2010年7月31日土曜日

失敗学 6 少し真面目な話

残心の話は、臨床的にはいろいろ広がる。今日は少し真面目な話だ。
例えばカルテや臨床記録。私たちは通常は診療録が患者自身に読まれることを想定していない。しかしあるセラピストの診療録を読むことで、そのセラピストの持つ基本的な治療姿勢が伺えることがある。早い話が、いじわるな書き方をするセラピストの治療は信用できないということになる。「いじわるな」、とはそれを患者自身が読んだときにトラウマになるような記録と考えればいいだろう。


ところで患者には読まれないことになっていたはずの診療録が、今や患者の側の情報開示の考えが進むことで、患者が要求して読むことが出来るものになってきている。一足先にアメリカでそのような動きが見られ始めた際、セラピスト達はその対処に困った。時にはカルテは患者からの開示の要求だけでなく、裁判所から提出を要求されたりする。そのためにセラピスト達はいわば「本音」を記録することができなくなったと感じた。私自身は患者がセラピストの書いた記録をすべて読む権利があるとは思えない。それではまるで、セラピストは自分の心をすべて患者に開示する義務を負うことになり、そんなことは現実的ではない。しかしまあここではそのような議論は置いておこう。

この問題と残心がどう関係するのか。記録を書く際にも、それが患者の目に触れる可能性を忘れないということ。それではセラピストは患者に対してネガティブなことを考えることすら許されないということか?そうではない。残心を持ちつつ書かれる内容がネガティブなものであっても、それはいずれ患者に伝えられる運命にあるべきものであり、患者が本来読むことにはなっていない(と私は依然として考えるが)カルテを通して、時期早尚に伝えられてしまったというだけである。そしてそれはトラウマとは異なるインパクトを持つのだろうと思う。

2010年7月29日木曜日

失敗学 その4 残心は失敗学につながる

私は武道などで言われる「残心」について決して深く理解しているという意識はないが、臨床的には非常によく体験する。またまたどうしても頼ってしまうwikipediaによれば、

「・・・・技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。・・・」

ある患者さんと電話で話していて、疲れといら立ちを感じた。受話器を置いて思わず「アーア」とため息が出た。そしてふと受話器が完全に置かれていなくて、まだラインがつながっているということに気づいた時、「あ、このため息を聞かれたかもしれない」」とヒヤッとしたことがある。おそらくタイミングから言って、多分相手は私のため息を聞くことなく受話器を置いただろう。しかしタイミングとしては結構危うかった。

もちろん相手が友達や家族なら、これはありである。時には目の前の母親に聞こえるようにため息をつくこともあるだろう。しかし患者さんを相手にこれをやるのは明らかにこちらの落ち度である。明らかに不快になる可能性のあるような電話なら、それをとらないという選択肢もあったであろうし、もし治療者として電話での応対が必要であるならば、それは仕事なのだから、ため息などつかずに、そこでの感情は処理できなくてはならない。もちろん、「そうはいっても治療者も人間だから…・」という声聞こえないわけではないだろうが、仕事上のことならおよそどのような場合にも当てはまる。タクシーに乗って、初乗り程度の距離の行き先を告げて、運転手が「ハァー」とため息を付いたら?レジで小銭をゆっくり取り出して言われた額を正確に払おうとした客に、レジ係の口から「アーア」と思わず出てしまったら?客の側が逆上してもおかしくない状況である。

仕事としてするなら、覚悟を決めて気持ちの余裕を持たなくてはならない。「カスタマーに失礼があってはならない」、と言い聞かせる程度ではおそらく足りない。ふとその注意が途切れると「自然な」反応が出てくるからだ。「カスタマーを常にいかに心地良くするか」くらいで丁度いいのかも知れない。ちょうど目的地に向かうのに、「遅れてはいけない」ではなく「いかに約束の一時間前につくか」を考えることでミスを防げるように。

残心って、「余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念・・・・」とかwiki では言っているが、そんなにカッコつけなくても、失敗を減らす工夫や知恵だと思えばいいのである。ただしもちろん目的地に一時間前につくようにしていても、やはりたまには遅刻は起きる。それを意識しておくことが失敗学である。人間のやることに失敗がなくなることは決してない・・・・・。

2010年7月28日水曜日

失敗学 その3

ゆうパックが7月の初旬に遅れたことの理由が、今日の朝日新聞(インターネット版)にあった。失敗学の良い例である。

「・・・・ 遅配は「ゆうパック」が「ペリカン便」と統合した7月1日の直後から発生。お中元シーズンの出ばなに統合したことで取り扱い荷物量がほぼ倍増し、6日までに34万個超の荷物の配達が遅れた。総務省は日本郵便に対し、30日までに書面で遅配の経緯を報告するよう求める一方、聞き取り調査も実施してきた。・・・ 日本郵便の説明では、「ゆうパック」と「ペリカン便」は荷物を仕分けるためのコード番号が異なるため、統合後は新たに6ケタの数字が書かれた共通ラベルを荷物に張ることにした。百貨店などの大口顧客には6月中旬、伝票を打ち出すシステムの新しいプログラムを提供し、共通ラベルを印刷して張ってもらうように要請した。 ・・・・
 だが、大口顧客の中にはシステムの更新が間に合わないところがあり、ラベルのない大量の荷物が全国70カ所の集配拠点に押し寄せた。「区分機」と呼ばれる機械で自動仕分けができなくなり、急きょ手作業で仕分けることになったが、手順や人員の配置が明確に決まっておらず、現場が混乱。あふれた荷物が仕分け場所をふさぎ、作業が遅れた。「ゆうパック」「ペリカン便」の集配拠点の機械の違いも混乱に輪をかけた・・・・。」

特に太字部分(私による)が問題箇所だ。ここに書かれたことが予見できなかったのが問題、というよりはこのような予見しにくい問題が起きるということを想定した上で、必要と思われるよりはるかに多くの人員と時間の余裕を見ておかなかったのが問題といえる。これなどは、人は理屈どおりに動き、計画はしっかり立てればその通りに進行するだろう、という姿勢自体が誤りであり、その結果として問題がおき続けるということを示していると思う。
仕事に采配を振るう人は、少しでも段取りが気になれば自分で実際に現場を視察をして、大丈夫かを確かめるだろう。そして余裕の上に余裕を見る。なぜならば人は理屈では説明できない失敗もするからだ。予見できない失敗をするということを予見して準備をする。予見できない、ということを予見する。これは失敗学の極意でもあり、一番難しい(実行できない)部分でもある。
このブログは妻は見ない(これだけはありがたい)から書くが、彼女はよく遅刻をする。彼女は最近ではインターネットで綿密に時刻を調べてから異動するのに、である。一方私はめったなことでは遅刻はしない。(最近はね。昔はよくしたもんだ。)私は乗り換え時間などは非常にテキトーであるが、少なくとも一時間前には目的地つくようにして、時間をつぶすようにしているので、周囲の喫茶店などにあらかじめ当たりをつけておく。この違いが面白い。

妻は作業効率が非常によく、そのために自分を過信する傾向にあるから、一生懸命乗り換え時間などを調べていても、結局ちょっとの時間の遅れが到着時間の遅れに繋がる。私の「一時間前に着いておく」という方針は、「どんなことがあってもさすがに一時間以上は遅れないだろう」ということで、そこには説明の付かない、予想の出来ない失敗も想定している。失敗学に基づいているのだ(エヘン)。
あるとき痛い思いをした。ある場所に行くことにより、例によりとんでもなく早く出かけようとしたところ、妻にたしなめられた。「何でまたこんな時間から行くの?おかしんじゃない?」「いや、初めての駅での乗換えがあるから」、というと「じゃアタシが調べてあげるよ」と手っ取り早くネットで乗り換えの駅と電車をリストしてプリントアウトまでしてくれた。それを見るとすばらしい。A駅でのJRから私鉄への乗り換えは、15分ほど余裕がある。これなら大丈夫だろうと思い、ギリギリ出だかけた。A駅について余裕で私鉄のホームを探すが、これがなかなか見つからない。どこにも表示が出ていないのだ。ホームを歩いているうちに表示が見つかるだろうと思うが、これがなかなか見つからない。時間がたつうちにどうもおかしいということになる。そして同じA駅でもJR駅とと私鉄駅とでは500メートルほど離れているということが気が付いたのは、もう私鉄の電車が出る5分前であった。私は必死で走って事なきを得たが、元々運動が嫌いな私がこのようなことで走らされるのは、かなり痛い経験であった。この種の焦りを少なくとも大学生くらいまでは私は始終していた(遅刻の常習犯で、待ち合わせに一時間遅れる、などということも結構あった)が、それをしないようになったことが、人生における私の数少ない進歩だとおもっていたのに。だから私のほうが失敗学を妻に説くことになっている。最近は学生によく言う。「ストレスの解消法の一つは、準備をよくしておくことです。」実に年寄りくさい話だ。

2010年7月27日火曜日

加藤智大被告のこと、そして失敗学その2

加藤智大被告が、「母親からの育てられ方が影響した」という証言をしたというニュースが今日流れた。精神科医としては複雑な心境。このメッセージが沢山の誤解をまねくのだろう。少なくとも「やはり母親の育て方か・・・・」という単純な考え方に陥る人が多く出ないことを望む。その上で言えば・・・・・客観的に見ればそこそこの育て方をした母親のことを深く恨む子がいる。それほど人間の主観世界は千差万別だということだろう。幼い子にとって親は絶対的な存在であるという時期がある。そこでの親は、愛情の源泉ともなれば、限りなく冷酷で恐ろしく、しかし絶対服従を強いられる対象ともなりうる。こうなると親になるというのはつくづく大変なことだ。自分の始めた仕事を受け継ぎ、深い感謝の念を持ち続けてくれる存在をこの世に持つことを意味するかも知れない。しかし自分を一生恨むという存在をこの世に送り出す可能性もあるのだ。


失敗学の続き。失敗学は、人は失敗を一定の確率や頻度でしでかすという前提から始める。しかしこの「失敗」には広義のそれ、つまり倫理的な堕落や慢心も含まれると考えるべきだ。失敗や過ちにも色々あるのだ。
例えば相撲界の野球賭博。政治家と金。これらのことが決して見過ごされていいというつもりはない。しかし彼らが心を入れなおし、清く正しく相撲道(だったっけ?)に精進し、政治を行ない、一切の悪に染まらない決意を固めることで済むわけはないことを認めるべきだろう。相撲界から賭博や暴力団の影響を駆逐するのなら、あるいはクリーンな政治を望むのであれば、途方もない資金と労力を使ってそれらを取り締まるしかないという事実を受け入れるべきだ。その認識がない人のコメントは実に空疎である。聞いていて知的レベルを疑う。(とは明らかに言いすぎだ。)

2010年7月26日月曜日

失敗学的な世界観 1

今日から新しい話題である。失敗学。畑村洋太郎先生の創始した学問である。これも私がよく話すことなので、ゼミ生などは食傷気味かもしれない。でも私の世界はこれを中心に回っている(大袈裟か。)とにかく大事なテーマなのだ。

たとえば皆さんはこんなことを考えないか?安倍さんも、福田さんも、麻生さんも、それから鳩山さんも菅さんも(ええっと、この順番でいいんだったっけ?)なぜみな政権についてからは、数々の失態ですぐに人気をなくしてしまうのだろう?
ここで「それは政治家がおろかだからだ」という発想に行ってしまう人は、失敗学とは縁が薄い人である。失敗学的にはこう考える。「あの程度の失敗をするというのが、本来の人間の姿ではないか?(したがって自分がやっても同様の結果になる可能性が高いだろう。」)
まあ上に述べた方々は立派な大人だし、高学歴でもあるし、それにそのときまでに対人関係でもまれて勝ち残って言った人なのだから、サンプル群としては立派なものである。そこから抽出したほぼすべての人が、失態をしでかすのだ。ということは人間とはたかだかあんな程度と考えるしかないのではないか?
あるいは列車の車両事故、警報機の故障、信号の機能の障害など。あれだけの複雑なシステム、問題が起きて当たり前なのだ。それなのに目的地への到着が遅れると言っていちいちハラを立てるのは(もちろん私も腹をたてるのだが)、あまりにも失敗が起きないのが正常、と考えすぎるのではないか?
これらの例が示すのは、私たちが持つある性質だ。それは失敗は異常なこと、恥ずべきこと、望むべくは全くなくすべきだと考えることである。そしてそれを前提として世界を観察し、日常の生活を組み立てていく。…. どうだろう?可能だろうか?実はこれに「失敗」することも、前提なのである。

2010年7月24日土曜日

おタクについて 11 さかなクンについての補足

さかなクンについての話が、ちょっと尻切れのままだった。大学院のわがゼミでこの話をしたところ、M1の岡●君が,かつて彼が読んだというさかなクンの情緒あふれる文章について話した。それをあとでメールでまわしてくれたものが以下のものだ。(無断転用だが、さかなくんが作者であることは明記)


「いじめられてる君へ」


中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。


いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。


突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。


たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。


せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。


けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。


すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。


助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。


いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。


広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、


なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。


中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。


ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。


でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。


学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、


その子はほっとした表情になっていました。


話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、


だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。


ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。


大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、


悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。


外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。


広い空の下、広い海へ出てみましょう。




東京海洋大客員助教授・さかなクン



すばらしいよね。やはりさかなクンはASP●●●●と思う。そういうことになる。そして彼は私の分類に基づけば、おタク(いい意味での)と呼べるのだと思う ・・・・・。

しかしもういい加減にASPとかおタクとかのレッテル貼りについては飽きてきた。私はただただ彼らの時折示す不思議な脳の機能に魅了されるところがある。そしてこれはまさに私にとってないものねだりというところがある。私は「かも」おタクになり、コレクションをすることに決めたが、つくづくおタクの才能がないことがわかる。まだ3つしかアイテムが集まっていないし・・・・・。

2010年7月23日金曜日

オタクについて 10 ダニエル・タメット氏の例

実はもう一人私が期待しているASPさんがいる。こちらはかなり有名な人で,私は彼の本を読み,ユーチューブでその実際の表情や物腰を見て気に入った人だ。彼は実に優しく穏やかな印象をあたえるが,その持つサヴァンとしての能力はとてつもない。超能力といった感じがする。ダニエル・タメット31歳。彼の自叙伝“Born on a Blue Day” は日本語で訳されている。(「ぼくには数字が風景に見える」 講談社2007年)
彼は例えば数桁同士の掛け算を、いくつかの色を伴った図形同士の結合のように捉え,二つの図形が混じり合った図形の色と形がそのまま積を示しているという。実際に彼の「計算」の様子を見ていると、紙の上で指先を動かしながら図形をイメージするだけで、決して数字を扱う計算はしていない。

彼には著しいこだわりもあり,例えば毎朝食べるシリアルは,厳密に重さを計量して同じ量を食べるという。その意味で彼は立派なアスペルガー症候群なのだが,でもとても温かく繊細という印象を受ける。しかしもちろん彼の実際の人柄は知らないから、私は「期待」するのである。
実は彼の温かさと彼のホモセクシュアリティーとは関係しているように思える。米国に滞在中常に思っていたことがあるが、細やかな気遣いをする、「日本人的」な白人男性はその多くが男性のパートナーを持っていた。私は彼らの多くが好きで、親交もあった。後にタメット氏の同性愛傾向を知ったとき,彼を映像で見た時の細やかさは,それと関係していたのか,と納得がいったのである。

2010年7月21日水曜日

オタクについて 9 さかなクンはASPクンか?

きのうNHKのお天気情報で、「猛暑になるので、昼間の外出はなるべく控えるようにしてください。」と言っていた。これを平日に言われてもねぇ・・・・・。会社で営業が「今日は暑いので、外回りはやりません」とはとても上司にはいえないだろう。
今日はオタクのホープ「さかなクン」の話である。彼を話題にして申し訳ないが、マスメディアにあれだけ露出している以上、「公人」扱いさせていただいてもいいだろう。
私にとって「さかなクン」は希望の星である。私は彼がテレビチャンピオンに出てきたころから追っかけている(たぶん8~9年くらい前か?)が、彼がASPさんではないか、と思い始めたのはずいぶん後になってからである。彼がもしASPさんだとしたら、ASPさんたちは誇りに思うべきではないか?最近テレビで見ると、「ヒェー」、とか「ピャー」とかいう奇声を発することが目立つが、テレビチャンピオン当時は、それはとくに目立たず、ごく普通の青年だった。
テレビチャンピオンで彼が見せた動作の中でよく覚えているシーンがある。彼が他の競技者と戦っている場面で、確か器に入っている魚の種類を、時間内に数え上げるとかいったシーンだった。他の競技者(つまり彼にとっては競争相手の一人)が器を運ぶ途中でひっくり返してしまい、拾って入れなおすといった場面になったのだが、さかなくんは、「大変だ!」とか言いながら自分の競技をほっぽり出してそのライバルを助けていたのである。これはチャンピオンになるべく戦っている人にはなかなか出来ないことである。ましてや他の何人かの競技者は自分たちの作業を着々と続けてゴールに近づいていたのだから。
この動作からもわかるとおり、さかなクンは「いい人」なのである。他の競技者の痛みを感じて、犠牲になってでも助けてしまうところがある。バロン=コーエンの言うところのE的な部分が旺盛ということだろうか。
だからどこかでさかなくんみたいなASPさんもいる、という話を聞くと、それは違うだろう、と思ったものである。ものすごい凝り性であるところは認めるが、あまりに優しいからだ。しかし最近考えを変えた。彼をASPさんとすることで、ASPさんにも様々な人がいる、という風に考えた方がいいではないか?私は小児精神医学の専門ではないから、ここら辺はご都合主事で行こうと思う。(続く)

2010年7月19日月曜日

オタクについて 8 オタクのふりをする

今日も外は暑いらしいが、何日かぶりに一歩も外出しないという日を送った。
私は実はオタクの素質がなく、たとえば自慢できるコレクションなどは何も無い。楽器のミニチュアには「おっ!」となる程度だ。だから万年筆や刀などのコレクションをしている人に出会うと、ちょっと羨ましくなる。コレクションは、確実に旅を楽しくする。誰だったか、有名人でトイレットペーパーの収集癖がある人は? その人など、確実に地方の鄙びた旅館に行くことの楽しいが増すであろう。

ということで私もコレクションをすることにした。たまたまM病院のナースが精神科のオフィスの鍵につけてくれた不思議なキャラをネットで調べてみて、「カモノハシかも」というゆるキャラであることを知り、それでも集めてみようか、と思った。そう、今日から私は「カモノハシかも」オタクになったのだ・・・・。

発売元のサンエックス株式会社のサイトから、特別の許可を得て紹介しよう。
しかしもともと特別に興味を持っているわけでもないのでそれ以上に進めないでいたら、ある患者さんが、そんな私に、近所のガチャガチャで仕留めてきたという「カモノハシかものマスコットのぬいぐるみ」をくれたのである。再び「おっ」となり、ほんの少し興味の針が動いた。調べてみると、このキャラ自体はいつもひよこと間違われそうで、自分に自信のない性格で、語尾に「かも」をつけるキャラで、いつも首をかしげ、ご丁寧に頭の上に「?マーク」を付けているという。このキャラを院生の豊●さんが持っていたのも、少しは刺激になったカモ。

ところでこのカモノハシかもに、くろい「お友達」がいることを最近発見した。その名も「かものはしダス」。こちらは本物のカモノハシで秋田出身、口癖は「~だす」。性格も自信家で断言する傾向にあるという。面白いキャラ設定を考えるものだ。


さて、先日ほっておいた「萌え」、というテーマの続きである。

萌え、とは要するに「心がトキめく」という風に私は理解している。Wikiによれば、「萌え(もえ)とは本来の日本語では、草木の芽が出る(伸びる)様を言う。」というが、そんなことはわかっている。そうやって私たちは子供の頃から使ってきたからだ。そして「萌え」が「燃え」に移行することなく(ここは本田氏の表記を借用している)、そのままでとどまるならば、要するにプラトニック・ラブのままで進行するのであれば、これはオタクが持つ一つの美徳とさえ言えるのである。人知れず相手を思い、理想化し、その存在に恥ずかしくないように自らを高めるなんて、美しいではないか? 一見ストーカーに間違えられるかもしれないが、実は人畜無害で悪気のないものであることがすぐ分かるだろう。でただし・・・・・・。オタクにおける「萌え」にはどこか未発達で倒錯的なニュアンスがつきまとうのも確かだ。彼らは本来はモノに、秩序に、形式に心を奪われる。モノや形式は外部から与えられ、オタクはそれを受身的に味わい、楽しむ。「萌え」はそれが恋愛対象に置き換わっただけ、というニュアンスがある。本来モノに対する私たちの情熱と、愛情対象に対する情熱には、全く異質の心の働きが関与しているはずだろう。後者には相手との同一化や情緒的な交流を伴う、両方向性の関係で、先日紹介したバロン=コーエンの理論では、E的な能力が絡む。オタクがS的な感受性と情熱をたまたま異性(または同性)に向けたら、それは一方的で受身的で、本来交流を前提としないような恋愛感情(らしきもの)を意味するだろう。それが「萌え」の本体だとしたら?うーん、やはり「萌え」は一種の異常(性)愛なのだろうか? 私もせいぜい「萌え」はゆるキャラに留めることにする。

2010年7月18日日曜日

おたくについて 7. 続き

今日は大変な暑さだった。梅雨が終われば終わったで先が思いやられそうだ・・・・。

昨日の話の続きである。私たちが他人と関係するということは、そこに「相手を利する」部分を自然と含むものだ。相手が喜ぶ言葉をかけ、相手を心地よくする。何も特別なことではない。相手の痛みや心地よさは、少なくともある程度は自然に感じ取ることが出来る。私たちはこれを自然にやっているのだ。エレベーターに駆け込んでくる人を見たら、「開」をしばらくの間押してあげる。両手に荷物を抱えている人を見たら、かわりに扉を開けてあげる、などである。この部分が欠如している人間関係はきつい。そしてそれは治療者患者関係でも同じなのだ。
昔アメリカで私のあるASPの患者さん(男性、20歳代)が父親をなくした。私が関係していた病院でなくなったために、私もある程度事情を知っていたし、そのASPさんの反応を心配した。しかし母親と一緒に外来に現れた彼は、むしろ父親の死をどのように感じたらいいのかに当惑していた。「普通こういうときは悲しい、というのはわかるんです。ただ・・・・」と彼は言った。彼は特別父親と関係が悪いというわけでもなかった。よく一緒に趣味のカードの蒐集をやっていた。父親を亡くして、恨みが晴れた、うれしかったという事情はなかったはずである。しかし特別の悲しさもなかった。というより実感が持てずにいた。彼に親を亡くしたことによるショックを気遣う必要がなさそうだということを知ってホッとはしたが、彼の感情の欠如が印象的だった。
もちろんこれはアスペルガー障害一般に当てはまるとは言わない。肉親や友人をなくして深刻な悲嘆にかられる人も多い。しかし「心の理論」の希薄さが、思いやりの希薄さに直結しているようなケースでは、そのようなASPとの生活に深刻な寂しさやむなしさを体験する人が多い。
私がかかわっているASPの患者さんのごく一部に、残念ながらこれが当てはまる。私は常に何か利用されている、という感じを持ってしまう。そうだとすれば、彼らにとってもかなり不幸な話といえるだろう。

2010年7月17日土曜日

おタクについて 7.  時々ASPさんたちに共感できなくなる

「ASP(アスプ)さん」とは、アスペルガー症候群と言われている人たちの総称として私が勝手に使う用語だ。しかし決して差別的な呼び方と思わないで欲しい。私は実はアスペルガー症候群は病気ではないのではないかと思うほどだ。なにしろ「男性的」な人たちは、みなアスペルガー的だからだ。(ただし「男性的」、という場合には、女性でもありうるし、もちろん「男性的」でない男性諸君の存在も想定している。またここで言う「男性的」とは、マッチョのイメージとは程遠い.要するに心の働き方のことだ。)おそらくこのASPさんたちとおタクと呼ばれる人たちは一致はしていないが、共通集合が大きいだろう。だからこのおタクについてのエッセイで、ASPさんたちに登場してもらう。

ちなみにASPさんではないおタクとはどのような人たちか? ASPさんたちはアスペルガー症候群の特徴を、程度の差こそあれ備えているのであるから、空気の読めなさ(「心の理論」の希薄さ)と物事への特殊なこだわりを持つ人達ということになる。だからこだわりがあってもそこそこ対人関係が保てたら、ASPではないオタク、ということになる。そしてその中には美的センスが高く、こだわりにも品があって多くのファンに支持される人もいるだろう。創造的で、芸術もたしなみ、目利き、などと呼ばれて重宝がられるかもしれない。北大路魯山人などもそのような人だったのではないか? 彼などは華麗で、創造的なおタクではあっても、ASPさんではなかっただろう。

ともかく、ASPさんたちについての話を続けよう。実はASPさんたちの中には、どうも共感の糸を保ちにくい人がいるということを時々感じるのだ。もちろん愛すべきASPの人たちはたくさんある。私たち臨床家は、たいてい自分の担当するクライエントの立場にある人たちに特別の共感を示す傾向にある。私たちが自分たちの共感能力や愛他性を一定の量しか持てない以上、その対象を限らざるを得ないからだ。すると第一に家族、そして次がクライエントに対してということになる。これは何も治療者として逸脱したことではない。「お客さんは大事にする」、ということに過ぎないのである。クライエントさんについては物事を出来るだけ好意的に解釈することは、臨床家が自分の仕事にモチベーションを持ち続けるためにも、そして自分の自己愛のためにも大事なことなのだ。

ASPさんたちがクライエントとして持っても、それは同じなのだが、それでもとても難しいことがある。そしてそれは、おそらく彼らの心の理論の希薄さ、と関係している。臨床家としての患者に向かうポジティブな気持ちは、実はクライエント側からのほんの少しでも伝わってくる「思いやり」に依存しているということがわかるのだ。そしてそれをなかなか向けてもらえないのである。そしてそれを彼らはなかなかわからない・・・。(続く)

2010年7月15日木曜日

オタクについて 6 「萌え」がよくわからなかった

オタクと「萌え」がどう繋がるのか、私はこれまでよくわからなかった。それもあり、私自身はオタクの世界とは遠いのではないかと思っていた。オタクに恵まれているのはやはり記憶力だろう。「物覚えは悪いが、~に関してはオタクである」、という人はあまりいない気がする。オタクが成立するためには、システムを比較的苦労なく頭に入れる、というより頭に自然と入ってくることができるという条件が成立していなければならないだろう。ちょうど言語を自然に習得する幼児のように。

アスペルガーの人々と会っていて少なくとも彼らが恵まれていると思うのは、物を覚えることに関してあまり苦労していないということで、これってとても幸運なことなのである。MR(精神遅滞)の方と会っていて彼らの苦労、つまり頭にものが容易に定着しない、という悩みに比べれば。(問題は覚えたことを使いこなす能力というのはそれとは別、ということではあるのだが・・・・。)

ということで私はオタクがよくわからないのは、やはり記憶の質の問題だと思っているが、少しその理解に近づいたと思ったのが、「萌え」についてであった。「萌え」について少し読んでもわからず、一種の「ヘンタイ」ではないか、くらいにしか思っていなかったのだ。しかし最近ある患者さんの父兄に教えてもらった本を読み、少しわかったような気がした。本田透氏の「萌える男」(筑摩書房、2005年)という本を通して、である。

私は以前こんな話を聞いて、オタクを馬鹿にしていたところがある。いわく、彼らは秋葉原のメイド喫茶でも、メイドさんの姿をまともに見ることが出来ない。ケータイか何かをいじりながら、チラチラ、とその姿を見るだけである、など。どうも尋常でない気がした。少なくとも、男らしさ、たくましさという点では実に情けない人種である、と。

ところが本田氏によれば、そこには一種の美学があり、彼らなりに完結した(というか、人に迷惑をかけない)セクシュアリティのあり方があるということになり、こうなると話がずいぶん違ってくる。
(続く)

2010年7月14日水曜日

オタクについて 5 言語の能力その他との関連

オタク系の能力の特徴、すなわち受身的に外部から形式を取り入れることに快感を得るという特徴は、実は私たちが幼少時に発揮する様々な能力、例えば言語能力の獲得と似ていることがわかる。言語の獲得に関して、子供は天才的である。少しでも外国語の習得に苦労した人には、このことは容易に理解できるはずである。30才を過ぎて海外に出ると、そこで学び始めた外国語の単語一つを覚えるのでさえ大変である。その国の言葉の発音についても、類似の子音や母音を母国語に持たない場合は至難である。(圧倒的に、母音、子音の少ない日本語の場合、それを母国語に持つ私たちが外国語のマスターに手間取るのは、もはや必然的といわざるを得ない。)ところが一緒に外国にわたった四,五歳の子供は、現地校に入ってほんの数カ月で、すでに会話程度に不自由を覚えないほどにその外国語をマスターしているのである。
一般に私たちは幼少時に、特に苦労すること泣く、極く自然に言葉をマスターする。おそらく言葉は容易に脳に入ってきて、緩やかな快感を伴って脳に定着する。だから子供は親や兄弟の話し言葉に食い入るように注意を受け、それを取り入れる。これ自体は非常にアスペルガー的なプロセスである。
結局私は何が言いたいのかといえば、アスペルガー的な脳の働きは、実は私たちの幼少児にはごく自然に起きていることだということである。子供がモノに凝る、ということはある意味で自然だ。遊戯王カードや機関車トーマスの数多くの登場人物の名前をあっという間に覚えてしまうあの集中の度合いは「サバン的」とも言えるだろう。その勢いで虫に懲り、切手に懲り、カードゲームに懲り、ということを大人になっても続けていると、オタクと呼ばれてしまうわけだ。

2010年7月13日火曜日

オタクについて 4 オタクか、創造者か

やはり院生には悪いが、此処にキミたちのことを書く事は難しい。あえて書くとしたら、「●●さん、少しは●●●したまえ。」となってしまい、何のことだかわからなくなるだろう。結局登場するのは、カミさん(私のブログに興味がないから決して読まない)、両親(PCを持っていない)、そして私がアメリカで出会った人々(日本語が読めない)、うちの犬(チビ:ブログを読めない)に限られてしまうのだ。

オタク vs 創造する人、という図式で今度は創造する人を描写してみよう。創造する人はまず本や物語を読むのが苦手だ。面白さは多少はわかるが、「しょせん物語り,現実のほうがもっとすごいことが起きるだろう。」と思っている。学術書を読んでも、それが自分の専門だと、三分の一ページ読んだところで、「自分だったらこのように論旨を展開する」と書き直したくなり始め、先に進めない。彼はものを書くときも、それがかつて誰も言わなかったことであるほど、それに価値を置く。昔の人がすでに言ったことはあまり意味がないと思うし、そのために文献を渉猟することも面倒くさくなってしまう。物集めに凝る蒐集する、分類する、という事へのエネルギーは相対的に少なくなる ・・・・・。
この人物像は、実はイギリスの精神分析家D.W.ウィニコットのプロフィールに私が脚色を加えたものである。精神分析の歴史の中で、彼ほど創造的な仕事をした人はないであろう。そして彼は読書が上に書いた意味で苦手だったと言う。引用文献も少なく、エッセイのような論文の書き方をしている。それでいてその独創性から、後世に与えた影響は大きい。
では普通の人間はどうかと言えば、両方を少しずつ併せ持っていると言うことであろう。そしてIQ的な意味での知的水準が高いと言うことは、オタク的な、システムを吸収する力がそれだけ高いし、またそれが広い範囲に及ぶと言うことだろう。オタクの場合は、どのようなシステムに関心を持つかが限定されていることが多いが、IQの高い人間は、それが広い範囲に及ぶ。どの分野にも、そこに存在するシステムを取り入れ、その面白さを理解することが出来る。本が好きで、映画が好きで、いろいろ博識である。器用に物事を吸収していくが、そこに創造性は保障されはしない。

2010年7月12日月曜日

オタクについて 3 モノづくりではない

オタク現象は極めて興味深いし、ここのオタクは極めてユニークな人間であることが多いのだが、オタク現象と創造性とはかなりの距離があるといっていい。それどころか、オタクであることは創造的ではないこと、といってもいいように思う。想像がこれまでにない何らかの体系や形式を生むことに興味があるならば、オタクはすでにそこにある構造に魅了されて、さらに取り込んでいこうとする営みなのだ。たとえば昔ポケモンカードというのが流行った。子供たちは新しいポケモンが一挙に発表されたら、夢中になってキャラクターの違いを覚え、その個々の機能についても覚えこむ。「このプクリンって名前変だな。別のものにしよう」、などとは決して考えない。子供たちはその名前の奇妙さも含めて覚えこむのである。それは徹底した受身性の表れとみてよいだろう。
彼らが受身的に受け取るのは、ポケモンのキャラクターのような人工的なものばかりではない。自然もまたその対象となる。自然界に存在するものは独自のパターンとその変化の多様性を持つ。それがこたえられないのだ。すると例えば自分の集めているゾウムシの背中のしわの数が一つ多いだけで感動し、夢中になる。ここにもまた徹底した受身性がある。
このように考えると、オタクの興味の対象は創造性とは真逆の性質を有するということの意味が今一つわかるような気がする。彼らは自分でそれを作れてはいけないのだ。ミヤマカミキリには胸部に横皺があるという。<突然だが。>ミミヤマカミキリを一頭(と呼ぶそうだ)追い求めている虫屋は、しかし決して他のカミキリにサインペンで横ジワを書き入れて喜びはしない。それは自然から与えられなくてはならず、それをとるまではボルネオの原始林の中で、捕虫網を構えて何日も待つ覚悟があるのだ。
<なんか真面目になってきたなあ。集めてエッセイ集にしよう、などと思うからだ。>

2010年7月11日日曜日

オタクについて2

ところでもしマメさや几帳面さがS的な脳の働きの一つの表れだとしたら、女性はどうなのだろう?女性にもかなり几帳面な人がいる。私には、身近で仔細に観察できる女性は妻しかいないが(家庭円満の秘訣である)、かなりのマメさである。私は過去に妻と息子が家を空けて私だけが暮らす、という状況を何回か体験したが、そのたびに不思議に思うことがあった。しばらく私が普通に暮らしていると、リビングやトイレにほこりや細かいごみが溜まってくるのである。私は悪いことは何もしていない、ただ自然に普通に生活しているだけである。それなのに部屋が汚れるとはどういうことか?そして気がついたのだ。妻が毎日掃除をしていたのである!(気がつくのが遅い!)不思議なことはまだあった。風呂場の脱衣場にいつも積んである、奇麗にたたんだタオルが、使うごとに減っていくのだ!どうやら妻が毎日補給していたらしい。(気がつくのが遅かった!!)あとは汚れた皿が自然ときれいになっていない、脱ぎ捨てた衣服が自然とたたまれていない、などの発見を通じて、彼女が相当の仕事を毎日きちんとこなしていることを知ったのだ。これは相当のマメさだ!


妻はこんなエピソードも紹介してくれた。中学の頃、数学の試験の前の日に、三角定規を試験に持参するよう言われていたことを思い出した。そこで彼女は余った布で三角定規を入れる袋を作りだした。そして結局それに時間がかかって試験勉強ができなかったという。なんという几帳面さだ!!

しかし彼女に見られるマメさは,やはりオタク系のマメさとは明確に異なると考える。私はそれを「巣作り系の几帳面さ」と呼びたい。それは過程というすを整えるためのマメさなのだ。他方オタク系のマメさは実際の生活とはおよそ無関係なそれなのである。

2010年7月10日土曜日

心を入れ替えてエッセイを始める-オタクについて

オタクという概念,あるいは現象について少し考えてみる。精神医学的にも興味深いからだ。人にはシステム化することの面白さを感じる人たちがいる。というよりは私たちにはみなそのような傾向があるといえるだろう。そして名著「共感する女脳、システム化する男脳」でサイモン・バロン=コーエンが述べたように、相手に共感を感じるという能力は、若干それと排他的なあり方をするらしい。だから一方で人との付き合いに喜びを見出す社交的な人と、孤独でものを相手にすることが好きなシゾイド傾向の人とに別れるのだろう。彼の言うS(systemizing) 的な脳と、E(empathizing) 的な脳の働きの違いというわけだ。しかしもちろん両者を排他的なものをするのは極端で、大部分の人間は両方を少しずつ持っている。人とも適度に交わり、しかもモノにも興味を示す。それがむしろ普通だろう。そして両方に優れた能力を示す人もいる。
私はそんな人として,例えば養老孟司先生とか,福岡伸一氏のことを考える。養老先生は「唯脳論」で,福岡氏はベストセラー「生物と無生物のあいだ」で有名であるが,絶対にS 的な脳の持ち主であることを保証してくれることがある。無類の虫好きということだ。(虫好きで,しかも分類systematizing に興味をいないひとなどいないだろう。虫集めをする人間がかろうじて許されるのは,それをきちんと分類して標本箱に収めるからだ。もし彼らが集めた虫たちを無造作に引き出しにゴソッと入れておくような人間だったら・・・・・相当キモイ。)あとは話し方、見た目が普通なら、おそらくその自然さに応じてE 的と言えるだろう。だから、S,E を備えたオールラウンドの人たちなのだろう。しっかりE的であったら,S 的であることは決して悪いことはない。というよりもそのひとのE面を引き立てるような知的な風貌を与えてくれるだろう。ただし例外もある。どこかで読んだら,あの鳩●兄弟も虫仲間ということなのだ・・・・・。

2010年7月9日金曜日

居眠りのこと

仕事柄いろいろな講演や執筆があるが、今回は少し困っている。関係性理論についてのレクチャーだが、これが容易ではない。関係論、と言ってもピンと来ない方にはあまり意味がないが、知る人ぞ知る分析関係の理論である。どうして難しいかというと、理論が難しいというよりは、それなりに聞く人の興味をひくようなレクチャーを用意することが難しいのだ。講義を仕事の一分としてする人間にとっては、聴衆が明らかに飽きてしまうようなレクチャーは、それをする方も辛いものである。講義をするようになってよくわかるのは、聞いている人の覚醒状態だ。A君、私は知っているよ。私が少しでも理屈っぽいことを言うと、すぐまぶたが重くなることを。Bさん、私があなたが授業が始まってだいたい一定の時間にさしかかると、10分くらい「お休み」に入ることを。
私はとにかくよく寝る学生だった。高校の漢文の授業など、先生が授業の始まりにクラスに入ってくる時と、最後に出ていくときのことしか覚えていない、という講義がなんどもあった。だから私は寝る学生を責めることは一切ない。そんなことをするとバチが当たる。ただ多くの人に寝られると、ちょっとキツイ、というだけである。
寝る人の中で一番困るのは、体幹がフラフラ状態になる人だ。このような人はあまりいないが、いるとすごく周りが困る。
帰国したばかりの頃、形成で西船から西日暮里までの距離を朝早く乗ると、ある若い女性が座っていることが多かった。私がちょうど乗ることにしている両の、ちょうど私が座ることを目指している席あたりに、彼女はいた。そして彼女は、ふと眠気が差すとともに、体幹の力が抜けるようなのだ。すると体全体が倒れるようにして、一方に傾く。普通ちょっと眠いというのは、まぶたが閉じ、手に持っている雑誌を落としそうになったり、携帯の文字を押しつづけになる、というふうにして始まる。ところが彼女はその時すでに、フラーっと、隣の人に、ちょうど左右均等の確率で倒れかかる。(彼女なりの配慮、だろう。)私なこの女性を見ていると、腹がたって仕方がなかった。そしてある日、運命の日が来た。彼女の隣の席が開き、私が座ることになったのだ・・・・。(続く)

2010年7月7日水曜日

<解離、外傷> 四つのFという話

侵襲を受けた際の生体の反応は、よく二つのF、つまり fight or flight で言い表されるが、実は四つのFとすべきだという話である。
外界から侵襲を受けた場合、生体は非常に短絡的で原始的な反応を示すことが知られている。通常生体は通常は「逃げるか、戦うか」の選択を迫られる。Cannon (1915) という生理学者が脅威に対する反応として「闘争-逃避反応 fight or flight response」という概念を提出したのはおよそ100年前であった。それ以来この「闘争-逃避反応」は生体の侵襲に対する反応の有力なモデルであり続けてきた。そしてこの原始反応の概念には、外傷が人間に及ぼすさまざまな影響を知る上でのヒントが含まれていた。
その後トラウマに関する知見が増すに従い、心身の侵襲を受けた際の身体的な反応として、この「闘争-逃避反応」よりもう一歩詳細なモデルが示されるようになった。Bracha ら(2004)は侵襲に対する身体的な反応のプロセスを、さらにいくつかの段階に分けて記載している。そして結局二つのF(fight or flight)ではなく四つの F が関係しているとする。

その説によれば、最初は不動反射 freeze response とよばれる反応が生じるという。これは動物界に広く存在するもので、侵襲や攻撃を受けた生命体は一時的に「動きをやめ、目を凝らし、耳を澄まし」周囲を観察することで、同時に敵から見つけられる可能性を低める。その後に「闘争-逃避反応」が発動するわけであるが、生命体の自然の反応はまずは逃避であるから、本来は「闘争‐逃避 fight or flight」ではなく、「逃避-闘争 flight or fight」とすべきであろう。そして次に生じるのが、強直性不動 tonic immobility と呼ばれる反応もまた生じる可能性がある。これは英語では fright と表現すべきものであり、これはいわゆる偽死反応(「死んだフリ」)に相当する。(ややこしいことに、これを Freeze と呼ぶこともあるので注意を要する、という。)この種の反応は、昆虫、爬虫類等の下等な動物においても見られ、いわば解離の原型と考えられる(Schmahl, Bohus, 2007)。
以上の考察から、私たちは侵襲に対する反応として二つのプロトタイプを見ていることになる。第一は「闘争-逃避反応」に見られるような、相手や周囲に対する全力での攻撃(ないしは退却)という形を取る。そして第二は侵襲に対して身を硬くし、一切の動きを止めるという反応であり、上述の強直性不動がその例である。(あるいはそのような反応は意志の力を超えて、自然に起きてしまうのかもしれない。)

2010年7月5日月曜日

(承前)

揺り戻し、とはごく簡単にいえば、喜びに慣れてしまうということである。あることを獲得し、それに慣れていく、というプロセスは、それ自体は苦痛体験とは無関係なように見えるかも知れないが、実は過酷な試練ともいえる。これをよく知っているものは、ある成功を収めたと同時に「しまった!」と思うかもしれない。お笑い芸人のような人気商売を考えよう。売れる、ということは必ずいつかは落ち目になる、忘れられる、ということを意味する。盛者必衰、というわけだ。そしてそのプロセスが楽しいはずがない。そしてそれが人生の後になって否応なく訪れるのである。売れている喜びは、必ずそこから落ちることの苦痛となって帰ってくる。売れっ子であることに慣れる、ということはもっと悪い。喜びすら感じられず、あとは苦痛のみが約束されている。ただし売れっ子になったことで失われたもの(平穏な日常、など)が、落ち目になることで取り戻せる、などの場合は、もちろん話はそこだけ別である。
ところで昨日の説明で、積分云々というところが分かりにくい、という反応が読者からあった(ウソである。)そこで図を書いてみた。(本当は執筆が多く、こんなものを書いている時間はないのだ。)

この図のA領域の面積は、芸人が売れたことによるトータルの快である。Bは売れなくなった後の苦痛のトータルだ。売れた、というのは単に一時的なものではなく、実はこのような二次元的な体験である、ということをこの図により表現したかったのである。

明日から話題を変えよう、というよりしばらくは「仕事に合わせた」話題にしようと思う。

(とりあえず終わり。)

2010年7月4日日曜日

快楽の条件4 揺り戻しはかならずある

大阪から戻った。(っていうか日帰りだった。)千頭先生、大変お世話になりました。(自分の知らないところに自分を知って理解してくれる人の存在はとても嬉しい。本を書く事の大きなメリットである。私は金銭欲、名誉欲はおそらく人並み以下だが、製本(広い意味での)欲だけは見苦しいほどある。そこにはモノづくりの面白さも加わる。小学生の低学年から、夏休みの課題だけはほめられていた。毎夏意表をつく制作をして、それが9月の登校日に陳列されてクラスメートに受けることを喜んでいた。)

帰宅して早速テレビを付けてワールドカップのアルゼンチンードイツ戦を見ていると、アルゼンチンの意外なほどの大敗。メッシ無得点。いろいろな番狂わせのあるワールドカップである。そういえば岡田監督ほどワールドカップの前後で毀誉褒貶があった人もいないのではないか?これまでは監督としての能力が疑問視されていたにもかかわらず、ワールドカップで一勝すると、急に雰囲気が変わってきた。今ではもちろんかなり世論は好意的である。年齢も名前も似ている私としては、自然と彼の体験をより身近に感じるが、そこで思うのは、「私だったらこんな体験はまっぴらだ」である。

私にとってサッカーはかなり蓋然性の高いスポーツだが、たまたまホンダのシュートが上手くゴールの枠に入り(というか、たまたま彼のところにボールが飛んでいき)、試合に勝利すると「さすが本田」と言われる代わり、ボストに嫌われてそれ以外だったら申し分のないシュートが得点に結びつかないと、事実上忘れ去られてしまう。今回たまたま幸運が何度か重なり、岡田ジャパンはすごい、ということになった。私は岡田さんが本当はダメだ、と言っているのではない。それ以前にワールドカップの前の国際試合に負け続けたことも、どちらかと言えば不運であったということだ。だから岡田さんは、ワールドカップ以前は実際いかに評価され、以後は実際より高く評価されているということだろう。そしてその噂が彼の自尊感情を決定的に揺り動かしているであろうという理不尽さが我慢出来ない。だから「私だったらこんな体験はまっぴらだ」となる。もちろん岡田さんの人生を追体験すれば、ワールドカップのあとの高揚感も味わえることになり、その結果彼を「羨ましい」と感じるかも知れない。私も彼の今の状況を羨ましく感じていないわけではないが、無理やり喜びを味わされるのもまた迷惑なのだ。なぜなら喜びのあとには必ず「揺り戻し」が来る。かならず、である。これがたまらなく嫌である。

おそらく岡田さんはある程度達観していて、ワールドカップ以前にはさほど落ち込むこともなく、それ以後も過剰に舞い上がることなく、日々を過ごしているであろう。しかし一般人はかなり違うはずだ。その日上司になんと言われるか、その日自分の責任をもっている人や物がどのようなパフォーマンスを披露するか、に一喜一憂して毎日を送っているはずである。そしてこの種の感情の大波にさらされることなく毎日を過ごすためにしなくてはならないのは、ほとんど決まっていることになる。「その時その時の毀誉褒貶とは遠く離れたところに自己イメージを温存せよ。」そのためには新聞や雑誌をことさら見ないということすら必要かもしれない。ことによったらインターネットもいけない。何しろニュースのたぐいのサイトに行ったら、たちまち見出しに自分のことが描いてあるのだから。でもそうするしかない。確か麻生太郎氏だったか、あの国民からさんざん揶揄された数カ月間、彼は自分に対する報道を目にすることを避けたと言うが、この途方も無い不自然で防衛的な行動も必要になるのかも知れない。

では快の揺り戻しとは何か。いつか書いたことだが、快不快は一種のバランスシート上の数値のようなものだ。絵画刻まれた後には、急速に、あるいはゆっくりとそれが減衰し、あるいは揺り戻される。それは基本的には深い、苦痛体験だ。快の体験を瞬間瞬間の心地良さの時間積分の値だとしたら、その量が今度は不快体験の時間軸上の積分値が釣り合うまで揺り戻される。そしてこれは本人によって否応なしに行われる。唯一の例外は、快の体験の後に時間の流れが止まること、すなわち死が訪れることであろう。しかしそれが生じることで、苦痛の揺り戻しによる快が味わえないということにもなりうる。(続く)。

2010年7月3日土曜日

快楽の条件3

痛み、苦痛刺激。これらが快楽に変換されることもあるから、ややこしい。性的マゾヒズムもそうであるし、精神的なマゾヒズムもそれに当てはまる。(マゾヒズムを、性的sexual、精神的 moral に分けたのはフロイトだったが、わかりやすい分類だ。)
私にはまったくわからない世界だが、鞭にうたれてキモチがよくなってしまう人がいる。その場合痛み刺激は「入力」としての意味しか持たず、あるいは痛みとしてと同時に快感中枢も刺激することでキモチ良くなる。なぜかは誰も分かっていないが、「誰に鞭打たれているか」という認知が関与しているということは、前頭葉からのインプットが大きな役割を果たしている。鞭打ってくれるのが、若いお姉さんだからいいのであり、ふと見たら、髭面のおじさんが自分に鞭打っているとしたら、気持ちイイどころが腹がたつだろう。このように快感は精神的な影響がそのまま即物的な快楽につながる。その場合快感はほとんど性的な性質を帯びる。

精神的なマゾヒズムの場合、遥かに複雑な性質を持つ。精神的な意味での苦労(鞭打ちみたいな即物的な痛み刺激じゃなくてね。)が快につながるからだ。ただしこれも性的なマゾヒズムと似ていて、「ある現象」が起きていることになる。それは、痛み刺激が、快感中枢にも信号を送るという現象が起きるということだ。(わかったような、わからないような。)

今日は午後から大阪にいく。

2010年7月1日木曜日

(続き)

ところで脳の全体の働きが同期化したらどうなるのか? これは困ったことになる。てんかんの大発作、いわゆるグランマールと言われる病気がある。てんかんは部分性と全般性とがあり、全体性だと大脳皮質の広範にわたって発作波が出現するので意識がなくなる。いわゆるプチマールはそれがごく短時間繰り返し起きるだけで、全身運動に影響はないが、グランマールとなると意識を失うだけでなく、全身の激しいけいれんが起きる。

グランマールが起きている状態で脳波を取ると、かなりの広範囲にわたって、大波が出現し、しかも同期化している。つまりは脳波の同期化の極みは、グランマールやプチマールなどの全般性てんかん発作となる。カイカンなどとは程遠い!だから脳の活動のつながりが快感である、という原則がそのようなレベルにまで当てはまるはずはないのも確かである。快感の生まれる脳の興奮は、穏やかに広い範囲の脳が共鳴しているような状態であろう。それは・・・・・ややこしい表現をするなら、ある形式をその全体として把握している状態と言える。例えば美しい絵、感動する旋律、巧みに設えられた推理小説など。それらの全体がつながって感じ取られるような体験は、快感を生む。

そもそもあることを把握する、分かる、という体験もそうだ。数学の問題を読んでいても、最初は意味がつかめず、解決の糸口が見当たらない。それがある瞬間に全体が見えることがある。それが大脳皮質の広い範囲にわたって共鳴が生じた時だ。その逆を考えるのも分かりやすい。分かりにくい論文。駄作の小説。部分部分だけが脳の一部を興奮させるが、全体がつながらない。それが「何が言いたいのかわからない状態」である。よくかけていない論文とは、要するに美しくない、脳に快感を与えない論文のことである。