことを思い出した。医学部の三年、四年になると学生はそれぞれ自分の興味があったり苦手だったりする科の実習を、都内の病院でさせて貰った。私は四年のときある病院の産婦人科を回ったが、妊婦の腹囲を測るのでさえ満足に出来なかった。それはまだプロでもなく、患者に責任のない私が、おっかなびっくり、しかも患者にそれと悟られる事なくすることに対する一種の恐怖からであった。一緒に回ったクラスメートは比較的抵抗なくそれをこなし、既に一人前の医師としての雰囲気を持っていた。私はひそかに正式に医者になってもこの小心さを克服出来ないのではないかと思い、憂鬱になったものだった。しかしこれは杞憂に過ぎなかったことが後で分かった。一人の患者についての責任を主治医として負うことは、それが避けられない自分の仕事となった場合は、一方での苦労と同時に満足感も与えてくれたのである。
病院で患者を直接診療したい、でも一方では自信がない、喋りたい、でもそれが恐い、といつた葛藤は、パリでの生活の中でも最もつらい体験と言えた。一方ではファティマは活動の範囲が広がり、またギリベール医師も彼女には種々の仕事を言い付けるようであり、これがまた私の自尊心を変に傷付ける。朝目が醒め、今日も病院に行くのかと思うと憂醫になる。しかし病院に通うのを止めてしまうことはもっと屈辱のようで耐えられなかった。もしこのストレスが自分の忍耐の限界を越えているとしたら、テレンバッハの「レマネンツ状況」のようなことになり、このまま欝になって朝起きられなくなるのかも知れない、などと考えたりした。これからずっとここに滞在して医者をやろうというわけでもなく、せいぜい一年の研修というのに、何をこだわっているのかと自分でも思った。しかしどうしても病院での不適応は、全て引っ込み思案な自分の性格のせいのような気がして看過出来ない。他方では、日本にあのまま居たならばこの歳でいまさら自分の性格についてあれこれ思い悩むこともなかったのに、などと思ったりもした。
しかし結局私には思ったよりエネルギーの余裕があったようである。私はある日ギリベール医師に、どうしてもっとやる事を与えてくれないのか、と詰め寄った。きっと私にしてはすごく怖い顔をしていたのだろう。ギリベール医師は、それを聞いて意外といった顔をし、「少しは自信がついたのかい?」と言った。「自信は余りないけれど、何かをしたいんです。」ギリベール医師は当惑した顔をし、それでも考えて置こう、と返事をしてくれた。そばで一部始終を見ていたファティマが呆れたように、「馬鹿ね。自信がなくても、有るって言うのよ。あたしはそう言ったからうまく行ったのよ。」「でも自信がないのをあるとは言えないよ。具体的に何をどれだけやれたかを評価して貰うしかないよ。少なくとも日本人は普通はそう考えるんだ。」
それから私とファティマはカフェでこの反応の仕方の違いに刺激されてそれについて長いお喋りをした。私の一年間のネッケルでの滯在で一番の転機を挙げるとすれば、二月の始めに初めて教授の診察の際に症例提示をしたことである。本来はエクステルヌが主としてやる事になっているが、私の心境を察したギリベール医師やファティマが勧めてくれたのである。私はその日に訪れた欝病の婦人と付き添いの夫に対して面談を行ない、それを教授に報告した。私はそれまでの気遺いの大部分が不必要であったことが分かった。わたしは日本で患者を前にしたときと本質的には変わりなくその夫妻と応対することが出来た。勿論言葉の障害マはいつものように付きまとっていたが、それは他の医師の診察に立ち会った場合や、デイポスビタルの週一回の集まりでの議論が理解出来ない、といった絶望感からすれば意外な程に容易であった。その日を期に私の恐怖症が解消したとは言えないまでも、私には少し先が見えたような気持ちがした。それは私のフランス滞在の主たる目的の一つ、即ち外国において精神科の医師として活動することが全く不可能なのか否かという疑問にある種の回答を示してくれたのである。
私はフランスで医師として生計を立てることは、それが法的に可能かは別として殆ど考えていなかったが、少なくともその様な努力を重ね、その他の好条件が整ったならば、全く不可能という訳ではない、という自信が生まれた。しかし一方ではフランス人同志の会話についていけないとき、これが分かるようになる時期は一生訪れないのではないか、と思うこともしばしばあった。私はこの矛盾を不思議に思った。(第5話終り)

2010年10月16日土曜日

フランス留学記(1987年)  第5章 「喋りたい、喋れない」(中)

ほとんど愚痴をこぼしているだけという私の「留学記」を粛々と続ける。


パリの大学病院の精神科で研修をしていて思うのは、実に多くの研究会や講義がパリの各地で開かれるということである。精神科の掲示版には、常に多くの研究会の案内が貼られ、その気があってもとても全部参加してはいられない。私は出不精ながらいくつかの興味有るものには顔を出した。
年が明けて一月の始めに、ラカン派の集まり"1e Champ Freudien" の「日仏グループ」が主催して、「日本的なものLa chose Japonaise」と題して学会が開かれた。その狙いはラカンが生前語っていた、日本(人)における主体(主語)、ないしsigne の欠如、ということについての検討ということであった。朝から昼食をはさんで夕方までぶっとおしの議論が行なわれ、その締め括りとして最後に主催者のジャック・アラン・ミレル氏(ラカンの娘婿であり、後継者)が長々と演説を行なった。彼はラカンの「日本人は無意識の中に閉ざされている」という言葉の引用に始まり、日本人の心性についての生前のラカンのただならぬ関心を語つたが、それはラカンの死後必ずしも一時の隆盛を保っているとはいえないラカン派の精神分析が新たな話題を提供することを意図している様に思えた。
それを聞きながら、私はそこに参加している人の半数ほどの日本人達が、自らの主体性の存否を問われている議論に対してなぜ多少なりとも慣りをもって応じないのかと疑問に思っていた。勿論ラカン自身の意図がそのレベルになかったことはわかるが、その様な問題の立て方についての日本人としての素朴な感情の方が、ラカンのともすれば断片的で真意を掘みかねる言説の解釈学以上に私には興味のある点であった。但し私は参加者のフランス語での応酬について行くことが出来ず、自分の興味のある論点に関して断片的な発言をする以上のことは何も出来なかつたが。
私達留学生の、比較的単調な毎日にも、四箇月目を越えるあたりから変化が生じるごとになった。ファティマの動きが明らかにそれまでと異なって来たことは述べた。彼女は同じシリア出身のドレッドにつきアラプ系の何人かの患者を一緒に見るようになっていた。私にも既に二人日本人の患者はあったし、ファティマが患者を持つことそれ自体は特別の事とも思えなかったが、そのうち彼女は毎週水曜に行なわれている教授の診察の時に症例のプレゼンテーションをする、と言い出す。(これはその日の新患を30分足らずで診察し、医局員の前で教授に彼自身の診察に先だって纏めて報告するもので、通常はアンテルヌ(インターン、研修医)やエクステルヌ(医学生)が交替で行なっている。それを私達留学生が行なうことは比較的大変な作業であった。)そして私がハラハラ見ているのをよそ目に、初めてとしては見事にそれをやってのけてしまった。私はそれを見ながら、ファティマにできるのであれば、わたしもできるはずだ、と考えた。しかし自分も彼女のように自分から志願してプレセンテーションをするだけの自信はどうしてもないのである。わたしはいよいよ一人取り残された、という気がした。
フランスの病院でのもうひとつの苦労は、フランス人の手書きの文字の読みにくさであった。こちらでは男女を問わず、丁寧に書かれた文字というのが希で、しかも個人個人が勝手に文字を崩して書くため、せめてカルテを見て患一者の状態を少しでも把握したいと思っても、それにはまた途方もない時間がかかった。言集も分からず、文字も(勿論タイプされたものは別として)分からないとあっては落ち込まない方がおかしいかも知れない。またこの頃私はひどい風邪にやられ、四日間の間満足に外に出られない、という目にあつた。病院通いを返上して大学都市の狭い部屋で一日じゅう横になっていると、日本のことが無性に思い出された。一度体み出すと、毎日せっせと通ったとはいえ気が進まなかつた病院にますます行く気がなくなる。いかに無理をして、毎日病院に顔を出していたかをしみじみ感じるのである。いっそこのまま日本に帰る訳もいかないか、などとも考えたりしていた。
熱も下がってようやく病院に出ると、ちょうどエクステルヌの交代の時期で、それまでにかなり気心の知れていた幾人かのエクステルヌに交わって、新しいエクステルヌが通う様になっていたが、彼等のフランス語がまた途方もなく早くて少しもわからず、ますます私だけが取り残されたような感じが強くなった。後に思い出しても、この頃が最も辛い時期だったようである。私はその頃よく夕食を共にした、大学都市の同じ館に住む大学教師のE氏や、日ごろのお喋りの相手のファティマ、ドレッド、心理の学生のマリー・テレーズを相手に、「毎日がつらくて仕様がない」、と何度もぼやいた。私が患者を相手にして治療者として話すことにどうしても自信が持てず、その為に何らかの責任ある仕事を持たせてほしいという旨を医長のギリベール氏に言い出せないこと、そして彼も私が自信のないのを感じ取り、私に責任を持たせてくれなかった事などを、自分でも情なくなるほどに何度も繰り返したのである。フランス人の常で、自分からそのことを言い出さない限り、その人が意欲があるとは認められない。ところが私は一方ではもし何らかの仕事をどうしても負わされたとしたら、きっと何とかするだろうと思うのである。もしある患者について全面的な責任を持ち、それを回りが認めるのであれば、私はむしろ容易に自分のtimidité(気弱さ)を克服出来るであろう。(続く)

2010年10月15日金曜日

フランス留学記(1987年)      第5話 喋りたい、喋れない(前)

魚のことで大変なことが起きた。黒い魚が二匹、死んでしまったのである。昨日あたりから動きが鈍く、餌をやっても食いつきが悪かったと思ったら・・・・今日再びパソコンを開けて自分のブログに行ったら、すでにお腹を上にして浮かんでいた。手厚く葬っておいた。


年が明けて、とうとう恐れていたパリの寒さがやって来た。朝晩は零度付近を行ったり来たりしていた気温が、ある晩みるみるうちに下がり、これは只事じやないと思いつつ帰宅をし、窓の外に出してある寒暖計を見ると、マイナス10度を越えていた。その上パリには珍しく雪が降り、しかも一度降った雪はその気温では溶けるわけもなく道の上に溜まり、町は泥交じりの雪のぬかるみと化した。それに去年の暮れ以来延々と続いている鉄道、地下鉄、バス等のストライキも重なり、毎日病院に通うのに実に骨が折れた。
私の「戦い」の場所である病院での毎日も、それなりに変化が起きて来ていた。特に一緒に始めた留学生のファティマの変化にも目を見張るものがあった。私達は初めからお互いをライバルのように見なしていたので、この彼女の変化には私の方が動揺した。私の病院での目標はそれ自身は極めて単純なものであることは述べた。いかにそこの活動の中に入り込むか。そしてその為にするべきこともまた明らかだった。自分から行動を起こして自分の意欲を示し、それにより少しずつ病院の中で何らかの役割を果たして行くことである。その最終点は恐らく外来患者を一人でみるということであろうが、それは資格の関係上から許してもらえないだろうし、また到底その様な勇気もなかつた。しかしそこまでの間に出来る事は色々あった。
例えば毎日顔を出して、受け付けのアリエットがひまをもてあましているときにお喋りに行く、というのだって、それを堂々と行い、そしてアリエットが迷惑に思わないのであれば、一つの役割になりはしないか?大体が患者の数も少なく、一日のかなりの部分を他のスタッフとお喋りに費やすといつた二ュアンスが、特にエクステルヌや一部の看護婦にはあった。私もそれに加わりたいのであるが、それを自然にするだけの余裕がないから尻込みをすることになる。何とか積極的にしようと思っても、こればかりはどうしようもない。しかしそれをスタッフ達は私が社交性がないから、という様に受け取っている様である。病院に通い始めてもう四か月になるのに、言葉をまともに交したことのないスタッフはまだ沢山いた。彼等は私の顔を見ても、型通りの挨拶をすると、にこりともせず自分の仕事を続けたり他の人と楽しげに会話を始めたりする。しかしその原因は明らかに私のほうからの拒絶にあるのが分かる。私が言葉をかけるのをためらうのが彼等にわかり、彼等の方も気軽でない私とコミュニケーションを積極的には望まない。そしてこれらの事情は始めのうちは、アラプ人にしては珍しく自分を臆病timideと表現するファテイマも同じだつたはずである。私達は午前中で早々と病院を切り上げるとその近くの行き付けのカフェで毎日のように愚痴をこぼしあっていたのだから。しかし彼女は、まるで何かに憑かれたように、接触を持てる可能性のある人に次々と食い付いて行くようになった。昼食後も病院に取って返し、自分に出来る事はないかをしきりに搜し回り、タ方まで残る様になった。
それに従ってにわかに彼女のフランス語の理解の度合いも表現の力も増して行く様だった。これは私には少なからずショックだった。元々彼女と私には大体機会を分担して一緒のベースでやっていくという暗黙の了解があったが、それを彼女の方から一方的に破ったことになる。こうなると私も黙って見てはいられなくなった。結局彼女と同じようにこれまでのように午前中で病院を引き上げるということをせずに、出来る限りスタッフの傍にいて症例を一緒に見せて貰う、という努力を払うことになってしまった。そのため私の生活のペースも多少なりとも変わらざるを得なくなった。午前だけで帰ってしまう限り病院は依然としてそこからの逃避するところでしかない。しかし一日の大半を過ごすならば覚悟が違う。そしてそうしようと思えば逆に気楽な気になることもあるから不思議である。しかし一緒に病院に残っていても私は彼女のように人の中に入って行けず、取り残されて寂しい想いをすることが多かった。(続く)

2010年10月14日木曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(後)

一年で一番いい季節である。このところブログの更新が「楽」である。23年ぶりの自分の原稿の誤字をチェックしながら読み進め、全然メンタリティとしては変わっていない(進歩していない?)と感じる。もしまたパリ留学を一年するならば、きっと似たような内容の文を書くような気がする・・・・。

年も押しつまり、朝晩の寒さがこたえる時期になると、あれほど毎日を重苦しいと感じていた渡仏直後の時期とは、少し気分が違って来た。精神医学的には外国生活を始めてから三か月頃がカルチャーショックの最も起こりやすい時期であると唱える人があるが、丁度三か月目を過ぎ、街がクリスマスの飾り付けに忙しくなることになっても、私の心には特別「異常」と思える事態は生じていない。初めの内は、自分が欝になるのではないか、ひょっとすると分裂病(統合失調症)が発病するのではないか、などという不安があったが、その様なことの起きる気配は今のところない。私は自分が持っていた耐性に少し安心した。日本を出る前は、自分が外国生活という状況にどの様に反応するのかという予想がつかず、最悪の状態まで想像していたのである。
毎日の寂しさを救ってくれるものの一つとして、テレビがある。私は十月の終わりに白黒のテレビを購入し、本当は禁止されているのを無視して大学都市の我が部屋に持ちこんでいた。それ以来生活のリズムがかなり変ったという気がする。パリでは現在TF1, Antenne2, FR3, LA CINQ, CANAL+, M6の6チャンネルがうつる。どれも取り立てて手間をかけた番組を作っているという印象を受けず、映画とニユース、後はバラエテイ番組や埋め草としてのアニメ (日本のものが圧倒的に多い!) が主流を占めるが、それでもラジオとは全く異なり、少なくとも我慢してつきあっているということはなく、少し退屈するとかなり積極的にスイッチを操っている。もししっかり身を入れて見るのであれば言葉の習得にとっても最通であることは言うまでもない。特に夜眠れずにいるときなどは退屈凌ぎとしてもよい。少なくともLA CINQは夜中の三時近くまでやっている。といっても何年も前の、「刑事コジャック」や「スタートレック」などテレビ映画を繰り返し放映しているのだが。CANAL+はやはり夜中までやっていて、映画を連続で流しているが、デコーダーという機械を月200フラン出して借りなくては聴取出来ない仕組みになっている。
番組を見ていると、つくづく登場する人達の態度の、日本との相違を感じる。全体の印象としては、出ている人達が自分の感情、嗜好を隠そうとしないという感じである。よく店のカウンタ一や郵便局の窓口で、店員や係員が隣同志でお喋りして、それが一段落するまでは客の応対をしない、ということがあるが、さすがにテレビに出ている人にはそこまでは行かないにしても、それとすこし似たような状況に出会う。日本のタレント達の様に試聴者へのサービス精神に満ちてはいず、例えばクイズ番組でスイッチを押すだけのアシスタントが、「退屈だわ」と言わんばかりに溜め息をついたりする。またテレビという媒体を通して多数の試聴者と接していることによる緊張、はにかみといったものが初めから表現を許されないため、日本でその様な感情が起きる様な場面で、迷惑しているのは自分の方だ、といった表情を見せる。クイズ番組でゲストが間違いの答えを出すと、彼は照れるかわりに如何にも不愉快だ、といった感じで顔をしかめる。
街で通行人をつかまえてのインタビュウを録画した番組では、日本でよく見られる様に恥ずかしそうに笑いながらカメラを避けて逃げるような人はなく、ちょっと戸惑った後、開き直って堂々と意見を述べるか、あるいは初めからほっといてくれ、と言ってインタビュアーに本気で抵抗するか、である。またそういう時はインタビュアーも負けてはいない。無愛想に行って仕舞う通行人には、肩をすくめて「正々堂々と意見を言えない人は御手上げだ」、といった表情を作る。インタビュウされた人が「あなたの質問の意味が分からない」、と抵抗されると、インタビュアーは「あなたは何の質問の意味が分からないのか」、などととぼけてなお食い下がる。
このようなシーンをテレビで眺めることは、実際の対人場面で悩まされるのとは違って、純粋に「マン・ワッチング」をしている様で面白い。こんな時自分だったらどうするだろう、と少し距離をおいて冷静に考えることが出来る。フランス人の物腰や態度を見ながらその根本に流れるものは何かをあえて問うていくと、私は結局「粋」である、ということに行き当たる。思うにフランス人にとつて「粋」であることは、生きる上での原則といった感じである。彼等は常に決して人からやぼったいと思われる様な態度、人に馬鹿にされたり弱みに付け込まれるようなことは言ったりしたりしない。Le ridicule tue (馬鹿にされるのは命とりである。) という表現が見事に示す通り、他人に明らかな弱みを見せること、あるいはその弱みを晒したという事実を認めることは、そのままその存在をも否定され兼ねないことになる。従って「粋」とは「開き直ること」ということでもある。誰もが気付いている通り、人間の弱み、とはそれを自認する態度をもって完成するのである。フランス人の他人を射る様な視線は、まさに弱みを決して認めず、あくまで開き直り続ける、という姿勢である、といえる。
私はまた「粋」である、ということを、ひそかに「セクシ一である」ということに置き代えてもいる。私はこれまで当り前過ぎて述べていなかったが、フランスで出会う人々は男女共にことごとくシックでセクシーであり、この点だけは多くの日本人は絶対にかなわない。ここまで言いきって仕舞うのはもう私の偏見以外のなにものでもないかも知れないが、しかし私は何も日本人鼻の低さといったレベルについて云々しているのではない。日本人にとって「粋」であることは必ずしも重要でないばかりか、自己を卑下し、とりつくろわないことは積極的な意味をも持つ。それを再びテレビの話題との関連で言うならば、フランス人の笑いはこのトボケないし自己卑下的な言葉の生み出す笑いが余り伝わって来ない。フランス人が好むのは政治家の物真似やあてこすりといった、フロイトだったら、hostile jokeと分類するであろうジョークが主流を占めるようである。(終)

2010年10月13日水曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(中)

留学記は相変わらずだが、すこしは役に立っているという読者の方の声もあるので続けようと思う。実はあまり残っていないのだ。

街はそろそろクリスマスシーズンが近付き、静かながらもどこか活気を帯びて来た。フランス人は一般に夏の休暇が長いが、冬にまで長く休もうとはさすがに思わないらしい。それでもこれまで聴講していた大学の幾つかのクラスも一ケ月近く休みに入り、私も次第にその分時間がとれる様になってくる。私は週のうち平均して三コマの授業に出る様になっている。授業といっても少人数の日本で「クルズス」と呼んでいた感じの、しかも精神科の専門過程の学生を基本的には対象としているものであるが、誰でも気軽に聞きに行けるといったものである。一つはサンタンヌ病院での臨床講義、もう一つはネッケル病院の精神科で行なわれる精神療法の講義、そして最後はネッケ.ル病院の小児精神科での臨床講義である。
私はこれらのうち外国人留学生を専ら対象とするものや、数人以下の授業の場合などには、質問などの形で発言することにさほど抵抗を感じないようになっていた。勿論授業の内容がある程度理解出来て、それに対して自分の中に表現したい内容が生まれる、という場合に限られる。これはネッケルの精神科での様々な集まりについても同様である。何か発言することによって初めて自分も少しは授業に参加している、という気持ちになり安心するのである。逆に発言するチャンスを窺っているうちに突然話題が変わって、それを果たせなかった場合は、大学都市に帰って一人部屋に向かっていると、まるで自分が無くなってしまった様な、今日一日何をやったのだろう、という気分になり、むしろ精神衛生上よくない。人前でたどたどしいフランス語を披露するのも辛いが、それが出来ずに過ごす夜も苦しいのである。
もっともこれらの心理状態の裏には当然ながら「うまく発言をして自分の存在を知らせたい」という願いがあるのだが。この様な問題を実際抱えながら日本から持参した内沼幸雄氏の「対人恐怖の人間学」を寝る前に改めて読み返すと、まるで自分が患者の立場に立った様で改めて考えさせられることが多い。
すこし話題が変わるが、このごろやはりよく考えされられることについても書いて置きたい。それは私が持っていた欧米人へのコンプレックスのうち、その独創性や生産性の問題についてである。これまでも繰り返したように、彼等は自己主張が強く、常にある事柄について一定の息見を持ち、それを臆する事なく語るということが常識とされる。私はそこに同時に彼等の創造性をも読みこんで仕舞う傾向にあった。それに対して日本人は、欧米人の主張ないし、彼等の作り出したものを模倣し、改良したものを生産する傾向が強いという訳である。言うまでもなく、この明治以来さんざんに言い古された日欧比較論は極めて一面的なものでしかない可能性がある。自己主張が強いこととその内容の生産性とは必ずしも一致しない。それならば日本人は既成の考え方にとらわれない独自の考え方をり保ちさえすれば、とりあえずは救われる、という気がする。
やや一般化した言い方をしたが、これは私がネッケル病院に来て以来持ったフランスの精神科医や医学生との議論の間常に考えさせられることであり、ここでの「日本人」とは、彼等フランス人の前でその主張の強さに圧倒されて言葉を失い、そのことへの言いわけを考えている私のことなのである。私はしばしば彼等の声の大きさとその断定的な言い方に押され、冷静さを失う。その様なときは彼等の主張がどの程度実質的な意味があるかについて考える余裕を失い、相手を説得出来なかった、という敗北感と空しさを味わう。そこで私はむしろ教師と学生とのやり取り等を第三者的に眺めながらこの問題を考えることが多かった。その結果として私は彼等の自己主張性と独創性ないし議論の生産性との間には、むしろ逆の相関関係が成立している場合が多いのでないかという考えを抱くようになって来た。それは私のフランス人に対する一種のコンプレックスを軽減させることに少なからず役に立って来ている様である。
私が参加している授業では、生徒はそれぞれ目的意識を持って教室にやって来るようであり、授業に出席するのも彼等の自己主張の現われ、といったニュワンスがある。彼等は思い思いの服装をして現われ、教師が座る席を取り囲むようにして授業が始まるのを待つ。授業が始まっても、その一言一言に敏感に反応し、すぐにでも教師との議論が始まる。日本でのどちらかというと受け身的な生徒の態度とはかなり異なるのである。しかしその議論の内容は、教師の言った直接の内容についての矛盾を突く、自分の持っている知識との相違を問い正す、といったことが多い。中には単にへ理屈としか言いようのないことで教師に食い下がるといったことも多く、また教師もそれによく付き合う。フランス語特有のリズミカルな言葉のやり取りで相手を如何に早く黙らせるか、というゲームを楽しんでいるようである。従って彼等の一見内容豊富な議論を聞いていても、その発想の意外性や独創性に惹かれるということは思ったよりは少ない。
この理由についてあれこれ考えて行くと、それはむしろ彼等が過去の具体的な事実、あるいは既存の形式を非常に重んじる傾向に由来するのではないかという考えに行き着く。この結論はこのままでは余りにも言葉足らずだとわかっているが、この授業の場面に関して簡単に言えば、生徒が自己主張する場合、そこには相手との対決というニュワンスがどうしても含まれ、その為に客観的な資料、既成事実に依居するという必要性が生じてくる。それが結果的に彼らを非常に保守的な考え方に閉じ込めているという可能性があるのだ。(続く)

2010年10月12日火曜日

フランス留学記(1987年) 第四話 ドレッドのようにはなれない私(前)

このブログの読者(推定20人)に訂正しなくてはならない。しばらく前に、「御茶ノ水にエレベーターができるのか?」と書いたが、結局違っていた。駅前の売店を大きくコンビニっぽくして新装開店しただけであった。
しかし日中関係はいよいよわからなくなってきた。中国が「お前こそ謝れ」といってきたのに対して、日本が「とんでもない」と少し本気になると、中国政府は何も言ってこないのである。その間にアメリカやヨーロッパからの批判が相次いだからか?もし中国を一人の人間と考えると、これでは会話が成り立たない。相手の本心というものがさっぱり見えてこないのだ。日本はそれこそ「粛々と」自分の主張をするというのがベストだということか?しかしそれにしても、事の顛末が記録されている映像をなぜ公開しないかといえば、「中国側に配慮して」というが、このロジックも中国側のそれ以上に私には不明なのだが・・・・。また日中関係の愚痴になってしまった。外交が自分の仕事に関係なくて、つくづくよかったと思う。
さて以下は、留学期の続きである。


 パリの冬は足が速い。10月ごろにはすでに霜が下りる朝もあり、12月に入るといよいよ本格的な寒さが身にしみる季節になった。折しもパリでは大学入学制度の改革案(デバケ法案)に対する反対の運動が盛り上がり、直ちにそれはC.G.T.やC.F.D.T.などの労働組合団体にまで波及した。そして連日リセの学生が「マニッフ」(示威行進)を繰り広げ、とうとう同法案を廃案に追いやる、という事態が生じていた。あれほど何かと理由をつけては仕事を体みたがる(といっては失礼だが)パリ人の何処にこのエネルギーが潜んでいるのだろうか、と、まるでピクニック気分のようににぎやかなデモ行進を横目に見て歩きながら私は考えていた。
しかしこれも思い直せば当然のこととも言える。彼等フランス人たちは、自分達の権利を要求する為にあらゆる抵抗を行なう用意がある。フランスの歴史は、自由を求めての民衆の闘争の歴史とも言える。日ごろは極端なまでに個人主義的な彼等が連帯するとすればまさにその様な時しかないだろう。
私はこのごろネッケル病院の一人の医師が気になる存在になっていた。彼はドレッドといい、シリアから四年前にパリに来てD.I.S.として研修を続け、今は外国人留学生ながらアンテルヌと同様の働きをしていた。大柄で小太りの体格をした陽気な男で、いつも会う度に髭だらけの顔に笑みを浮かべて握手を求めて来た。彼は症例検討会に機会ある度ごとに自分の症例を提示し、その他の研究会でもいつも進んで意見を述べた。歳は三十代半ばで、またその容貎といい自信に満ちた態度といい、とにかく人を圧倒するものがあった。その言葉はアラブ系の人々に特有のなまりがあるにしても非常に流暢であった。ドレッドが見せたフランス語の習得の早さについてはネッケルの精神科で今でも語り種になっていた。彼自身に聞いた話も総合すると、彼は四年前にパリに着いたとき、フランス語を殆ど知らなかったという。そこで四ヶ月アリアンス・フランセーズ(パリの外国人用の語学学校)に通った後このネッケル病院で研修を始めた。しかし当然のことながら始めは全く言葉が分からず、その頃は相当の苦労をなめたらしい。しかし彼はフランス語以外の一切の言葉を使うことを自らに禁じ、来る日もくる日も医師や看護婦につきまとって終日フランス語を話し続け、半年後には何と初めて「精神療法」の患者を受け持ったという。やがて学部の一年目の試験に合格し、郊外の病院の勤務医として報酬を得るようになり、母国から両親と妻子を呼び寄せ、ますますエネルギッシュに言葉の習得や精神医学の研修活動を続けて現在に至っているという。
「ドレッドはあんたよりよっぼど話せないうちから必死に症例報告をしていたわよ」と看護婦のマルチーヌが私に言い、そう言われた私は落ち込む代わりにちょっとした感動を覚えた。何かにひたむきになっている人を見るのは、それがあからさまな私利を求めるものでなければ心地好いものである。彼の人を真っ直ぐ見据える目と、穏やかだが確信に満ちた、そして時にかなり強引な話し方に触れると、彼に、始めのうちどんなに言葉のハンディの為に悩んだか、などということを聞く気も失せた。
彼は母国のシリアがいかに精神医療の面で立ち遅れているか、自分が一、二年の後に精神科医として帰国した時に待っている仕事がいかに困難を極めるものなのかについて熱つぼく語った。それを聞いている内に、私はこれほど男らしい人はいないだろう、と素朴に感じた。とにかくいつも勇敢に先へ先へと進んで行くその態度には感嘆した。これではフランス語が短期間に上達したのも分かる。彼はフランス語を用いることが必然となるような状態に自分を置き続けたのである。
私はドレッドに、異なる世界でも自らを主張し続け、やがてその地歩を獲得していく人のひな型を見た様な気がした。彼を見ているうちに私にもある種の心境の変化が生じてくるようであった。とにかくドレッドのように前に出ることを考えなくては。少なくとも幾人かの会話の中で、自分にも話す内容があるのにそれを切り出せない、ということでは困る。とにかく発音、言い回しの不充分さ、という考えを頭から除外して何らかの意味内容を伝えられればそれで満足しよう、と一度は決心した。
しかしこの種の「決心」ほど当てにならぬものはない。後に振り返っても私のいつもの引っ込み思案な態度は彼を知った後でも殆ど変わっていなかったと思う。私の中には彼のイメージやその生き方が、一種のプロトタイプとして深く刻まれたものの、私はやはり何時の間にかドレッド流に行きることを深く拒否しているのである。そしてそれは正解だったのだ。要は、世の中には人前であがる、ということが考えられなかったり、自己主張を心から楽しみつつする人がいるものなのだ。そしてそうではない私のような人間もいる・・・・・・。(続く)

閑話休題

「留学記」は第3話まで掲載したところで一休みした。
私の1987年の原稿は、私がワープロを使い始めて二代目のものに打ち込んだ。セイコー・エプソンが初めて本格的なワープロを発売した、確か1985年に早速買い、次の年あたりにそれを改良したものが発売になったものをさっそく買ってパリに渡ったものだ。当然PCとの互換性はなく、その頃の原稿の3.5インチフロッピーディスク(だんだん死語になっていくだろう)は恐らくどこかにあるものの情報を取り出せない。結局プリントアウトしたものはスキャンして読み取るしかない。正確には、スキャンしたものをPDFに直してコピペするのだが、おかしな変換ミスが起きる。それをチェックするだけで結構手間がかかっている。それもあって内容は23年前のままでほとんどチェックする間もなく掲載している。エンターテインメント性ゼロ、というわけだが当時は自分の体験を書けば、人は興味を持ってくれるだろう、とごく単純に考えていたところがある。
読み返してみると、ほんの一年で終わってしまうパリ留学なのに、のんびり観光を決め込もう、あるいはヨーロッパを色々見聞しよう、という余裕はなく、ストイックに言葉を覚え、病院に通って少しでもコミュニケーションを図ろうとしている姿が描かれている。それでどうするのか、と言われれば、「精一杯やるだけだ。怠けている暇はない。」と答えただろう。英語で言うsingle mindedness とはこのような行動様式や思考パターンを言うのであろう。大袈裟に言えば、求道者的というべきか。
このころは朝起きるのが嫌でしょうがなかった。というより月曜を迎えるのが辛かった。またメトロに乗って病院に向かうのか・・・・。つらい、つらい、と言っていた気がする。それほどフランス社会に飛び込んでは瀕死の状態で出てくる、という毎日がストレスだったのだろう。あの種の体験はもうしたくない、というのが実感である。

2010年10月10日日曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(後)

夜神戸から帰宅。今回もいろいろ得るところが大きかった。神戸に行くたびに安先生と会った時のことを思い出す。1997年の秋に神戸に呼んでいただいたときは、まだ地震で横倒しになった建物があった。もちろん今では地震の傷跡などはみじんもない。地震のあと思い切った整地が進み、大胆な区画整理が行われた部分がある、とタクシーの運転手が教えてくれた。
留学記は、私のストイックな生活の記述が続く。

(承前)パリで「日本」を見聞きすることは少なくない。パリはちょっとした日本ブームといった感じがあった。モンパルナスの行きつけの書店フナックの入り口には日本の小説の翻訳の特設コーナーが設けられ、ポンピドゥー・センタ一では「前衛芸術日本」と題して種々の展示がされ、毎日3、4本の日本の映画が3箇月以上放映されることになっていた。またル・モンド誌に突然日本の特集が七ページにわたって組まれたりした。しかしどれもありきたりの紹介に過ぎず、肝心の日本人の心情についてどれだけ積極的に理解しようとしているのか、という点に関しては疑問を感じ続けていた。
フランス人の常かとも思うのであるが、彼等にとって物珍しいもの、目立つものに専ら興味を示し、それでもう分かったことにして仕舞う傾向があるような気がする。カミカーズ(神風)、アラキリ(腹切り)、ミシマ、カラテ、ゼンヌ(禅)、そして急速な経済成長・・・・・・。しかし日本人の控え目さ、謙譲の精神等(勿論良く言えば、の話である)についてそれを少しでも肯定的に受け止めるだけの余地を示す人に出会うことは殆どなかった。それが証拠に日本人の典型であると少なくとも自分では考えているこの私がパリ人と言葉を交すとき、何に苦労しているのかについて、相手からすこしでも理解されていると感じることはなかった。わたしはフランス人と話す時、まるで心の片側があたかも無いものとして振舞う意外に方法はなかったのである。待つことを考えず、とにかく前に出ること。声に出すこと。決して参った、とのサインを出さぬこと。相手から視線をそらさぬこと。これらが幸運にも全て満たされたとき、初めて彼等はコミュニケ一ションの許可を与えてくれる。私がそこに至った過程は顧みられることがないし、根を詰めて10分も話せばもうへとへとになって仕舞っていることも知らない。私にはこの様な日本人とは異なったフランス人の心性が、精神病理の現われ方にどの様に影響しているのかが非常に興味があった。
ネッケル病院では毎週ぺリシエ教授の外来があり、そこで毎回三ケースを選んで彼が面接を行ない、それを殆どの医局員が取り囲んで見学するということが行なわれていた。その治療上の是非はともかく、フランスでの精神科の面接の実際を知る上では非常に良い機会であった。彼等患者は概して自分の病気に対して客観的な見方や語り方をし、その述べ方は確信に満ちている様に見えた。相手が教授だからといって臆する様子も余りなく、しばしばどちらが医者か患者か区別のつかぬような堂々たる議論を始めたりした。またフランスでは処方箋を持って患者が各自薬局に薬を求めに行き、自分で医者の指示通り服薬するというシステムがとられているせいか、患者は誰もが自分に処方されている薬の名前やその効能をそらんじていることの方が当り前であった。
医者の方も、患者の薬に対する不満を聞いた場合、日本で時々するように「じゃ、ちょっと調節しておきますから」というだけでは済まず、どの薬をどれだけ、どの様な理由で増やす、ということを明確に示す。日本の病院で、何種類かの薬を全て粉にして混ぜ、患者の状態に応じて本人にその度に説明する事なく「匙加減」をして投与する、というやり方を一つの典型とすると、こちらでは医者が患者に例えば「食後にのむアルドール(ハロペリドール)を今までの20滴から、今晩から30滴に増やして下さい。」ということになる。
ちなみに患者はそのアルドールの水薬を、医師の処方望を持って街の薬局に行き、その効能書きの入った箱ごと購入してくるから、その過程で自分がその薬を服用する理由についてもある程度受け入れることが前提となっている。私は外来に現われる患者を見ていて次のように感じることがよくあった。つまりフランスの患者は概ね苦しさ、辛さを日本人のような形で表現することは少なく、それを表わすとしたら、周囲に対してかなり直接的な要求となって現われる、と。つまりその中間の、苦しさをそれとなく示唆してこちらからの働きかけを待つ、という部分がそっくり抜け落ちている、という観がある。私には患者の苦痛の訴え方のどれもがそれに対する処置を受けて当然、とのメッセージを含んだものの様に感じられて仕方がない。「人と話すと緊張りするんです。」という「日本人的」な症状でさえ、その訴え方は堂々とし、その目は医師を正面から見据え、こちらを威圧するもの有るのである。
フランスの患者について考えていると、どうしてもフランス人一般について考えを及ぼさざるを得ない。私には彼等の心の動きを十分に掴んだという気持ちをどうしても持てないのである。個々の人々の動きの動機を掴むことはむしろ容易なことも多い。彼等は怒るべき時に怒り、楽しむべき時に楽しみ、主張すべきことを主張する。しかし私自身が同様の立場でそれ等の行動をとるかと考えると話は違ってくる。楽しむにも怒るにも、常に実際行動に移る前にワンクッションが置かれるようである。自分の個々の具体的な行動はどうも彼等とは異なる基準で為されている気がする。
ヤスパースの「説明」と「了解」という概念を多少強引に当てはめてみるならば、私は彼等の行動を「説明」は出来ても十分に「了解」出来ているとは言えない。もっと具体的に言えば、彼等も悩み苦しみ、迷いつつ行動している害なのに、その心の具体的な動きは生き生きと実感を伴って伝わって来ない。彼等はその揺れ動きを具体的な動きとして表わすことが少ない(或いはそれ等を表わす、という発想が少ない)から、それを見ている私は混乱して仕舞うのである。
ただし彼等の行動上の決まりについては有る程度分かるのでそれに従う限り付き合いの上ではさして支障がない。態度を決して暖味にしないこと。そしてその為にはとにかく表現すること。視線を逸らさないこと。自己卑下のニュワンスを含んだメッセージを送らないこと。これらのきまりを念頭に置きながら行動をしさえすれば、彼等との付き合い上さほど間題は起きない。しかし先程述べたように半ば心の半分を切り捨てているので、その様な時のこちらの態度は決して自然ではない。あるいは自然に思わせようとするとかなり疲れる。ただしこれは母国語を自然に使い、生活している彼等の中に、外国人としてとてつもない言葉のハンディを背負ったままいる、という状況のせいかも知れない。その証拠に、殆ど行動を共にすることになる各国からの留学生との付き合いの上では、互いの生育環境や人種の違いは殆ど問題にならなかった。
シリアのファティマはどこからも経済的な接助が得られず、言葉の障害に加えて二重の苦しみを味わっていた。プラシルのクリステイーナはポルトガル語交じりの怪しげなフランスを使いつつ、身振りだけが先行し、しばしば絶旬した。コロンビアのホアンはスペイン語なまりのフランス語を比較的流鴨に話したが、患者からしばしばそのなまりをからかわれたり、わざと俗語を使われたりして困り果てていた。自分の置かれた状況からすれば無理もないのであるが、私はフランスでの患者の病理よりは、パリでの、自分を含めた外国人の心の動きについてあれこれ考える時間がむしろに多かった。彼等は言葉の障害がある限りは、少しでもパリ人との直接の接触を持とうとしたならば、その度に挫折感を味あわなくてはならず、そこでの彼等の果たすことの出来る事柄も彼等が自国でなら可能だったこととは及びもつかない程度のレベルに甘んじなくてはならないことによる。その時に自分を慰めるとすれば、自分がこの様に言葉の障害に苦しむのは当然であり、当のパリ人ももし外国に滞在することになれば同様の苦労をすることになるだろう、などなどとあれこれ想像するしかない。そのうち自分だけが特殊な苦しみを味わわされているという考えから解放されるのである。もしこの思考の流れがスムーズに行く様になったとすれば、いわば「開き直った」状態となり、にわかに苦しみは減ることになる。この理屈には一見無理がなく、早くその様に達観して、もう少し余格を持って生活をしたいと思う。しかし言葉のハンディを始終自覚させられ、そのために実質的な不利益をこうむり続けると、しばしばその様な思考パターンを行なう余裕を奪われてしまう。
結局その苦痛から完全に逃れる唯一の方法は、徹底して同国人との付き合いに頼り、一人で図書館にこもって勉強をすることでしかない。勿論留学の目的は様々であろうが、臨床を目的としている私の場合それをして仕舞ってはパリに来た意味が半減してしまう。それに何よりも言葉の習得は、それが不自由であることからくる屈辱感をエネルギーにしているところがある。私が病院で知る多くの留学生は、このことを本能的に感じ取って、むしろパリという環境に身を挺して飛びこんで行くようなところがある。しかし逆に彼等を見ていると、なんとなく羨ましいと思うと同時に、自分にはそこまでする気はなく、またその必要もない、という気がしてくるのである。(終り)

2010年10月9日土曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(中)

今日はうっとうしい雨。これから神戸に出張である。

(承前)しばらくデイホスピタルに通っていた私は、あるエビソードをきっかけにそれを控えるようになってしまった。それは何よりも私の立場が不安定であることが原因であった。医師として振舞うのであれば、その様な形で漠然と患者の中で過ごすことは彼等に不安を与えるようであった。フランスでは日本に比べて、患者は医師をより近寄りがたい存在と感じるようである。どの医師も病棟で患者の中に入って漠然とそこで過ごす、ということはなかった。それは医師の側にそのつもりがなく、むしろ患者との距離を積極的に一定に保とうとしているのと同時に、患者の側にとっても医師が常に傍に居るのが決して心地の良いものではないからであろう。それに患者の中に溶け込み、自由なコミュニケーションを試みるには何といっても私の言葉のハンディが大きかった。
ある日、私がデイホスピタルに居ると、来る途中に町でアメリカ人に侮辱を受けた、という女性患者が入ってきて私を見て、「外国人は無作法で、もう顔も見たくないわ!」と猛然と怒りをぶちまけて来た。そして彼女はあることを問いつのってきたのだが、私は彼女の言いたいことが理解できずに、反応が遅れた。すると彼女は「あなたが答えないのは一体どういうことだ」と更に語気を荒らげて来た。ちょうどその時私は電話に呼ばれてそこを立ち去つたが、その時以来急に患者の集っている中に足を踏み入れることに抵抗を覚えるようになった。少なくとも彼等に、単に一個人として接することは、医師としての役割を通して接することより却って難しい、ということを認識したのである。
このエビソードは私にとっては辛いものであったが、これまたいろいろ考えさせられる材料を与えてくれた。もともとフランスで患者と治療的に接することは私の第一の目標であり、その為に何かすこしずつ出来ることはないか、と私はいつも考えていた。しかし外来診療をする他の医師に立ち会うことがあっても、私ひとりに任せられる可能性など全く考えられず、またたとえ任されても到底出来るわけがない、という気がしていた。何しろ患者に急に話し掛けられただけでもドキドキして仕舞っているのである。
わたしは常々精神科医として患者と接することは、特に精神療法をも含めたアプローチを目指す場合にはフランス語に熟達し、言葉による意志伝達に関する問題がほぼ消えたところからようやく始まるものと考えていた。そうであるとすれば、患者と何らかの形でじかに接することから出発するしかない。私が患者との接触をデイホスビタルで行なったように側面から試みたのもその様な意図があったのである。しかし当然ながらその様な高度のフランス語のレベルに達することについては絶望的にならざるを得ず、従って患者を精神科的に「診察」することが出来るかどうかについては一方ではかなり悲観的であった。従ってこのデイホスビタルの一件で私はいよいよその様な希望から違ざかる様な気がした。実は後に述べるように事態は思ったよりも容易に進行したのであるが・・・・・・。
ネッケル病院に通い出してから二ヶ月経った。私は依然として戸惑いながら、なんとかそこでの活動に顔だけは出している、といった感じで過ごしていた。一方では日本の新宿あたりの景色を思い出して、無性に帰りたくなる。ふと空を見上げて小さな飛行機を見出しても、それに乗ってすぐ帰りたいなどと思って仕舞うのである。それは一部にはここでの病院通いの苦しさから来ている。時間が経って行くのはある意味では嬉しく、またある意味では苛立たしかった。つまり、それだけ日本に帰る日が近付いたという意味では嬉しく、しかし相変らずの失見当識を正当化する理由が徐々になくなっていく、という意味では困ったことであった。もう、「ここについたばかりですから何も分かりません。」という言いわけがあまり通用しなくなってくる時期なのである。
いつもその様な言いわけを用意して生活する必要が一体有るのかと言われそうであるが、事実私のパリでの生活全体は、いつも「最悪の事態」をいかに避けるか、というテーマのもとにあったようである。その「最悪の事態」とは、例えばフランス人との会話で二度聞き返しても意味が掘めず、そこでコミュニーケションが中断せざるを得ない、といった事態である。相手は一回目はこちらが偶然聞き漏らしたものとして同じスピードで始めの言葉を繰り返す。しかしそれでも分からないと、(大体この辺で私は分かった振りをして仕舞うか、もう一度問い返そうか迷い出すのであるが)彼等はこちらの言葉の力の足りなさに気付き、少し言い方を変えてくる。不幸にしてそれでも分からなかった場合は、彼等は大抵肩をすくめて「もういい」、といつてこちらを見捨てるか、突然英語に切り替えてくるか、ということになる。
いずれにせよもう対話者間の対等な関係というものはなくなり、私は「言葉も分からないのにフランスにいることの責任」をすべて負わされるのである。フランス滞在が二箇月を超えたからといって、そこでの生活に慣れて来た、という実感などはなく、ただ見聞きするものが目新しいという代わりに、もう沢山だ、といううんざりした気持ちの方が先に立つようになってくる。逆に街を歩いていて日本に関する事柄に出会うと無性に嬉しくなる。私はすっかり愛国主義者になってしまった様だ。(続く)

2010年10月8日金曜日

フランス留学記(1987年) 第3章「少しはやれそうな気がした?」(前)

23年前の留学記を読み返すと「読んで面白い」という類のものではないが、少なくともこのころ何を考えていたかはよく思い出す。というよりほとんどのことは忘れていない、という感じだ。パリ留学というと聞こえは華やかだが、内容はずっとこんな地味なことが続いたのだ。

 ネッケル病院に通い始めて一ヵ月ほどすると、私はデイホスピタルで過ごす時間が増えるようになった。そこで精神科の治療者としてふるまう為には、まず患者とのコミュニケーションがそもそも成立することが前提となる。医師やその他のスタッフとは、必要最小限の情報交換は大体可能だが、こちらの言葉のハンディの分だけ向こうに依存した形になる。つまり分からなければしつこく聞き返し、それでも駄目ならイエス、ノ一のはっきりした質問をこちらからして分かりやすい答えをもらうのである。しかし患者との会話の場合はこちらの言葉のハンディをはっきりと前提とするわけにはいかない。更に大概の患者はこちらに気を使ってゆっくり話してくるということは期待出来ない。彼等は自分達の問題で精一杯のなのである。ましてや向精神薬を投与されて発音が明瞭でない患者や、早口で喋りまくる患者、あるいは話の内容がまとまりに欠けている患者、初めからこちらとの接触に積極的でない患者との会話は、日本語ででさえ苦労したという記憶がある。余程寛容かまたは暇な患者でなくては交流が持てないのではないか、という気持ちが始めは強かった。
ネッケル病院のデイホスピタルは、日本の大学病院で体験したものに比べて幾つかの異なる点があった。まずここでは、患者は入院という形をとる。従って患者は昼食を病院で取り、投薬を受ける。週に何日通うかはケースによって異なるが、2日から4日という場合が多い。彼等は決められた週の予定、例えば月曜は午前は創作で午後は映画、火曜は午前はプールで午後は自由、という風なスケジュールに従う。しかし原則としては患者は他人に迷惑が掛からない限りはある程度は自由に過ごすことが許されている。合計二十人に満たない患者は教室一つ分の大きさの部屋で主として過ごすことになる。部屋にはデイ・ホスビタルのスタッフや看護婦が控えていて、患者との対応をしたり、その動きに気を配ったりする。これらの結果は木曜日の、スタッフ全体の集会の際にまとめて討論されることになる。
私はデイホスピタルの部屋に、毎日時間を決めて少しずつ行ってみることにした。言わばフランスでの患者との初めての接触ということになる。私が、部屋の中央の、大きな机の周囲にある椅子のひとつに腰を掛け、ぼんやりと、しかし退屈しているわけでもない、という風にして座っていると、やはり患者達はこの白衣を着た見慣れない東洋人をいぶかしげに思うらしく、不思議そうに眺めるか、それとなく言葉を掛けて来たりする。私は彼等に対して、出来るだけ日本の病院でして来たのと同様の応対を、不自由な言葉ではあるがするように心掛けた。こうして何人かの患者と顔見知りになり、会うたびに少しずつ言葉を交し合う、という関係は、私の危惧とは裏腹に、比較的容易に成立した。
この過程で私はいろいろなことを考えさせられていた。その一つは、日本のデイホスピタルや、比較的軽症の患者の病棟での体験と、有る点ではほとんど同じである、という事である。本来デイ・ホスビタルに自発的に通ってくる、という患者には共通した特徴が考えられる。それは彼等がどの様な仕方ではあれ自分の病気の事実や、自分にとっての病院の必要性を受け入れているという事からくるように思う。彼等は比較的軽症だったり病勢が安定していて、しかし社会復帰には一歩至らず、専ら自宅に引きこもることを避ける為に自発的に通って来る。
この、自分から通って来る、という事がある意味での彼等自身にとっての弱みと感じられることがあるようだ。初めから病院のスタッフを受け入れないのであれば、彼等がそこに居る根拠はなくなることになる。従ってデイホスピタルに来る患者はある程度積極的に接触を求め、強制的に入院させられた患者が時に持つ、ある種の取り着く島のなさというものが余り感じられない。
同様の事は私が初めて直接に言葉を交すことになった患者についても変わりなかつた。私に初めて話しかけて来た30代半ばのP氏は、やや唐突に自分の日本の知識を被露した後に私に幾つかの質問をして来た。その彼との比較的ゆっくりとした言葉のやり取りをしながら、私は何故かフランスに来て初めてある種の対等な関係での会話のすることが出来た、という気がした。私がそれまでに接触した、自負に満ち、一歩もゆずる用意がない、といったフランス人とは違う雰囲気を彼は持って私に語り掛けて来ていたのである。P氏は私の言葉に緊張した面持ちで耳を傾け、それからゆっくりと選びつつ言葉を返してくる。少なくとも私の言い分を途中で遮ってまで畳み掛けてくる他のフランス人とは全く違った印象があった。(余談となるがその後に看護日誌の彼についての看護婦の記載を見、色々な意味で考えさせられてしまった。そこには「思考が抑制され、話し方も緩慢で、しばしば言葉に詰まる。」とあったのである。彼は数ヵ月前に急性幻覚妄想状態に陥り、回復期にあるということであった。)
しかし私はデイホスピタルの患者の持つ、日本では体験しなかった率直さ、ある種の明期さをも感じ取った。彼等はお互いに顔見知りになったと判断した次の日から出会いの際には真っ直ぐに近づいて来て握手を求め、こちらの目を正面から見て「ボンジュール」と接拶をしてくる。私は彼等の示すこのような態度に少しばかりうたれる気がした。これはフランス人一般の挨拶の仕方についても考え直させられる切っ掛けとなった。
彼等の形式的で心のこもっていない様に感じられていた挨拶は、しかし病院で患者から受けると不思議と重みを持ったものに感じられた。彼等は自らの病による悩みによって挨拶をぞんざいにすることは少ないように見える。私は同じような状況で日本で出会った患者達だったらどうしていただろう、などとあれこれ考えたりした。(続く)

2010年10月7日木曜日

フランス留学記(1987年) 第2章「多少理屈っぽい話」(後半)

「読者」から、黒い魚を復活してほしいというリクエストがあった。ところで私は「えさやり」の件を知らなかった。クリックすると、魚たちにえさをやれるのである。自分で知らなくてどうする?っていうか、どうして読者はそれがわかったのだろう?
ところでうちの神様は、全快して戻ってきた。チビが狂喜したことは言うまでもない。
留学期は第2章がクラ~イままで終了し、さらにクラーイ第3章へと続いていく・・・・(もうヤメようか?)

(承前)パリでの生活ではまた、言葉が不自由という以外にも、自分がアジア人であるという事実からくるもろもろの事情も被らなくてはならない。ここでは私は何よりもアジア人、それも大概は中国人ないしベトナム人として先ず識別される。それを例えばカフェに入ってコーヒーを注文する、といった、他人の目に触れる日常の生活の隅々で引き受けながら、生活するのである。パリ人がアジア人一般に対して好意的かというとむしろ逆の場合が多いから、外国人留学生としての立場からは当然のことながら、それだけでストレスの要因になる。日常の大部分の時間は、「こんな生活に意味があるのか?」といった考えに囚われつつ過ごしている。しかし夜部屋で少し考え直してみると、留学の目的はまさにこれだったのだという声が聞こえる。決して予想外のことが起きている訳ではなく、またそれを承知でここまで来ることを選んだのは私だからである。
パリには多くの日本人の学生が居住している。その数はパリだけで数千とも言われる。渡仏して一箇月を過ぎる頃には彼等との付き合いが日常のリズムとして定着するようになる。私は彼等を見ながら外国に暮らすことの意味をあれこれ考える事が多かった。彼等はそれなりに目標を持ち、さほど迷う事なくそれぞれのペースでこの町で暮らしている様に見えた。私のいる大学都市で知り合って、よく食事を共にしたある国立大学の助手のK先生は、一年の予定で今年の五月にパリに来ていて、毎日パリ国立図書館へ、専門の中国史の資料集めに出掛けていた。週末には必ずパリの至る所にある博物館巡りをし、日本に残した妻子と頻繁に手紙を交し、悠々自適の生活をしていた。K先生は一年の留学を終えてもとの私大に戻り、パリで集めた資料をもとに論文を書く予定だ、と語った。
私がひとつ意外に思ったのは、K先生は日常生活の中でフランス語を習得していく努力をすでに放棄しているようだったということだ。しかしそれは本来文献を集める事がフランス滞在の目的である以上ある意味では無理のないこととも言えた。私が時々パリでの生活の辛さを口にすると、「そうですか。私は楽しくてしょうがありませんよ。昼間は図書館で、日本では絶対に手に入らないような資料がいくらでも出て来ます。毎日が新しい発見の連続です。昼の勉強が済んだら、帰宅後は好きなことをしています。後は来年の帰国までに人生をうんと楽しむだけですよ。フランス語?一切話しませんよ。読めればいいんだと開き直っています。」と言い、一体何がそんなに辛いのかわからない、といった顔をした。「50才までの後10年の間、もう今のテーマを変えずにやるだけです。もうそれ以外の余計な本は読みません。」と言い、実際例えば自分の専門外のフランスの現代哲学等に関しては一切興味を示さなかった。
私はK先生を見ていて羨ましくもあった。恐らく彼はこれからもフランス人との接触は極力持たず、外国人という事からくる余計な気遣いにも無縁で、帰国後は一生日本で暮らし、学会での地位を築くのであろう。いわば全てが日本でのこれからの生活の為に定まっていて、彼は迷いを感じる必要がないかのようだった。一方の私と言えば、街に出ても英語誌のニューズウィーク誌を買おうか、フランス語誌のレクスプレス誌にしようか、はたまたちょっとお金を出してジュンク(オペラ座近くの日本図書専門店)に朝日新聞でも買いにいこうか、という事までいちいち迷っている始末である。自分をどこに所属する人間とするか、というアイデンティティが正まっていないからである。いや、自分がどう仕様もなく日本人であることを感じつつ、それ以外ではいられない、ということに対してささやかな抵抗を続けている、と言うべきだろうか。
その点、フランスで数年を過ごし、医師の資格を得る事を目的としている日本人以外の外国人の場合は、その覚悟も遥かに悲壮感を帯びているように思われた。病院でファティマやその他の留学生に身近に接してるとそれがよく分かった。彼等は自国での医師の資格によって得られるパリ大学医学部の外国人医師の学生(D.I.S.)という身分でこれから3年間の研修を行ない、精神科の専門医の資格をとって自国に帰るのである。彼等はこれからフランス語で患者を診察しつつ臨床実習を行ない、試験を受けなくてはならない。まさにフランス語によるコミュニケーションが命である為に、彼等はあらゆる手段を用いて、言葉の習得を目ざしていた。彼等の多くは奨学金も得ず、アパートの屋根裏部屋に格安の部屋を借りるなどして、切り詰めた生活をしながら病院に通って来ていた。 
私は彼等を見ていても、やはり何となく羨ましさを覚える事があった。彼等は恐らく私が一年足らずの後にこの国を去った後もここで勉強を続け、きっとしっかり言業の力を.身につけて適応して行くのだろう。事実ここでの生活が二年を越える留学生の中には、多少の発音のなまりを除いては殆ど言葉に不自由なくフランス人と交流して活躍しているように見える人もいた。彼等の表情の中には困難を克服しつつあるという自負のようなものが感じられた。私もそれらの留学生と同じような状態に身を置いた自分を想い浮かべてみた。恐らく私がフランスでの滞在を何とか引きのばして同じ様な道を辿ろうとしたら、相当周囲へ迷惑をかけることを覚悟したならば、彼等の行き着くところの途中くらいまではついていけるかも知れない。
病院で出会う殆どすべての留学生は研修を開始して数箇月後には患者を担当し始め、処方を書き、さらに一年後には多くはパリ郊外の精神病院に勤務を開始し、そのうえで大学の講義には通って勉強を続けることになる。私はあくまでもフランス政府の給費生であり大学には属していないが、ほぼ彼等と同格に扱われることになり、彼等との間では特に医学的知識、ないし言葉のハンディを感じない以上は私も彼等の辿るコースをある程度まで一緒に歩むことになるのである。私はフランスに来る前はここの病院で患者に接することさえ許されないのではないかと危惧していたが、病院にいる限り今述べたようなルートを通って病院での活動に関わって行かないことの方が不自然ということになる。
私も政府からの給費が切れる来年を待ってパリ大学に入り直し、D.I.S.の資格で報酬を得つつより本格的な研修をしようとしたら、理論的には不可能ではない。とてもそこまでは出来ないという気もするが、一方では私のような言葉のハンディを負った留学生でも皆それを当り前のように行なっているのである。勿論病院の勤務医となると、その役割に追い付く為にまさに苦労の連続の毎日になるであろう。それこそ今の苦労の比ではなくなるのであるが、そういう立場に身を置いてみるという考えも何となく私を惹きつけるのである。しかし一方でそれを実行しようという気持ちに傾かないのは、私の中にどうにも変えようのない「日本」を感じ始めていたからだろう。数年間フランスを選ぶことと、日本を少なくとも部分的に捨てる事とは同じことである。しかし私には、これで日本からも離れてしまったら一体どうなるのだ、という焦りの気持ちの方が強かった。もしフランスに耐え難い魅力を感じているのであればまた別なのであるが・・・・・・。(第2話終わり)

2010年10月6日水曜日

フランス留学記(1987年) 第2章「多少理屈っぽい話」(前半)

気持ちの良い秋晴れ。こういう日は、窓のない聖路加の診察室に一日居るのは残念である。
留学記はタイトルからして、23年前にはすでに理屈っぽかったというわけだが、ないようはどちらかといえば、「陰々滅々」という感じである。

私の留学生活は、初めはありあまる時間との格闘でもあった。本来私は自由な時間が持てることが何よりも嬉しいたちなのであるが、それはその時間を使って自分のしたいことが自由に出来る場合の話である。パリではそもそも時間があるからと言って、したい事を即座にする手立てもなく、ぼんやり過ごす分だけ寂しさが募った。休みだからといつて一緒に外出する相手が見当たらない。ラジオをつけても耳に入るのはアレルギー反応を起こしそうになるフランス語だけである。散歩にでも出てみるといいのだが、パリの街はどうしても気楽に歩く、という感じになれない。
日本にいるときは、暇があれば好きな本を二三冊持ってなじみの喫茶店に行き、そこで読書をするなり、眠り込んだりして何時間もねばる事を最上の楽しみとしていた。それは寂しくならずに、かつ自分一人で時間を過ごすには最も適当な時間の過ごし方だった。パリには生憎その様な形で時間を漬せる場所がない。第一街に出るだけで常に自分の身の回りの品が獲られないかと周囲を払い、パリジャン達の人を射るような視線に対抗しようとこちらも精一杯行き交う人を見つめてしまい、結局気が休まることがない。
カフェを訪れる人々は皆カフェ・エクスプレ(エスプレッソに近いコーヒ)などを頼み、それを飲むとさっさと出て行ってしまい、私一人がねばっているのは悪い気がしてしまう。結局おもしろそうな本を書店で求め、早々と大学都市に帰って来てしまうことになる。しかしその後一人で過ごす夜の長さはさすがにこたえた。そんな時私は部屋のべットに寝転がり、よく日本の町並み、そして友人や病院の患者やもと同僚のことを考えた。あれほど単調で平凡に感じていた日本での生活が掛け替えのないものに思えてくる。今すぐにでも帰りたい、という想いが襲ってくる。しかし日本に戻ってしまえば、今度はそこでの生活が色あせて仕舞うことも分かっているのである。それは日本にいるうちに少なからず理想化していたパリでの生活を実際に送っている今の気持ちが何よりも証明している・・・・・・。
私は頻繁にこの事を考えて過ごした。私が自分の落ち着ける場所をはっきりと見出せない以上、この事実をはっきりさせる事から出発する以外に道はないと考えた。恐らく私は期限が来たらフランスをほぼ永久的に去るのであろう。その時は、日本に帰ったら必ずここでの生活を掛け替えのないものだったと考えるようになるであろう事を十分承知した上でパリに別れを告げるのだ。そう考えて見ると、これほど重苦しいパリの毎日なのに、一年後の帰国もまた耐え難いものの様に思えるから不思議である。実際に目の前にあるもの、体験している最中のものの貴重さが私達はどうして見えなくなって仕舞うのであろう。いや、見えなくなること自体は無理もないのかも知れない。しかしこの見えなくなっているという事実そのものさえも見失い、様々な不幸が生じる。
同じような問題を対人関係に置き変えてみればどうだろう。いつも顔を突き合わせている相手との間で体験する不快な想いの恐らく半分以上は、相手が遠く離れているか、または近い将来の別れが前提となっている場合は決して生じない性質のものなのである。しかしこれらの事を理解していても、日本を自分にふさわしい国として心の底から感じるとしたら、それはきっと私が日本以外のところに暮らしている時なのである。但し日本をその様にこの上ないものとして評価したことがある、という記憶は私のこれからの日本での生活に何らかの潤いを与えてくれるに違いない。なんの事はない、日本を見出すことの為にフランスにいるようなものである。
パリでの生活のかなりの時間を一人で過ごさざるを得ないため、その手段を私はあれこれ捜した。私がまず始めたのは大きな書店を捜すことであったが、その結果私はかなり満足のいくものだった。パリには東京の幾つかの、あたかもデパートのような書店はないものの、カルチエ・ラタンの周辺に幾つかの大きな書店を見付ける事が出来、そこにはどれもかなりの大きさの精神分析関係のコーナーが設けられていたからである。そこにはP.U.F.社、パイヨ一社、プリヴァ社などから出ている沢山の書籍がならんでいて、改めてこの国の精神分析に対する関心の深さを感じさせられた。
中でも印象的だったのは、フロイトの、初期の日本では翻訳されていないようなコカインについての論文、ライヒ、フェレンチ等の精神分析の創世期当時の人々の論文がのきなみ翻訳されて書棚に並んでいることだった。なにしろフロイトと親交のあったかのフリースの、「鼻と女性器の関係」等まで翻訳されて書棚に並んでいるのである。日本でその下訳の一部をさせて貰っていたウイニコットの論文集などはかなり前に翻訳され、既に普及版として安く手に入れる事が出来た。この様な大きな書店で時間を潰すことは異国での寂しさを紛らわすのにはかなり役にたった。
しかしやがて私はもっと旨いパリでの「遊び方」を見出した。それはバリ四区にある、ポンビドゥーセンタ一の中の大図書館を利用するということである。ここの図書館は20~30万冊と蔵書が豊富で、しかも何もかも手続きの面倒なフランスでは珍しく、本の自由な閲覧が可能であった。館外貨し出しは出来ないものの、数台備えられたコビー機を使って必要な部分を簡単に手に入れる事も出来る。こうしてパリについて一月経った頃にはある程度は満足の行く生活のパターンが出来上がつて来た。午前中はとにかく病院で過ごし、午後は図書館通い、そして早めに大学都市に戻り本を読んだり、ラジオを聞いたりして時間を過ごす、というわけである。食事は徹底して、大学都市、ないしパリじゅうに幾つもある大学食堂でとる。そこでは日本円にして200円余りを出せば、余りおいしいとは言えないまでもたっぷり栄養を取る事が出来た。
私は食べ切れないデザート類、及び取り放題のパンを次の朝の朝食として持ち帰る、という東京に居た時は考えられない程の倹約精神を発揮した。そのため始めは到底足りないと思っていたフランス政府からの給費(月3600フラン、日本円にして9万円ほど)だけでもなんとかなって仕舞うから不思議だ。それにパリで経済的に、しかも自分なりに満足出来る生活が出来る事が分かると、あれほど窮屈で、味気無いと思っていたパリの暮らしも、少しは親近感を覚えてくる。パリで暮らし始めてしばらく経っても、人と接触する度に自分がここでは全くのよそ者である、という感じを味わわされる。日常生活のあらゆることが自分の外国人としての立場を突き付けて来る。一体自分の生まれた国を離れて異国に暮らすということはどういう事であろうか?そもそも自分はこれから一体何をしようとしているのか?
ここでの生活に慣れることは、果たして自分にとってある意味での前進なのだろうか?それとも日本の事情から遠ざかっているという意味では後退なのか?など際限もなく考える毎日である。日本に居れば同じだけの時間を使ってもここにいる時とは比べられない程の仕事をこなすことが出来、沢山の情報を得ることも出来る。日本にいるとき、医局のある同僚は、「ぼくはなるべく外国語で本は読まないことにしているよ。それだけ時間の浪費をしてしまって自分が馬鹿になるような気がしてね。」といい、私は驚きをもってそれを聞いたものであるが、今となってはそれも少しはわかるような気がする。パリでの自分の生活ぶりは、右も左も分からず、すべてを周囲に依存し、まるで子供にかえった様なものである。日本で仕事をし、そこにある程度の自負を感じていた時期があったということがむしろ不思議に思えてくる。自分が病院の中である仕事をとりあえずはこなしていた、ということが実感出来ないのである。つまりはそれだけここでは何も責任を与えてもらえず、低い自己価値感を持って生活することを余儀なくされているということであろう?(続く)

2010年10月5日火曜日

フランス留学記(1987年)第1章「とにかくフランスに渡ってしまった」(3)

今日は二人から、「チビちゃん大丈夫?」と聞かれてしまった。実はチビは不幸である。どうして分かるのだろうか?神さんが急性腸炎で入院してしまい、幸い快方に向かっているが、チビは私と残されてどうしていいかわからないようである。チビとは最近一言もかわしていない。完全に関係は冷え切っている。チビは餌も食べず、心なしか顔色もすぐれない。きっと私の愛情が足りないのだろう。

ということで、留学記。一向に話は盛り上がることなく、第一章が終わる。

(承前)イヴ・ぺリシエ教授の名前は、日本ではクセジュ文庫の「精神医学の歴史」の著者、という以上にはあまり知る機会はないが、フランス精神医学界のまさに重鎮であり、またその関心の範囲も、社会精神医学、薬物精神医学、はたまたテレンバッハその他についての精神病理学的な著書をものする、といった八面六臂的な活躍ぶりであった。
私が指定された日時に教授室を訪れると、ぺリシエ教授は大きな手で握手を求め、暖かく私を迎えてくれた。教授は私の研修の「計画」についての考えを聞くと、さっそく医長のギリベール医師を呼び、私の研修の具体的なプログラムを作るように、と命じた。
実は私はこのペリシエ教授との面接に当たってある考えがあって、それを教授にうまく伝えるにはどうしたらいいか、と思案していた。その考えとは、本来私が精神分析に特に興味を持っていたため、どうせパリに一年という限られた期間しか居られないのなら、フランスの精神分析状況をも覗いてみようと思っていたことに関連していた。ぺリシエ教授は特に精神分析に造詣が深いと聞いてはいなかったので、精神分析をやりたいという私の希望を聞いたならどこか特別の機関を研修機関として紹介してくれるかも知れない、ともくろんでいたのである。しかしぺリシエ教授の話を伺っているうちにここでしばらく研修させてもらっても悔いはないな、という気になって来た。後に教授の講義や患者との面接に立ち会った際により強く感じるに至ったが、教授の話しぶりには一種独特の説得力があった。
このぺリシエ教搜の威光を慕ってか、ネッケル病院の外来棟は、小さいながらも多くの学生、研修生が集まって来ていた。数人のグループで研修する第4、5、6学年の医学生(エクステルヌ)以外にも多くの外国からの研修生がここでの研修を希望して来ていた。私は、研修場所で一人きりで右往左往する羽目になるのではないか、という不安も、私と同じ身分の研修生がいると分かればとりあえずは解消された。少なくとも言葉の点で私と似た様なレベルの研修生が何人かいる、ということは心強いものだった。ネッケルの精神科の外国人留学生はイギリス、ブラジル、ボリビア、コロンビア、など様々な国からやって来ているという。歳は皆 20 代後半から30代前半、皆それぞれ自国の医師としての資格を持っている。
その様な留学生の中に、シリアから来たファティマという女性がいた。私ともそれほど年齢が離れていたわけではないが、その小柄で愛嬉のある姿は実際の年齢に比べて遥かに幼く見えた。彼女と私とは共通点といえばかなりあやしげなフランス語のレベルぐらいのものであるが、それでも病院内では良き仲間となった。他の留学生が休み勝ちで、病院の活動に最小限に顔を出している中で、とにかく彼女は真面目に毎日朝から病院に通ってくる。私もたいして用もないのに通うことだけは通ったから、彼女とは始終顔を合わせていることになる。それに私も彼女も病院内での勝手が分からないことは同じで、従って取る行動も判で押したように似てくる。一人だけが窮地に陥らないように、何となくいつも傍に居て、分からないことがあると顔色を伺い、相談をする、という具合である。互いに不充分な言葉を用いて話すにもかかわらず、彼女との会話では言葉の問題は殆ど解消して仕舞うのは不思議だった。
フランス人とのコミュニケーションに関しては、初めから大きな障害があったことは言うまでもない。そもそも相手と能力の差が歴然としている言葉を用いて会話をする場合は、意志が伝わらない責任は全て言葉が不自由な側が負うことになり、それがもとでたちまち相手との間に一種の精神的な力の勾l配が生じることになる。それでも敢えて会話が成立するとしたら、具体的な情報の交換が何よりも優先される場合か、もともとその言葉のレッスンを前提としているか、あるいは相手の友情に一方的に依存するか、あるいは相手が他人に教えることが本来好きな場合であるか、はたまた言語的なコミュニケーションが二次的となるような関係、例えば親友関係とか恋愛関係などにあるかである。これらのいずれも私の日常生活の中では成立していない。
病院での医師、エクステルヌ達と会話をする際はなるべく私が彼等に伝えられるような情報、例えば日本での精神医療を体験した立場からの意見を伝えるようにし、それ以外の、例えば会話の上で出会う未知の単語などについて教えを乞うことは避けよう、などと私はかたくなにも考えた。実際会話の途中で彼等にとって余りに当り前な言い回しにいちいち説明を求めることは、その度に彼等の会話を遮って疲れさせるような気がして、その種のことばかりが必要以上に気になる私はつい消極的になる。恐らくこんなことでは言葉の習得には遠回りであろうが、ある種の負い目を感じながら話すよりはよほど楽であることも確かである。
私はスタッフ達の会話に自分が入りこむ糸口があればとにかく言葉を発してみようと考え、出来る限り実行した。それはおよそ自然な会話とは言えなかったであろう。しかし私の方でも、いい加減に言葉のハンディでいつも受け身的な立場に立たされることに嫌気が差し始めていたので、半ばやけになって自己主張を試みていた所がある。ネッケル病院での精神科では、午前中にエクステルヌや外国人留学生の教育を目的とした幾つかのスケジュールも組まれていた。毎週水曜日にはペリシエ教授の臨床講義があり、金曜日には分析家のプラックス氏の症例検討会があった。また月に一回は「映画の会」と題して、各メンバーが最近見た映画について語る、という場が設けられていた。これは教授資格者のドゥブレ医師が主催しているもので、如何にもディレッタントの多いフランスの大学の精神科らしかった。
ネッケル病院の精神科には外来診療部門の他にもデイホスピタルがあった。週末にはデイホスピタルでの活動のまとめが午前中一杯かかってなされた。このデイホスピタルの集まりは私達留学生にとって最もストレスの多い時間であった。とにかくデイホスビタルに毎日かかりきりのスタッフ達の意見の交換は途方もなく速い会話で行なわれ、その内容も患者の病歴や家族層の詳細にまで及ぶ。患者の顔さえ知らない私達にとってはそれらの内容が皆目つかめなかった。そのような時はわけが分からずただ座っているだけ、という実に辛い時間を過ごさなくてはならない。
午前中の予定が終わって仕舞うと、エクステルヌも私達もさし当たりもう病院に残っている必要はない。しかし午前中いっぱいフランス語に浸り、それだけで疲れきってしまい、もう言葉を理解しようというあらゆる努力を放棄したくなる。その様な時は私達留学生同志の気楽な会話が唯一の救いとなる。私達はフランスの医学生が使う簡単な精神科のテキストを求め、毎日昼食後に一緒に少しずつ読み進めることにした。

2010年10月4日月曜日

フランス留学記(1987年)第1章「とにかくフランスに渡ってしまった」(2)

いったん始めたことなので、留学期の連載をもう少し続ける。今から読み直しても、はっきり言って特に面白くもなんともない。何かクラ~い雰囲気が漂って来るだけだ。留学生の鬱々とした気分を描写しているだけ、という感じである。そしてまさにそれが、この原稿が星和書店からボツになった理由である(ただし1987年当事)。「なんとなく雰囲気が暗いですね。・・・」と暗黙のうちに断られた。それからこの原稿は一切日の目を見る予定ではなかったのである。

(承前)とはいえ、フランスの留学に関しての具体的な計画を全く持っていなかったという訳ではない。第一フランス給費留学生の試験の際にはその受験手続きの段階でかなり詳細な研究内容の計画書と、研修先の機関からの受け入れ承諾書の提出が義務付けられていた。受け入れ先は、大学の元教授である土居健郎先生にお願いしてパリのネッケル病院を紹介して貰い、そこのペリシエ教授からの丁寧な受け入れの承諾書を頂く、という幸運に恵まれたが、研究計画には、私の日本での研究テーマにわずかに触れた以外は、「日本、フランスの精神医療の在り方の比較を通して、日仏両国の国民性の在り方の差異に光を当て、ひいては両国の相互理解に少しでも寄与したい」、という、まんざら嘘でもないが、甚だ具体性に欠ける内容を書き、口頭試問でもそれを押し通した。私は今もって何故このような漠然とした留学の理由が審査を通ったのか理解に苦しむ。しかしこれ以上の具体的な言い方をすれば嘘が余計大きく成る、という気もした。
私がフランスを訪れるのは今回が初めてではない。四年前の、医師国家試験を終えてからその結果の発表までの期間を利用して私はおよそ一月半、全く無計画にヨーロッパをひとり旅した。これは、私にとって西洋に生まれて初めて接するという体験であると同時に、全く違う視点から日本を体験するということでもあった。この時の、決して心地好いとは言えない体験は、しかしその後の四年間の精神科医として仕事を続けながらも決して頭を去らなかったような気がする。これまでの常識が容易に通用しそうにない世界がこの世に存在すること、そこに住む人々と、主として言葉の障害の為に簡単なコミュニケーションさえもままならないこと。そして恐らくは言葉の障害以上の何かによって、自らがまるで無力な子供のような心理状態に陥ることを余儀なくされたこと………。人にはそれぞれ容易に忘れられることと、決して忘れられず、それに対してある一定の結論を出す迄は落ち着いた気分になれないことがある。それを無理に忘れようとしてもコンプレックスとなっていよいよその隠された力を振るい続けることになる。私の場合はこの外国での短期間の体験が、その様な性質を持っていた。しかしこう書けば聞こえは良いが、結局私の渡仏は一種の現実逃避や、緩やかなアクテイング・アウトと変わりがないのかも知れない。私の日本での四年間の精神科医の生活も、自分では気がつかなったが不適応だったのかも知れない。但しこれらの考えには私自身が一年の後にここで何が出来たかによって答えを出すしかないのであろう。
パリに到着して、各国の留学生が集まる14区の大学都市にあるキユーバ館という所にとりあえず落ち着いた私は、十月の始めからの研修を待つ十日余りを、一人で街を歩き回ることに費やした。パリの人々は、互いに楽しげに話し、そして誰もが鷲くほどの確信に満ちた表情で街を活歩している様に見えた。ちょうど九月に入ってから半月余りの間に集中的に爆弾テロが相次いだせいか、バリの街全体が一種殺気に満ちたものとしても感じられた。東京にいた時には考えられないほどしっかりと手荷物を握り締めながら、私もせい一杯目を見張って歩いていたのだろう。そのせいか町をしばらく歩くだけでくたくたになり、すぐ大学都市に戻って来てしまう。しかし部屋に戻ればつい数日前までいた東京の町並みや友人の顔ばかり思い出している。
私が勤務していたあの埼玉の病院では、今頃は患者が夕食を前にして配膳室の前に静かに列を作り出す時間だな、などと考える。そしてついこのあいだまで私は病棟にいてそれを見ていたのだ、と思うと、一体自分だけ何でこんな所に来てしまったのだろうなどと不思議な気持ちにもなる。大学都市の部屋にいる時は、それでも出来るだけラジオを付けっぱなしにし、少しでも言葉に慣れよう、と試みはした。私は実際フランスに来る前、ある心配をしていた。それは私のフランスに対する思い入れが、二十代の初めのアテネフランセに通って少しずつ言葉を覚え始めた頃に比べて薄れて来ている為で、せっかくパリに来ても始めからフランスでの言葉の上達を放棄して仕舞うのではないか、ということだった。
国際的なコミュニケーションの手段としてはフランス語の力が如何に弱いかは、残念ながら最近になって十分すぎるほど身にしみて感じる機会があった。留学先としてこの国を選んだのも、医学部時代から引きずっていた憧れにとりあえずけりを付けたい、という気持ちのせいでもあった。他方ではゆっくり身を落ち着けるのであればむしろ英語圈にしたい、という考えが頭にある。恐らく一年の給費期間が終わったらフランスを去ることは確かであろう。その様な気持ちでどの程度自分はここでの適応に取り組む気になるのだろうか・・・・・・。
しかし実際この国に来てみると、それこそ生きる手段とも言えるフランス語を習得することは、想像以上に差し迫った問題になる。言葉が分からない、ということが最大のフラストレーションになる以上その苦痛を少しでも軽く使用とするのはむしろ自然であろう。結局、新聞やラジオで意味の分からない単語を辞書で引く、ということが日常生活のかなりの時間を占めることになる。この決して楽しいとは言えない作業に携わるだけ、生活は重苦しく憂欝なものとなる。まるでいつも何処かに鈍痛を抱えて生活をしている人の様なものだ。
それに何よりたちが悪いのは、言葉のハンディの為に他人とコミュニケーションがままならないと、深刻な自信喪失を起こしかねないということである。ただ町を歩き、あちこちを見物して回るだけでも様々なコミュニケーションの機会があり、その度ごとに何等かの挫折感を味わう。P.T.T.(郵便電話局)でも、カフェでも、そして留学生の事務一般を扱ってくれるC.I.E.S.という機関でも、対応に出てくる人はおおむね無愛想で事務的だ。特に日本での丁寧な応対に慣れていると、受け付けに座っているパリジャン達はまるで自分に敵意を持っているのではないか、とまで考えてしまう。その様なそっけない対応を二、三回続けて受けるだけで気が減入ってしまい、ここパリでは自分は全く歓迎されていない、という気になる。
事実私はこれには相当悩まされた。パリについて数日でもう軽欝状態である。もともと孤独癖が強いようでいて、人と情緒的なコミュニケーションを持たずに一日を送ることに耐えられない。日本人の話し相手が欲しいが、大学都市に多い日本人にも生憎顔見知りはまだいない。一人の生活がいけないのであれば、ネッケル病院に通い出せば少しは治まるかも知れないが、そこで必要とされるフランス語でのスタッフや患者と会話のことを思うと余計憂欝、というよりは一種の恐怖を感じる始末であった。
人はパリ留学、というだけで如何に多くの非現実的な夢を描いて仕舞うのだろう。私自身はこちらに来る前から少しはその辛さを想像出来ていた様に思っていたが、ここで実際にパリ人のそっけなさや個人主義的な態度を直接感じ取ると、彼等の中に交じっての病院での研修は思ったよりはるかに大変なものになりそうなことはっきり想像がつく。やはり自分もパリ生活に関しては夢を見ていたのだという事が分かる。これからの一年はその夢の4代償を払う番である。予定どおり一年の給費期間をここで無事に過ごしてしまえばそれだけでももう良い、など弱気な考えも浮かぶ。とにかく病院での研修、という模然とした目的で、一体何を何処まで出来るのか、ということが全く想像出来ないのである。
十月の始めからいよいよ私はネッケル小児病院 (Hopital Necker Enfants Malades) に通い始めた。この病院はバリの第15区のモンパルナスの駅の近くに位置し、小児科を始めとしてあらゆる科が合わさった一大総合病院である。病院自体の起源は18世紀の後半と古いが、精神科が出来たのはかなり後の1975年になってからで、正門のすぐ近くの建物の地下の狭いスペースに外来診療部門があるのみであった。入院が必要な患者の場合は、姉妹病院ともいえるすぐ近くのライネックLaennec 病院の11床の入院施設、ないし他の関連病院(といってもパリじゅうの病院が何らかの形で大学との関連を持ち、ある意味ではお互いにすべて関連病院と言うことが出来るが)に送ることになる。ネッケル病院の精神科ではイヴ・ぺリシエ Yves Pelicer 教授が診療及び医学生や研修生の指導に当たっている。私の大学の元教授が、このぺリシエ教授との古くからの知り合いということで、同教授に受け入れを引き受けて貰うこととなったことは既に述べた。(続く)

2010年10月3日日曜日

フランス留学記(1987年) 第1章(1) のはじめの部分

今日一日、family emergency のために大変であった。
ところで1987年に私が書いてお蔵入りになった留学記が見つかったので、少しずつここに公表しようと思う。相変わらず堅苦しく、抽象的な語り口だ。23年後の今も全然変わっていないという気がする。

第一話 とにかくフランスに渡ってしまった
生まれてこのかた住み慣れた国を、少なくとも一定期間留守にするという場合、旅達の際に多少なりとも感傷的になるのはむしろ当たり前なのかも知れない。1986年9月の終わりに、私はフランス政府の給費留学生として、一年間の滞在予定でパリに向けて旅立ったが、私は飛行機の離陸の際の複雑な心境を忘れることが出来ない。いったいここまでしなければならない理由などあったのだろうか?何か取り返しの付かないことになってしまうのではないか? 
日本以外の国を知りたい、という一見もっともな希望も、その実現に向けて具体的な準備を進めていくうちに、にわかに日常レベルでの様々な不都合が起きてくる。結局ほうぼうに迷惑をかけ、本来許してはもらえないはずのわがままも聞いてもらい、半ばやけになって準備を始め、別れにまつわる様々な思いから出来るだけ目を逸らすようにして旅立つことになってしまった。それらの抑えられた気持ちが、いよいよ飛行機が滑走を始めるときに一気に襲ってきたようである。何か自分が自分でない、眼に見えない力に従っているような気持ちである。しかし飛行機の窓の外の視界から成田の管制塔が消え、飛行機が雲の層を幾つも越えて高度を上げていくうちに、やはり自分はこうするしかなかったのだ、という気持ちが戻ってきた。
この、こうするしかなかったのだ、という気持ちはその後の留学生活の中で、さして変わることはなかった。考えれば考えるほど、自分が適当な機会を作り出して日本を一度は離れる、ということは決して避けられなかったような気がした。将来日本以外の場所に住むならもちろん、また日本に腰を落ち着けるのであればなおさらこうするべきであった。その理屈は私の中では明らかであったが、周囲の人にそれを伝えようとするたびに絶望的になった。旅立つ前に同僚から「フランスで何を研究してくるの?」と問われるたびに、そういうつもりではないのだ、ということを完結に表現しようとするどのような言葉も、不まじめで思いつき的なものに自分自身にも思えた。不十分ながらやっと「フランスを訪れる、ということと同様に、あるいはそれ以上に日本を離れるということに意味があるのだ」ということを伝えられたと思ったら、相手はいよいよ怪訝そうな顔になるのである。そこで「とにかくフランスの病院で臨床をやらせてもらうつもりです。」と答えると、相手はいったん納得したあと「でもそれなら日本でも出来るでしょう?」と切り替えして来、私はたちまち返答に困ってしまうのである。(第一部 続く)

精神分析 その2.

ルモンド紙に掲載されたという記事 (YOMIURI ON LINE:1日発行の仏紙ル・モンドは、中国が、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件をめぐる一連の対応で、「粗暴な大国の顔をさらした」と批判する社説を1面に掲げた。)は胸のすく思い。米国のメディアに関しても同様の報道があった。

私は精神分析との長い長い縁が続いている。正直30足らず前に出会ったときは、こんなに長くなるとは思わなかった。渡米中は、何度も忘れかけたことがある。しかし結局はそれに関係した考察を発表し、その立場からの発言を求められることで今でも関係を保っている。

この間は、フロイトによる精神分析を地動説に基づいた「天文学」などと書いたが、悪気はなかったのだ。フロイトは100年以上も前に精神分析を創始したとき、人の心を理解し、救うための手段としてそれを用いることが出来ると考えた。その一途さは頭の下がる思いである。私も人の心を助けるための対話のメソッドを知りたい、あるいは作り上げたいと考えるし、その熱意はフロイトに負けないという自負がある。

フロイトにとって精神分析とは、患者の心に潜む願望を明らかにすることだった。人は心に様々な願望や衝動を持つ。それを知ることでその人は変わると考えた。人の心には隠された願望があり、それがその人を知らぬ間に突き動かしている。それを知ればその人は変わる。実にそのとおりに聞こえるし、現代にも通じそうな理論だ。だから後は人の心を分析して、その願望を見つければいい、とした。その手法が精神分析だというわけである。

フロイトの理論のどこかが間違っていたのだろうか? ここから話は急にややこしくなっていく・・・・。

2010年10月1日金曜日

恥と自己愛 その18. どうして人はほめられると謙遜するのか?

一読者から、「魚がキモチワルイ」というクレームがあった。特に黒い魚がいけないらしい。ということですこし変更しておく。


私の日米両国の体験で、ひとつ面白いと思ったのは、ひとが謙遜する姿はアメリカ人でもあまりかわらないしぐさを見せるということである。もちろんアメリカ人は自分の名声や業績をことさら隠そうとすることは少ない。人に物を送るときに「つまらないものですが」などとつまらない言葉を添えたりもしない。謙遜することが美徳、と信じる人は、たとえいても日本人に比べると遥かに少ないであろう。
ただし人から面と向かって賞賛されたりした時は、アメリカ人でも小声で否定したり、話題を変えようとする。これは人から傲慢だと思われるのは得策ではないから、というような理由だけではない。一種の防衛本能のようなものと関連しているのだろう。
思うに、人から賞賛された時の反応は、状況によりかなり異なる。例えばたった今ツアーで優勝したゴルファーに、「すばらしいご活躍でしたね。」などと語りかけたら、ニッコリと「有難うございます」と応えるだろう。一回限りのことについてコメントされるときは、あまり人間は謙遜せず、喜びを表現するだろう。ところがパーティなどで「今年はご活躍ですね」などと言われると、「いえいえ」と謙遜の表情を見せたり、無言で手のひらを左右にパタパタしたりするのではないか。つまり自分の位置的な名声などについては、それがある種の具体的な事実により裏付けられているから、それに限定した上で喜びを表現しても大丈夫なのだ。ところが「今ノッてる、活躍している」「すごい」「素敵だ」などとなると属性となり、賞賛の対象は漠然とし、その人全体となる。するとこの、「イエイエ」、「手のひらをパタパタ」現象となるのだ。

ここで私の仮説。ほめられた瞬間、実は人は喜んでいる。ほめられた時の表情を見ると、一瞬口元が緩んでいるはずである。そして次の瞬間、人は「不味い」と思うのだろう。なぜか?人はそこにある種の後ろめたさを感じ、また同時に羞恥を覚えるのだろう。ほめられて嬉しがっている姿というのは、はしたない。そしてその感覚は、日本人であろうと、アメリカ人であろうと、ドイツ人であろうと変わりないのであろう。

羞恥というのは恥辱というのとはすこし違う。恥辱と違い、羞恥には自己価値観の下落は伴わない。羞恥とは人目にふれることに抵抗のある部分が晒されてしまうことへの抵抗である。すこしヘンな例だが、自分の裸に自信がある男性も女性も、その姿を衆目に晒してしまうことには羞恥心を持つ。自信があるのだから恥辱ではないが、羞恥、気恥かしさを感じるのだ。そしてその時人は必ず照れくさそうに笑うのだ。というより、その笑いにより、そこに生じている感情が羞恥である、ということが分かるのだ。そしてそこには見られることへの嬉しさが表れている。ほめられた時の一瞬の口元の緩みと同様なのだ。