2010年8月27日金曜日

怒りについて その3. 思い出ばなし

このブログは気軽にサラサラと書いて、誤字などもあまりチェックせずに投稿することにしているので、頻繁に更新できるのだが、昨日はこの怒りの問題を考えていて、分からなくなった。 この怒りの問題、私自身が迷っていたり、分かっていないことなどがあまり多いということがわかった。
過去を振り返ると、豪快に怒り、他人を怒鳴りつける人を色々見てきた。私の父親も母親に対して時々かなりの大声をあげていた。さすがに手を上げたことはなかったが。父親は普段は温厚だったが、それだけに怒った時の表情や振る舞いはよく覚えている。しかし私は父親に怒鳴られたことも手を挙げられたことも一切なかった。ブツブツ小言を言われたことはなんどかあった程度だ。

やはり圧巻は、中学時代の教師たちだった。私の通った学校は進学校で、決して柄は悪くなかったが、ベテラン教師は怒鳴り方も堂に入っていた。それぞれの教師がスタイルを持っていて、それで一人前、という印象すらあった。
特に化学の教師の「プーさん」と言われる中年男性の教師は、柔道の有段者ということもあり、本当におそれられていた。授業の前に化学の宿題を忘れたことに気がついた生徒などは、蒼白になったものである。その雷鳴のような怒鳴り声と、金剛力士像そっくりの表情は、今でもありありと蘇ってくる。プーさんもその効果をよくわかっていて、悪さをした生徒に向かって、表情を曇らせ息を吸い込み、「あの雷が落ちるのか・・・」とクラスの皆が視線を落としたり身構えたりしている時に、「なーんてね」などとフェイントをかけ、皆の緊張が一気に和らいだりしたのだ。

理科の教師には怖いひとが集まるのか、Mという教師も恐れられていた。背は低いが器械体操をやっていて筋骨隆々だった彼は、理由がよくわからずに突然大きな声を出して怒ることで知られていた。一年に2,3度しか起きなかったが、いったん怒ると意味不明の言葉を発しながら生徒を飛び上がって殴る(背が低いため)という伝説がった。

大学ではさすがに授業中に怒鳴る教師はいなかったが、精神科医になると、よく大きな声をあげて後輩を指導する先輩医師がいた。患者が治療者側に対して示す怒りや暴力など、入院治療に携わるとそれこそ日常的に見られた。そしてアメリカ時代。入院病棟での患者たちは体格がよく、いったん怒りだした彼らもう凶器という感じだった。体格の劣る私など警備員を前に押し出してしか対応できないことが多かった。それもあってか、日本に帰ってからは、人が怒っているのを見ても、あまり怖くなくなった。

さて私はそれらの怒りの発露を興味深く見ていただけで、私自身が声を上げたことは殆ど無かった。思い出すだけでこの30年の中で二度しかなかった。一度は患者さんに、もう一度は家内に。どちらも思わず、というよりは「怒鳴ってみようか。どうなるかな。」という感じであり、ろくなことは起きなかった。それについては「気弱な・・・」で書いたことがあるので省略。

私自身人を怒鳴るという必要性を感じないということはラッキーなことだと思う。そして私が怒らないでいられる一つの理由は、私自身が怒鳴られ、こづかれ、いじめられ、無視されるという経験をしなかったことが大きいと思う。小学校から進学校に通うということは、それだけあからさまな暴力やいじめに暴露される機会が少なくて住んだということだろう。

ただし中学校は、基本的に生意気だった私は教師から殴られるという体験は一度や二度ではなかった。運動場の真ん中で、音楽の教師から16往復ビンタを食らったこともある。(間近で見ていたクラスメートが数えてくれていた。事情は省略)今考えれば私にとっては貴重な体験であった。自分が悪かったから仕方がないと思うし、それがトラウマになったという感覚はまったくない。

今政治の世界で色々考えさせられるのは、怒りを露にし、それを力にして政治の世界を生き抜いている民主党の小沢さんである。彼の怒りは決して人のためというところはなく、私憤そのものである。そして彼の怒りは強者としての怒り、恫喝という感じだ。彼は自分が一番偉いと思い、ライバルから挑戦を受けると猛然と腹を立てる。見ていて見苦しい限りだが、カタルシスがないわけではない。どこかにその動向を見ていたい、という気が起きる。イラ菅と剛腕小沢の一騎打ちは、政治家としてあるべき姿のほぼ逆だと思うが、それでも見ていて正直面白い。

「怒るなかれ」は私の信条だが、それはまた実行が非常に難しい課題でもある。人はどうしても怒ってしまう。それが周囲を怯えさせ、傷つけ、しかし同時に興奮させ、興味をそそる。「怒るなかれ」という信条に人は普通は興味をあまり示さないし、むしろ怒ることでそれだけ人生が分かりやすくなり、敵と味方が明確になり、自分の弱さや落ち度が曖昧になる方を好むというひとが多いのもまた事実なのであろう。