2010年7月31日土曜日

失敗学 6 少し真面目な話

残心の話は、臨床的にはいろいろ広がる。今日は少し真面目な話だ。
例えばカルテや臨床記録。私たちは通常は診療録が患者自身に読まれることを想定していない。しかしあるセラピストの診療録を読むことで、そのセラピストの持つ基本的な治療姿勢が伺えることがある。早い話が、いじわるな書き方をするセラピストの治療は信用できないということになる。「いじわるな」、とはそれを患者自身が読んだときにトラウマになるような記録と考えればいいだろう。


ところで患者には読まれないことになっていたはずの診療録が、今や患者の側の情報開示の考えが進むことで、患者が要求して読むことが出来るものになってきている。一足先にアメリカでそのような動きが見られ始めた際、セラピスト達はその対処に困った。時にはカルテは患者からの開示の要求だけでなく、裁判所から提出を要求されたりする。そのためにセラピスト達はいわば「本音」を記録することができなくなったと感じた。私自身は患者がセラピストの書いた記録をすべて読む権利があるとは思えない。それではまるで、セラピストは自分の心をすべて患者に開示する義務を負うことになり、そんなことは現実的ではない。しかしまあここではそのような議論は置いておこう。

この問題と残心がどう関係するのか。記録を書く際にも、それが患者の目に触れる可能性を忘れないということ。それではセラピストは患者に対してネガティブなことを考えることすら許されないということか?そうではない。残心を持ちつつ書かれる内容がネガティブなものであっても、それはいずれ患者に伝えられる運命にあるべきものであり、患者が本来読むことにはなっていない(と私は依然として考えるが)カルテを通して、時期早尚に伝えられてしまったというだけである。そしてそれはトラウマとは異なるインパクトを持つのだろうと思う。