2010年7月26日月曜日

失敗学的な世界観 1

今日から新しい話題である。失敗学。畑村洋太郎先生の創始した学問である。これも私がよく話すことなので、ゼミ生などは食傷気味かもしれない。でも私の世界はこれを中心に回っている(大袈裟か。)とにかく大事なテーマなのだ。

たとえば皆さんはこんなことを考えないか?安倍さんも、福田さんも、麻生さんも、それから鳩山さんも菅さんも(ええっと、この順番でいいんだったっけ?)なぜみな政権についてからは、数々の失態ですぐに人気をなくしてしまうのだろう?
ここで「それは政治家がおろかだからだ」という発想に行ってしまう人は、失敗学とは縁が薄い人である。失敗学的にはこう考える。「あの程度の失敗をするというのが、本来の人間の姿ではないか?(したがって自分がやっても同様の結果になる可能性が高いだろう。」)
まあ上に述べた方々は立派な大人だし、高学歴でもあるし、それにそのときまでに対人関係でもまれて勝ち残って言った人なのだから、サンプル群としては立派なものである。そこから抽出したほぼすべての人が、失態をしでかすのだ。ということは人間とはたかだかあんな程度と考えるしかないのではないか?
あるいは列車の車両事故、警報機の故障、信号の機能の障害など。あれだけの複雑なシステム、問題が起きて当たり前なのだ。それなのに目的地への到着が遅れると言っていちいちハラを立てるのは(もちろん私も腹をたてるのだが)、あまりにも失敗が起きないのが正常、と考えすぎるのではないか?
これらの例が示すのは、私たちが持つある性質だ。それは失敗は異常なこと、恥ずべきこと、望むべくは全くなくすべきだと考えることである。そしてそれを前提として世界を観察し、日常の生活を組み立てていく。…. どうだろう?可能だろうか?実はこれに「失敗」することも、前提なのである。