2010年9月18日土曜日

快楽の条件 6. 楽しくない愛他性はない

この天気を待っていた。いいねえ。暑くもなく寒くもなく。毎日毎日こんな天気だったらなぁ。
快楽については、このブログでは動因の心理学と題して、最初の頃から扱っている。「快楽原則」とか言うと、やたらと小難しい議論に聞こえるかもしれないが、きわめて日常的な体験をもとに議論しているつもりだ。そのためにいくつかの原則を「快楽の条件」としてあげているのであるが、今日は愛他性に関する誤解について述べておく。
愛他性は、私たちが持つ貴重な属性だ。ある意味では人としての価値は、どれだけ愛他性を発揮できるかということになる。だって、愛他的な人はそれだけ他者の幸せに貢献できるのだから。これほどわかりやすい「人としての価値」の見極め方はないだろう。
ところが多くの人が誤解しているのは、愛他性とは自らを犠牲にして他者に貢献する、という捉え方だ。しかしこれは違う。愛他性とは、他人の快、不快が自分のそれと同期化するような性質だ。ここで間違ってはいけない。他人の快、不快と自分の不快、快が、ではない。これじゃ逆だ。これだと羨望が強い、あるいは極端な自己愛をもった人間ということになってしまう。でもこういう人も結構いるんだなぁ。
他人の快、不快が自分のそれと同期化するというのは、本当に幸せな性格である。楽しみつつ人を幸せに出来るのだから。表題にあるように、楽しくない愛他性はあってはならないのだ。
私たちは普通は愛他性を病理としては捉えない。愛他性は自我心理学的には「最も成熟したレベルの防衛機制」ということになる。ある種の適応的な性質として考えているのであるから、愛他的な行為が無意味にその人自身を傷つけたり滅ぼしたりしては元も子もない。愛他的な人が愛他的な行為を続けるためには、その人が元気で生きていなくてはならないのである。となると結局その人が「愛他的な行為を楽しむ」という形でしか愛他性は発揮できないのである。それにもしある種の愛他的な行為がその人の身体の損傷とか痛みをともなうとしたら、それさえも快楽的に感じられないと、そのモティベーションは継続できないだろう。するとこれは病的なマゾヒズムということになってしまう。
私たちはリストカット等の例で、自傷行為が快楽的な要素を持ちうることを知っているが、通常はそのような行為に「それにより他者を救う、癒す」という視点は入ってこない。もうその行為に浸ってしまい、他人どころではなくなってしまうのだ。
さて、愛他性は楽しい、という命題についてである。これは愛他性とは愛他的な行為をすることが、そのまま同時に自分にも快楽的になるということだ。子どもを持つ親だとこれはより身近に経験されるだろうが、きょうだいの間でもそれはいくらでも起きるだろうし、恋愛対象に対してもそうだ。もちろん愛他感情だけがそれらの関係を支配するわけではない、ということは言うまでもないが。愛他感情はいろいろな関係性に時々チラ、チラ、と現れて、癒しをもたらしてくれる。
「ぶらぶら買い物をしていて、どこかの店に立ち寄り、何かの商品を目にしたとき、嬉しくなった。その瞬間、それを買って帰り、夫にプレゼントして喜ぶ顔を想像している。その楽しさは、その商品を自分が使うために探していたときのそれと、質的に変わらないのだ。」これを読んで、「なーんだ、自分も楽しんでるじゃない。どこが愛他性なの?」という人もいるだろう。でもこんなのよりましだ。

「私は妻を愛する。だから買い物をしていて偶然彼女の好きな『●●チョコレート』を目にした時、特に喜びは感じなかったが、そのかわりにある思考が湧いた。「このチョコレートは確か彼女が好きなチョコレートだ。ということはこれを買って帰ると彼女が喜ぶ。彼女が喜ぶということは、私がなすべきことだ。なぜなら私は愛他的だからだ。そこで私はそれを買って帰ることにした。」

これじゃまるで義務でプレゼントをしてるみたいじゃないか!! こんなの全然愛他的という感じがしないだろう。
私にだってこれは経験がある。先日ずいぶん久しぶりにデパートのおもちゃ売り場に足を踏み入れた。そこでふとむなしさを覚えたのは、以前だったら体験していたこと、つまり「これを買って帰ったら息子は喜ぶかもしれない」と思うことが今では意味をまったく失っているということに気がついたからである。何しろ息子はとっくに成人してしまっているのだ。
贈り物を好む人は、儀礼を重んじる事の他にもシンプルな愛他性の表現であることが多い。
徒然草に兼好法師が述べている。「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師・・・・・」