2010年8月22日日曜日

不可知性 その12. 臨床で語る言葉

昨日、今日と昼間だけ外出の機会があったが、うーん暑い。ここに最初に書くことがいつも天気になってしまう。このところスイカバー(ゼミの●●クン、キミがおなかをこわしたやつだ)がおいしい。
昨日、おとといとブログを書くのをさぼったつもりだったが、何やらフランスのことについて書いてある。どうも覚えがないが内容は正確だ。ちょっと解離していたのかもしれない。
私が書いていたのは、不可知性のことであった。以下の内容はすでにどこかに書いた記憶があり、一部は繰り返しになるが、もう少し広げてみようと思う。
私は毎日患者さんと対面しているわけであるが、彼らがある種の問題を抱えてそれを話してくれるのに対し、私がある種の応答をする、という作業である。アドバイスとかコメントという形になることも多い。そのとき私はたいていはこんなことを考えている。「この患者さんはまだ聞いたことのないようなコメントやアドバイスを待っているんだろうな。」プロとしては彼らにとっては予想しなかったような言葉をかけたいと思うのだ。

だからといって奇をてらうつもりはない。患者さんの体験を聞いて共感し、「それは大変でしたね。」という言葉が自然と出るならば、患者さんが過去に何度も繰り返し聞いた言葉であっても、それはいいのである。でも曲がりなりにもプロとして、この仕事をしている以上、その患者さんの耳にすでにタコができているような言葉を繰り返したくない。患者さんの多くは、治療者の前に座るまでに、たいていは多くの人の同じような、あるいは矛盾する意見を聞かされ、小言を言われてきている。それらを聞く用意がなかったり、あるいは効果がなかったから患者さんは最終的に治療者の前にいる結果になったのだ。

患者さんがほかの医者を転々としてきた場合には、ほかの医者が投げかけたであろう言葉を予想し、それを除外しなくてはならない。それに失敗した時は、患者さんたちが教えてくれる。「またか。」という失望した表情。特に思春期の患者さんなど、あからさまにこういう。「なによ、それじゃ先生もほかのヤブ医者と一緒じゃない。」こうなったらもう勝負ありである。

患者さんたちに、これまで一番傷つけられた言葉を聞いてみると、「しっかりしなさい。」「甘えてるんじゃないわよ。」「気のせいよ。」「あなたの世話をする身にもなってよ」などであるという。しかしこれらの言葉は、本当に誰にでも言われそうな当たり前の言葉であることに気がつく。私たちが身近で体調を崩し、仕事や学校を休んだりすると家族から投げかけられる言葉。本当に単純で、自然で、そして表面的な言葉。患者さん自身だって負けずにほかの人に言っている言葉である。もちろん私も家族には言っているし、自分自身に一番言っていたりする。たいていの場合、これらを言われた本人は、「そうかなあ」とか「やはり自分に甘かったのかもしれないのかな。」「気合いがたりないんだ。」とか言いながら気を取り直す。その調子の悪さも忘れる。

私はこのことをある文章に「甘えロジック」と名前を付けて論じた(「学術通信」 2009年春号 岩崎学術出版社」。少し調子を崩したり、やる気をそがれた人に「甘い!」と喝を入れることで調子を取り戻させる。甘えロジックは、たいていの場合に効果を発揮する。しかしそれがきかなくなるのが、精神的な病気の始まりであり、特徴なのだ。さんざん「甘えだ」と言われ、自分にも言い聞かせ、ますます具合の悪さをこじらせていくのである。「何かがおかしい。」「いつもの『調子が悪い』とは違う!」と気がつく。それでも「甘えだ!」と言い募ってくる人に、「甘えだと思って自分でも頑張ったけれど、だめだったんだよ!そこをどうしてわかってくれないの!」と絶望的な気持ちになり、同時に深く傷つく。そしてある種の専門家、もう少し深く事情を分かってくれそうな人の意見を必要と感じるのである。

目の前の治療者は患者さんの訴えを聞いて、「どうしたんだ?いつものあなたらしくない」「あなたが休んだらみんな困るんだよ。ガンバりなよ。」とは言わない。話を聞いてくれる。これはおそらく患者にとっては予想外のことである。自分に起きている未知のこと。甘えロジックでは解決しない何かについて一緒に付き合って探ってくれそうだとわかる。「みんな分かってくれなかったんだね・・・・。」と言われて不意を打たれた気持ちになるかもしれない。

さてこの患者さんに対面している治療者。最初の原則に従い、患者さんがこれまでかけられたであろう、そして自分が軽い気持ちでかけそうになる言葉を飲み込んでいる。かけそうになる言葉とは、その患者さんの状態を手っ取り早く断定し、決めつけ、形を与えて安心したいという言葉なのだ。それを抑えて患者さんとともに不可知の海を漂う。患者さんが聞き飽きた言葉以外の言葉をかけよう、という試みは、一緒に聴き続けるということにもなるのだろう。(どうにもまとめようのない終わり方だ。)