2010年7月12日月曜日

オタクについて 3 モノづくりではない

オタク現象は極めて興味深いし、ここのオタクは極めてユニークな人間であることが多いのだが、オタク現象と創造性とはかなりの距離があるといっていい。それどころか、オタクであることは創造的ではないこと、といってもいいように思う。想像がこれまでにない何らかの体系や形式を生むことに興味があるならば、オタクはすでにそこにある構造に魅了されて、さらに取り込んでいこうとする営みなのだ。たとえば昔ポケモンカードというのが流行った。子供たちは新しいポケモンが一挙に発表されたら、夢中になってキャラクターの違いを覚え、その個々の機能についても覚えこむ。「このプクリンって名前変だな。別のものにしよう」、などとは決して考えない。子供たちはその名前の奇妙さも含めて覚えこむのである。それは徹底した受身性の表れとみてよいだろう。
彼らが受身的に受け取るのは、ポケモンのキャラクターのような人工的なものばかりではない。自然もまたその対象となる。自然界に存在するものは独自のパターンとその変化の多様性を持つ。それがこたえられないのだ。すると例えば自分の集めているゾウムシの背中のしわの数が一つ多いだけで感動し、夢中になる。ここにもまた徹底した受身性がある。
このように考えると、オタクの興味の対象は創造性とは真逆の性質を有するということの意味が今一つわかるような気がする。彼らは自分でそれを作れてはいけないのだ。ミヤマカミキリには胸部に横皺があるという。<突然だが。>ミミヤマカミキリを一頭(と呼ぶそうだ)追い求めている虫屋は、しかし決して他のカミキリにサインペンで横ジワを書き入れて喜びはしない。それは自然から与えられなくてはならず、それをとるまではボルネオの原始林の中で、捕虫網を構えて何日も待つ覚悟があるのだ。
<なんか真面目になってきたなあ。集めてエッセイ集にしよう、などと思うからだ。>